第十二話② わかったうえで、隣に座る
午前中の居間は静かだった。
好がスマホを見ていた。テーブルの上にノートが開いてあって、統計の数式が並んでいる。いつもの勉強姿勢だった。でも今日は参考書ではなくスマホを見ている。
律はテーブルの反対側で本を読んでいた。読んでいるふりをしていた。実際には——好の波を視界の端で確認していた。心拍リズムは安定している。加速の兆候はない。昨夜の乱れは完全に消えている。好の波は——今朝、律が起きたときからずっと穏やかだった。
好がスマホのメモアプリを開いた。
律はそこで視線を戻した。本のページに。好のメモを覗くつもりはなかった。でも——テーブルを挟んだ角度で、好の画面がちらりと見えてしまった。
好の指が画面をタップした。「今日のどきどき:」と入力しかけて——止まった。
指が画面の上で止まっていた。三秒くらい。好の目が画面を見つめている。何かを考えている目だった。研究者の目ではなかった。もっと手前の——自分の中にあるものを確かめている目。
好の指が動いた。入力しかけた文字を消して——新しく打ち直した。
「今日のいいこと:」
律の指が本のページの上で止まった。
好はそのまま数秒間、画面を見つめていた。それから——何かを入力した。律の角度からは文字は読めなかった。読めなくてよかった。好が何を書いたかは好のもので、律が知る必要はなかった。
好が顔を上げた。律と目が合った。
「……見ないで」
好が言った。いつもの「見ないで」だった。でも——口元が笑っていた。視線をそらす速度がいつもより遅かった。好の心拍リズムは微かに上がったが、暴走の気配は一切なかった。ただの——照れの心拍だった。
律は本に目を戻した。
「(答えが出たわけやないけど。好さんは今日、「いいこと」を書いた。——よかったな)」
好がまたノートに目を落とした。統計の数式に戻っている。いつもの好だった。
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昼前。
ななせが律の隣に座った。居間のテーブルの角。ななせはいつもこの場所に来る。律の左側。
ななせは何も言わずにしばらく座っていた。アホ毛が窓からの光で揺れている。寝不足の影はまだ残っているが、朝よりは薄くなっていた。
「律」
「ん」
「昨日ありがとね。千ちゃんのこと」
「別に。やるべきことやっただけや」
ななせが笑った。
「律っていつもそう言うよね。やるべきことやっただけって」
「事実やし」
「うん。事実だね」
ななせがまた黙った。窓の外を見ている。七月の庭。雑草が伸びている。一が毎日水を撒いている庭。
「律といると」
ななせの声が少しだけ変わった。ケロッとした声の下に、芯が通った。
「デジャヴしても、ちょっとだけ怖くない」
デジャヴしても怖くない。ななせの言うデジャヴは猫が通るとか、スズメが飛ぶとか、そういう小さな現象ではない。四十二年分のループの記憶。二十二回の「定理過剰。リセット開始」。五十八歳分の孤独。その全部を背負った上で——律がいると、ちょっとだけ怖くない。
「(それは俺の抑制能力のせいなんやろか。俺の抑制能力が、ななせの波を安定させてるから? それとも——ただ俺がここにおるからか?)」
律はその問いを——手放した。
「(……まあ、どっちでもええか)」
どっちでもいい。俺の抑制能力のせいでも、ただ俺がいるからでも。ななせが怖くないなら、それでいい。理由は——なくていい。
「そうなんや」
律は短くそう言った。
ななせが律のほうを向いた。一瞬だけケロッとしていない顔が覗いて——すぐにケロッとした。
「そうなんやって。律のそういうとこ好き」
「はいはい」
「はいはい言うな〜」
ななせがアホ毛を揺らして笑った。四十二年分の記憶を抱えた十六歳の笑顔だった。いつもの笑顔だった。でも律にはわかる。いつもの笑顔の中に、昨夜からの安堵が混じっている。
律はふと——ななせの横顔を見た。アホ毛。まるい目。小さくて整った鼻。二十三回分の律の顔を覚えている横顔。律が知っているのはそのうちの三回分だけだ。残りの二十回分のななせを、律は知らない。二十回分のそれぞれの律に、ななせはどんな顔をしていたのか。「はじめまして」と言うたびに、何を思っていたのか。——律には、わからない。
でもそれでいい。わからないことは、もう怖くなかった。八十六ヶ月分の時間が律とななせの間にある。その時間の中で、律はななせの「ケロッとした」の厚みを知った。知ったうえで——隣に座っている。今もこうして。
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午後。
縁側に一と千が並んでいた。
二人の波が律の視界で隣り合っていた。一の穏やかな波紋と千の断片化する波。近くにいると千の断片化は少しだけ遅くなる。それは四十四ヶ月の観察で確認済みだった。今もそうだった。一の隣にいる千の波は、部屋で一人でいるときより穏やかだった。
千が口を開いた。
「……海」
小さい声だった。律の耳がぎりぎり拾える音量。千は庭を見ている。雑草の向こうの低い塀を見ている。塀の向こうの空を見ている。
千は前にも海の話をした。律が入居して数日目の午後。同じ縁側で。一が「千ちゃんって、海見たことある?」と聞いて、千が「見たことない」と答えた。一が「連れてってあげたい」と言って、千の波が跳ねて——暴走が始まった。三度のループの中で、千の崩壊のきっかけはいつもこの会話の近くにあった。
でも今は違う。今回は千のほうから言った。
「……海、行きたい」
律の呼吸が止まった。
千が——未来の話をしている。
あの夕暮れの縁側で千は「また、見えなくなるんだろうな」と言った。あれは過去の繰り返しへの予感だった。昨夜の縁側で千は「また、こうなると思う」と言った。あれも同じだった。千の「また」は呪いの音だった。繰り返しの予告。壊れることの予感。
今は——「行きたい」だった。まだ見たことのない場所に、行きたいと言っている。過去でも現在でもなく、未来に向けて言葉を使っている。千が未来について語った——最初の瞬間だった。
一が即答した。
「行こう」
一拍もなかった。千が「行きたい」と言い終わる前に、声が重なるくらいの速さで。一の波紋が——千のほうに向かって伸びた。一自身が選んで、千に向けて、差し出している波。昨夜の縁側と同じ形の波だった。
千が一を見た。一が笑っていた。ふわっとした笑顔。でも律の視界には——笑顔の奥にある波紋が見えていた。千にだけ向けられた波が、昨夜よりも少しだけ太くなっている。
千が少しだけ笑った。
小さな笑顔だった。唇が動いただけの、ほんの微かな笑み。でもそれは——律がセオリア荘で見た千の笑顔の中で、いちばん静かで、いちばん深いものだった。
千の波が揺れた。断片化は止まっていない。一に向かう波は相変わらず途中で砕けている。でも——砕ける前に一の波紋に触れた。ほんの一瞬。砕ける直前に、一に届いた。
律は引き戸の隙間から視線を外した。
「(「見たことない」が——「行きたい」に変わった。千ちゃんが、自分から未来のことを言った。一さんが即答で「行こう」と返した。——それだけで、あの二人は大丈夫や。そう思えた)」
居間に戻って、畳の上に座った。
縁側から蝉の声が流れ込んでいた。二人の声は聞こえなかった。聞こえなくていい。あそこは二人の場所だ。




