第十二話③ 背負っていた何かが、下りる
しばらくして、千が居間に入ってきた。
一は台所に立ったらしい。夕飯の下ごしらえをする水の音が、廊下の向こうから聞こえていた。千は一人で、裸足の軽い足音を立てて、律のいる居間に来た。
千は律の少し手前で立ち止まった。いつもの「別に」の距離。二メートルくらい。庭のほうを見ている。律のほうは見ていない。何かを見ているのか、何も見ていないのか、わからない立ち方だった。
律は何も言わなかった。千が何か言うまで待つことにした。この子は急かすと黙る。待てば、たまに喋る。
しばらくして、千が口を開いた。
「……律って」
小さい声だった。
「いつも誰かのこと見てるよね」
律は千のほうを見た。千はまだ庭を見ている。
「自分のことは、後回しで」
律の指が、畳の目の上で止まった。
千は昨夜のことを言っているのだろう。自分が崩れかけたとき、律がすぐ来たこと。好が暴走したとき、律が動いたこと。千はループを知らない。八十六ヶ月のことも、四十四ヶ月の観察のことも、知らない。知らないまま——「いつも誰かを見ている」ことにだけ、気づいている。口数の少ない子が、静かに見ていた。
「(……よう見てるな、千ちゃん)」
律は軽く返そうとした。「そうかな」とか、「気のせいちゃう」とか。いつものように、飄々と受け流そうとした。
でも千が、続けた。
「……覚えてないんだけど」
千の声が、少しだけ遠くなった。ゲシュタルト崩壊の子の、認識がぼやけるときの声に似ていた。でも暴走ではなかった。律の視界の端で、千の断片化する波が——奇妙な形に揺れていた。過去のほうに向かって、伸びようとしている波。
「なんとなく、ずっと前から……律のこと、知ってる気がする」
律の呼吸が止まった。
「何回も会ってる気がするの。覚えてないのに。——律って、前にもここにいた?」
律は答えられなかった。
千は理屈では何も知らない。ループの記憶は律とななせにしかない。でも千のゲシュタルト崩壊は——意味が崩れる法則は、時間の連続性そのものを微かに崩す。だから千の体のどこかに、ループの残滓がうっすら残っていた。九回分の記憶のない律。三回分の、千が「お兄ちゃんみたい」と言い続けた律。全部の律の残像が、千の中に、意味にならないまま沈んでいた。
「……気のせいかな」
千がそう言って、庭に視線を戻した。深追いはしなかった。千は自分の中に浮かんだものを、いつものように「別に」の側に押し戻した。
でも律は——押し戻せなかった。
千が二階に上がっていく足音を、律は畳に座ったまま聞いていた。居間には誰もいなくなった。台所の水の音も、いつのまにか止まっていた。一も奥に引っ込んだらしい。ななせも好も、それぞれの部屋にいるのだろう。
律は一人になった。
その瞬間——何かが、外れた。
千の言葉が引き金だった。「いつも誰かのこと見てるよね。自分のことは、後回しで」。「何回も会ってる気がする」。「前にもここにいた?」。——律の重さを何も知らない子が、律の重さの輪郭にだけ、うっすら触れた。
触れて、鎮めて、そのたびに胸の中が静かになった。好さんの暴走。千ちゃんの夜。ループの中の、数えきれない抑制。静けさはそのたびに積もって、律はそれを「平気」と呼んできた。落ち着いてるな。頭が回って助かるな。——そう処理して、出どころは考えないことにしてきた。
預けたままにしてきたものが、いま、まとめて返ってきていた。
千は知らないまま「見てる」と言った。律の孤独に、無自覚に、触れた。
律の視界が、ぼやけた。
「(……なんや、これ)」
目の奥が熱かった。のどの奥が詰まった。畳の目が滲んで、輪郭が溶けていく。律は自分の顔に手を当てた。頬が濡れていた。
「(なんで俺、泣いてるんや)」
わからなかった。悲しいわけではなかった。むしろ逆だった。ドミノは止まった。千は「行きたい」と言った。好は「いいこと」を書いた。全部、うまくいった。うまくいったのに——涙が止まらなかった。
八十六ヶ月分が、一気に来ていた。
ずっと平気だった。ことわりつきが効かなくて、暴走を止められて、冷静に観察できて、関西弁で軽く受け流して、「まあ、ええか」で全部処理してきた。それが律だった。平気な律。誰かを助ける側の律。
でも律は十六歳だった。
ずっと怖かった。失敗するのが怖かった。またみんなが壊れるのが怖かった。ななせをまた一人にするのが怖かった。その恐怖を、八十六ヶ月間、ずっと「平気」の下に押し込んできた。押し込んで、コントロールして、全部背負って。——それが、昨夜、終わった。ドミノが倒れなかった。初めて、成功した。
緊張の糸が、切れた。
律は畳に手をついた。声は出さなかった。出そうとしても出なかった。ただ涙だけが、ぼたぼたと畳に落ちた。肩が震えていた。制御できなかった。律の抑制能力は他人の暴走を止められるのに——自分の中で決壊したこの波だけは、止められなかった。
引き戸が、とん、と鳴った。
律は顔を上げなかった。上げられなかった。濡れた顔を見られたくなかった。
「律」
ななせの声だった。
足音が近づいてきた。いつもの距離ゼロで。律の目の前まで来て——止まらなかった。
ななせが律を抱きしめた。
律の頭が、ななせの肩に埋まった。ふわりと、太陽の香りがした。ずっと知っている香り。何度も感じたはずなのに、今日は——初めてのように、律の中に染みた。
「……見た。律が泣いてるの」
ななせの声が、律の耳のすぐそばにあった。
「一瞬、居間を覗いただけなのに。すぐわかった」
律は何も言えなかった。ななせの肩に顔を埋めたまま、震えていた。ずっと律は「触れて止める」人だった。好を止めて、千を止めて、一を止めて。触れて、止めて、離して。誰かの暴走を鎮める側だった。
今——初めて、逆になっていた。
律が触れられて、止まる側になっていた。ななせの腕の中で。ななせに抱きしめられて。律の決壊した波が、ななせの体温で、ゆっくりと収束に向かっていく。律が誰かにしてきたことを、今、ななせが律にしていた。
「律さ」
ななせが言った。ケロッとした声ではなかった。もっと柔らかい、素の声だった。
「ずっと平気なフリしてたでしょ」
律の肩が、びくりと動いた。
「私、知ってるよ。だって私も同じだもん。四十二年間、ずっとケロッとしてきた。ケロッとしてないと、保てなかったから」
ななせの手が、律の背中に回っていた。ぽん、ぽん、と、ゆっくり叩いていた。子どもをあやすように。
「律も、ずっとそうだったんだね。平気なフリ、上手だもんね。——でも、もういいよ。ドミノ、止めたんだから。もう、平気なフリしなくていいよ」
律の中で、何かが緩んだ。
八十六ヶ月間、律が誰にも言えなかったこと。誰にも見せられなかったこと。「本当は怖かった」という、たった一つの事実。それを——ななせだけが、知っていた。同じものを四十二年間抱えてきたななせだけが。
律は、ななせの肩に顔を埋めたまま、初めて声を出した。
「……こわかった」
小さい声だった。関西弁ですらなかった。ただの、十六歳の声だった。
「ずっと、こわかった」
「うん」
ななせが言った。
「知ってる」
律は泣いた。ななせの腕の中で。声を殺すのをやめて。ずっと抱えてきたものを、全部。ななせは何も言わずに、律の背中を叩き続けていた。太陽の香りが、律を包んでいた。
どれくらいそうしていたか、わからなかった。
やがて律の涙が、少しずつ落ち着いてきた。決壊した波が、収束していく。ぼやけていた視界が、輪郭を取り戻していく。律は、ゆっくりと顔を上げた。
ななせが、律の顔を見ていた。ケロッとしていない顔で。でもまだ、あの「初めての笑顔」ではなかった。もっと手前の、心配そうな、素のななせの顔だった。
「……ごめん。鼻水ついたかも」
律が言った。
ななせが、ぷっと吹き出した。
「最悪。せっかくいい雰囲気だったのに」
「事実やし」
「事実言うな〜」
ケロッとした声が、戻ってきた。でも律にはわかった。その声の下に、さっきの素のななせが、まだいる。
律は手の甲で顔を拭いた。目が腫れているのが自分でもわかった。でも——不思議と、体が軽かった。八十六ヶ月間、背負っていた何かが、少しだけ、下りていた。
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夕方になる前に、律は自分の部屋に戻った。
顔を洗ってきた。冷たい水で目を冷やした。鏡を見ると、まだ少し腫れていたが、もう泣いた跡はわからないくらいになっていた。
窓の外を見ていた。セオリア荘の窓から見える景色。住宅地の屋根と電柱と、その向こうに薄く見える空。大阪とは違う空だった。箕面の空のほうが山が近い。国立の空は平たくて、広い。
「(俺、なんでここにおるんやろ)」
改めて浮かぶ問い。三度目のセオリア荘。一度目は家賃が安いから来た。それだけのはずだった。でも——二度目は四十二ヶ月分の失敗を背負って来た。三度目は四十四ヶ月分の準備をして、ここが帰る場所だと知って来た。
帰りたい場所がある。それが三回目の律と、一回目の律の違いだった。
抑制能力。ことわりつきが律に効かない。律が触れると波が安定する。レベル1の接触。レベル2の可視化と核への干渉。——名前はついた。段階も見えた。でも「なんで俺にこの力があるのか」は、八十六ヶ月経っても答えが出ていない。
ななせのデジャヴがなぜ存在するのか。好の吊り橋効果がなぜ好に宿ったのか。一のバーナム効果がなぜ一の言葉に乗るのか。千のゲシュタルト崩壊がなぜ千の認識を壊すのか。——全部、理由がわからない。ことわりつきに理由はない。法則は法則として、そこにある。
律の抑制能力も同じだ。理由はない。あるのは事実だけ。律がここにいて、触れると波が安定して、暴走を止められる。それだけ。ことわりつきを消す力はない。呪いを解く魔法もない。
「なんで俺だけ平気なんやろ」
——いや。
律は、さっきの自分を思い出した。畳に手をついて、声を殺せずに泣いた自分を。ななせの肩で「こわかった」と言った自分を。
俺は、平気やなかった。
八十六ヶ月間、平気なフリをしていただけだった。ことわりつきが効かないのは事実だ。暴走を止められるのも事実だ。でも「平気」だったわけじゃない。ずっと怖くて、ずっと必死で、それを「まあ、ええか」で覆い隠していただけだった。
「なんで俺だけ平気なんやろ」——その問いの前提が、間違っていた。俺は平気じゃなかった。ただ、平気じゃないまま、ここにいた。それだけだった。
「(……そうか)」
なんで俺にこの力があるのか。なんで俺だけことわりつきが効かへんのか。理由は、なくていい。ことわりつきに理由がないのと同じで、俺の力にも理由はない。あるのは事実だけだ。俺がここにいて、みんなの暴走を止められる。それだけ。
「……まあ、ええか」
律は声に出した。
でもその「まあ、ええか」は、八十六ヶ月間覆い隠すために使ってきた「まあ、ええか」とは、違う響きをしていた。押し込めるための言葉ではなかった。手放すための言葉だった。
窓の外の空が、少しだけオレンジに染まり始めていた。夕暮れが近い。
「(理由はわからんでいい。わからんまま、ここにいる。それで——ええんちゃうか)」
律は窓から離れて、部屋を出た。夕暮れの居間に、みんながいるはずだった。




