↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/42

第十話③ 何十匹もの黒猫が、走る夜

 千の崩壊は、好の暴走が止まった翌日に始まった。


 ここも前回と同じだった。千が一の顔を見て——固まる。六秒の空白。一の顔を認識するまでの時間が、昨日より長くなっている。ゲシュタルト崩壊が加速している。


 律は前回の経験を持っている。千の手を握れば表面は安定する。でも根っこには届かない。離せば戻る。それは確認済みだった。


 でも今回は——もう少し深くまで行けるかもしれない。ななせの波が見えている。好の波の輪郭が見えている。千の波が見えなくても、触れ方を変える手はある。


 律は試した。


 千の隣に座った。縁側で。千が庭を見つめている。膝を抱えている。前回と同じ姿勢だった。


 「千ちゃん」


 「……なに」


 「手、握ってもいいかな?」


 千は律を見た。三秒かかった。律の顔を認識するのに三秒。前回は一秒だった。崩壊の速度が——前回と微妙に違う。同じ結末に向かっているが、過程の速度が少しだけ速い。


 「……いいよ」


 律は千の手を取った。冷たかった。小さかった。十三歳の手だ。


 千の呼吸が少しだけ落ち着いた。表面が安定する。前回と同じだ。触れている間だけ——千の崩壊が止まる。でも。


 律は目を凝らした。千の波を見ようとした。


 見えなかった。


 ななせの波は視界の端で揺れている。好の波の輪郭はぼんやりと感じられる。でも千は——何もなかった。律の視界にも触感にも、千のことわりつきの気配がない。手を握っているのに。皮膚が触れているのに。波が見えない。


 「(——見えない。千ちゃんの波が見えん。ループの瞬間に千ちゃんには触れてなかった。ななせにだけ触れて飛んだ。好さんの波が見えるのは前のループのハグの痕跡。千ちゃんには——何もない。ことわりつきの最中に触れた履歴がない。だから見えない)」


 千の手を握ったまま、律は動かなかった。表面を押さえることはできる。でも核がわからない。千の崩壊のどこに原因があるのか、波が見えないから特定できない。手探りで握っているだけだ。前回と——同じ壁に当たっている。


 千が律を見た。目が合った。千の瞳に、かすかな困惑があった。


 「律って……なんか今日、怖い顔してる」


 「……そうか。ごめん」


 「謝らなくていい。ただ——なんか、必死な感じがする。何に必死なの」


 律は答えられなかった。千に真実を言えるわけがなかった。「千ちゃんはあと数日で一の顔がわからなくなって、セオリア荘を出ていく」——言えるわけがない。言ったところで何も変わらない。千の崩壊はことわりつきの暴走であって、情報で止まるものではない。


 律は千の手を握ったまま、庭を見ていた。雑草に光が当たっている。一が水を撒いた形跡がある。


 「(触れるだけで止められたのは好さんだけやった。千ちゃんには——もっと深い場所に届かなあかん。核が見えんと届かん。見えてへんもんは触られへんねん。当たり前のことを——四十二ヶ月かけて確認しに来たんか、俺は)」


---


 千が出ていったのは、十日目の午前二時だった。


 前回と同じ深夜。同じ玄関。同じ引き戸。


 「一さんが——好きだから」


 千の声は前回と同じ温度だった。平坦で、冷静で、十三歳の女の子がことわりつきの進行を記述する声。


 「好きになると、わからなくなるから。そうなる前に——」


 一の「行かないで」は前回より——声が高かった。微妙に。ループごとに過程が違う。結末は同じでも。


 千が出ていった。一が泣いた。律は廊下の角で見ていた。前回と同じ場所で。——今回も止められなかった。


 外部伝染が始まった。好が胸を押さえた。ななせにデジャヴの嵐が来た。犬が吠えた。国立の夜が歪み始めた。前回と同じ構造で——ドミノが倒れていく。


 律の視界の端で、ななせの波が激しく乱れていた。二重の波形が何十にも重なって、ノイズだらけになっている。前回は見えなかった光景だ。今は見える。ななせの波がどれほど荒れているかが——視覚でわかる。


 好の波の輪郭も——揺れていた。ぼんやりとした心拍のリズムが、際限なく加速している。好の暴走を一度止めたのに、ドミノの連鎖で再び不安定化している。


 見えている波が荒れている。見えない波は——推測するしかない。千の波がどうなっているか。一の波がどうなっているか。全部が同時に崩れていく音を、律は前回よりも鮮明に聞いていた。レベル2があるから。ななせの波が見えるから。見えている分だけ——何もできない自分が、前回よりはっきりと見えた。


---


 セオリア荘の外。住宅地の夜道。


 猫が走っていた。何十匹もの黒い影が、同じ方向に駆けていく。前回と同じ光景。犬の遠吠え。好が自分の両腕を抱きながら走っていく背中。一が千を探して夜道に消えていく後ろ姿。——前回と同じだ。全部同じだ。


 律はその場に立っていた。立ち尽くしていた。


 ななせが律の隣にいた。走らなかった。走る意味がないことを知っている目で、律を見ていた。


 「律」


 声が硬かった。


 「わかってた。止められないの、わかってた」


 「……うん。わかってた」


 律は夜空を見上げた。星が見えなかった。国立の住宅地の空は明るすぎる。あの映画で見た空はもっと暗かった。立川の空はもっと——物語の空だった。ここは物語ではない。現実の空だ。何回見ても星が見えない、現実の空。


 律は息を吸った。吐いた。


 「ななせ」


 「ん」


 「足りんかった。ななせの波しか見えてへん。好さんの輪郭がぼんやり見えてるだけで、千ちゃんの波は何も見えへん。千ちゃんの波が見えへんと——核に届かへん」


 ななせは黙って聞いていた。猫の列が二人の足元を走り抜けていく。


 「だから——もう一回ループする」


 ななせの呼吸が揺れた。かすかに。


 「次のループの瞬間に——千ちゃんに触れた状態で行く。千ちゃんの波が見えるようになれば、暴走の核に届くはず」


 ななせは律を見た。月明かりが落ちていた。ケロッとしていない顔のまま——ななせの目が、痛いほど真剣だった。


 「次は四十四ヶ月前に飛ぶ。——律に会えるまで、三年以上かかるんだよ」


 律は知っていた。四十二ヶ月の重さを、律は知っていた。十五ヶ月目に箕面駅でななせを待ったことを知っている。三十ヶ月目の土曜の夜に電話したことを知っている。四十二ヶ月が——どれだけ長いかを、体で知っている。


 「三年半って——長いな」


 ななせが小さく笑った。笑ったまま——声が揺れた。


 「……一人で三年待つよりは短いよ」


 律ののどが詰まった。


 一人で三年。ななせは三十五年間、それをやってきた。毎回のループで、律が来るまで一人で待ち続けた。二十ヶ月。三十ヶ月。四十ヶ月。長くなるたびに、一人の時間が伸びていった。律と連絡が取れるようになったのは二十一回目からだ。それ以前の二十回は——完全に一人だった。


 「(——三十五年間、一人で待ってたんや。それに比べたら——四十四ヶ月は、短い)」


 「ななせ。千ちゃんだけやない」


 ななせが律を見た。


 「一さんにも触れる。好さんにも触れる。全員に触れた状態で行く。——全員分の波を取りに行く」


 ななせの目が見開かれた。


 「全員——」


 「千ちゃんの波だけ取って行っても、一さんの反転を止められる保証がない。一さんの波が見えてないと反転の核がわからへん。好さんの波も——ぼんやりした輪郭やなくて、はっきり見えたほうがいい。全員の波を持って、もう一回やる」


 ななせは黙った。律の言葉を噛みしめるように。犬の遠吠えが遠くなっている。空気が変わり始めていた。定理過剰が近づいている。


 「……全員に触れた状態でリセットを迎える。それって——」


 「みんなを集める。居間に。今から」


 ななせが律を見た。ケロッとした仮面が——戻ってきた。三十五年分の経験値が、ここで機能していた。泣いている場合ではない。計画がある。やることがある。——ケロッとしなければ、動けない。


 「律。行こう」


 律は走り出した。ななせが隣を走った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。