第十話② 準備してきた俺の、二周目
三十ヶ月目。
三回目の桜が咲いた。律は高校に入っていた。箕面の高校。
通学路を歩きながら——律は時々、自分がどこにいるのかわからなくなることがあった。錯覚ではない。場所はわかっている。箕面の坂道。通い慣れた道。でも——ここにいる自分が本物なのかどうかが、ふとわからなくなる。十六歳の記憶を持ったまま十五歳の体で高校に通っている。同級生は新しいクラスに馴染もうとしている。律は苦も無く馴染めてしまう。馴染めてしまうことが——居心地が悪い。
ななせとは毎週電話していた。土曜の夜、決まった時間に。話す内容はほとんど日常だった。ななせが国立で食べたパンの話。律が箕面の高校で起きたくだらない出来事の話。並行世界の話は三回に一回くらいの頻度で出てきた。
「律、箕面って好き?」
「住みやすいとは思う。でも——帰りたい場所ではないな」
「……どこに帰りたいの」
律は答えなかった。答えなくても伝わっていることが、電話越しの沈黙でわかった。
視界の端で、ななせの波が穏やかに揺れていた。二重の波形のずれが、十五ヶ月目より小さくなっている。安定している。律がいることで——ななせの波が安定している。それは視覚で確認できた。
根拠のある安心を、律は初めて手に入れていた。
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四十二ヶ月目。
律はセオリア荘の前に立っていた。
黒板塀、瓦屋根、手入れされていない庭。三年半前に初めて見た景色と同じだった。同じはずだった。でも律の目には違って見えた。門の木の色。庭の雑草の背の高さ。一が水を撒いている形跡。全部が同じで、全部が少しだけ違う。四十二ヶ月分だけ古い。四十二ヶ月分だけ——手前にいる。
門をくぐり、玄関の引き戸を開けた。土間の奥に廊下が伸びている。靴を脱いで上がった。木の板張りの廊下を歩いた。砂壁のひび。低い天井。全部知っている。初めて来た時に見たものと同じだった。
廊下の突き当たりを右に曲がると——居間にななせがいた。
ななせは律が入ってきたのを見て——止まった。
「あ——」
アホ毛が揺れた。ななせの目が見開かれて——すぐに、ケロッとした。
「何回来ても、なんかデジャヴする」
律の視界の端で、ななせの波が動いた。二重の波形が一瞬だけ完全に重なった。ずれが消えた。そしてすぐに——もとの微妙なずれに戻った。
安堵の波だ、と律は思った。ななせの波が今の一瞬で何を示したのか——言語化するなら安堵だった。四十二ヶ月。ななせは国立で待っていた。毎週電話して、メッセージを送り合って、十五ヶ月目に大阪まで来て。でもセオリア荘で律を待つのは——電話越しとは違う重さがある。ここに律が来ることが、ドミノの始まりでもあるからだ。
「(二十二回目。——ここに来るのは二十二回目や。でもここに来た理由を覚えてるのは、初めてや)」
ななせが立ち上がった。いつものように距離ゼロで近づいてきて——立ち止まった。五十センチの距離で。
「おかえり」
小さい声で言った。ケロッとした口調のまま。でも目が——笑っていた。四十二ヶ月分の待ち時間が、その四文字に入っていた。
律は荷物を置いた。キャリーケースとリュックひとつ。三年半前と同じ荷物。新大阪から新幹線に乗って、立川で——あの映画の舞台をもう一度見に行って、それからここに来た。四十二ヶ月前の記憶がない自分は、あの街を「初めての東京」として歩いたはずだ。今の律は二度目だった。二度目の聖地巡礼は、前よりずっと短かった。早く——ここに来たかったから。
一が台所から出てきた。
「あ、新しい子だ。ようこそ。皆同一です」
律は息を呑みかけて——飲み込んだ。一の笑顔。ふんわりしたナチュラルウェーブ。柄杓を持って庭に出ようとしていた。九日間の記憶が律の中でフラッシュバックした。この人が泣いたこと。「なんで私の言葉はこうなるの」と崩れたこと。千を追いかけて夜道を走ったこと。——全部、覚えている。一は何も覚えていない。
「風間律です。よろしくお願いします」
声が震えなかったのは、四十二ヶ月の準備があったからだ。
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律がセオリア荘に来てから——時間は前回と同じように流れた。
好がいた。千がいた。一がいた。ななせがいた。五人の日常が、前の九日間と同じ構造で始まった。好の視線逸らし。千の「お兄ちゃんみたい」。一の味噌汁。ななせのデジャヴ。全部知っている。全部——前の九日間で見たものと同じだった。
ただ一つ違うのは、律の視界にななせの波が見えていることだった。
律はその波を見ながら過ごした。ななせの波は日常では安定している。二重の波形が穏やかに並走して、微かにずれている。ずれが大きくなるのは——デジャヴが来る直前だ。ななせがまだ何も言っていない段階で、律には波の変動でわかる。「何か来る」と。
好の波も——微かに見えた。
前回のループで好をハグした痕跡が、律の感覚の底に残っていた。はっきりとは見えない。ぼんやりとした輪郭。心拍に似たリズムの気配が、好の近くにいるときだけ触感として戻ってくる。ループの瞬間に直接触れていたわけではないから、ななせの波ほど鮮明ではない。でも——そこに「ある」ことはわかる。
千の波は見えなかった。
一の波も見えなかった。
律は知っていた。好の暴走が来ること。千がいつ崩壊し始めるか。一がいつフィルターを失い始めるか。ドミノのどの板がどの順番で倒れるか。——全部わかっている。わかっているのに、千の波が見えない限り核に届かないこともわかっていた。
でもまず——やれることからやる。
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好の暴走は八日目に来た。前回と同じタイミングだった。朝、台所で空気が変わった。ななせが足を止めた。一の声に熱がこもった。千が好のほうを見ていた。
律だけが平気だった。ここも前回と同じだ。
好が外に出た。距離を取ろうとして逆に通行人に影響が広がる構造も同じだった。律は追いかけた。大学通りのベンチに好が座っていた。動けなくなっていた。前回と——同じ場所。同じ姿勢。同じ蒼白な顔。
律は好の前に立った。
「俺には効かへん。大丈夫」
好が顔を上げた。
「律くん——どうして、そんなに落ち着いてるの」
前回の好はこの台詞を言わなかった。前回は「来ないで」と言った。微妙に違う。ループが同じ結末に向かうとしても、過程は完全には一致しない。ななせが言っていたことが、ここでも確認できた。
律は好の手を握った。冷たかった。前回と同じ冷たさだった。
「冷たいな」
「……私のせいで、みんなが」
律は好を抱きしめた。前回と同じように。両腕で。好の華奢な肩が強張って——ゆっくりと力が抜けた。暴走が収まっていく。好の近くの空気が穏やかになる。通行人が振り返らなくなる。
前回は手探りだった。なぜ止まったのかわからなかった。今は——ぼんやりとだけれど、好の波の輪郭が見えている。心拍に似たリズムが、律の腕の中で減速していくのが触感としてわかる。完全には見えない。でも——輪郭を追えば、止められる。
好の暴走は止まった。
好が律の胸に顔を埋めたまま、小さく言った。
「……なんか、律くんに抱きしめられると止まるの、二回目な気がする」
律の心臓が跳ねた。
「……それってデジャヴなん?」
「わかんない。気のせいかも」
好は顔を上げなかった。律は好の頭の上で息を吐いた。——好にも、残像のかけらがあるのかもしれない。
「(好さんは止めることができた。前回と同じ方法で。波の輪郭がぼんやり見えてる分、前回より確実やった。——でも、ここからや。ここから先が、前回と同じ結末に向かう)」




