第十話① 四十二ヶ月分の、やり直し
第十話「全部、見えた」
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太陽の香りがした。
洗濯物と味噌汁と、夏の縁側の——あの香り。
律は目を開けた。天井が見えた。白い天井。木目のない、平らな天井。セオリア荘の天井ではなかった。セオリア荘の天井は木目が走っていて、節が一つ、律の布団の真上にあった。ここには節がない。
知っている天井だった。
箕面の実家の、自分の部屋の天井。
律はゆっくりと起き上がった。部屋を見回した。勉強机。本棚。カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。中学のときに使っていた参考書が本棚に並んでいる。高校の教科書がない。
手のひらを見た。
小さい。自分の手が小さい。十六歳の手ではなかった。もっと華奢で、もっと肉づきが薄い。中学生の手だった。
スマホを探した。枕元にあった。画面を点けた。日付が表示された。
四十二ヶ月前だった。
「(……戻った)」
律は布団の上に座ったまま、スマホの日付を見つめていた。心臓が速い。自分の心臓の音を聞きながら——律は確認した。覚えている。全部覚えている。セオリア荘の九日間。ドミノの構造。ななせのループ。千が出ていったこと。一が泣いたこと。好が両腕を押さえて走ったこと。
ななせを抱きしめたこと。
太陽の香り。あの——縁側と洗濯物と夏の残り香。九日分のセオリア荘の香りが、ななせの髪に染みていた。あの香りを——覚えている。鼻腔の奥に残っている。箕面の朝の空気の中で、まだ消えていない。
「(覚えてる。賭けに——勝ったんや)」
指先に、ななせの体温が残っていた。パジャマの布越しに伝わった背中の温度。ななせの指が律の背中を掴んだ感触。しがみつくように——三十五年間、誰にもしがみつけなかった指が。
その感触が、まだある。
律は息を吐いた。長い息だった。四十二ヶ月前の箕面の朝に、九日分の記憶を持ったまま座っている。十三歳の体に、十六歳の頭が入っている。奇妙だった。腕が細い。足が短い。鏡を見なくても——十三歳だとわかる。三年半前の自分だ。
そのとき、律は気づいた。
見えていた。
視界の端で——何かが揺れていた。波。透明で、空気のように薄い波形。二つの線が重なりあっている。ほんのわずかにずれたまま並走する二重の波形。視線を動かしても消えない。目を閉じても——まぶたの裏で微かに残る。
律は息を呑んだ。
「(——ななせの波か!)」
デジャヴの波。同じ形が二重に重なって、少しだけずれている。反復の構造。「前にもあった」という記憶が波になったら、こういう形をしているのだろう。ななせのことわりつきの——形そのものが、律の視界の端に存在していた。
触れるだけの時とは違った。好の暴走をハグで鎮めたとき、律は手の下で好の法則が凪いでいくのを感じた。でもあのときは何も見えなかった。感触だけだった。今は——見えている。波の形が。ななせの法則の輪郭が。十三歳の自分の視界に、十六歳の夜に触れた人の波が焼き付いている。
「(触れるだけの時とは違う。——さしずめレベル2ってところか)」
律は手のひらを見た。小さな手。十三歳の手。この手でななせを抱きしめて、ループの中を一緒に落ちてきた。リセットの瞬間に触れていた人間の波が——こちら側に残った。ななせのデジャヴの波に乗って、律の記憶がリセットをすり抜けた。その副産物として——波が見えるようになった。
ななせの波は見える。目を閉じても見える。
自分の波は——見えなかった。
手のひらをどれだけ眺めても、そこには何も浮かばない。好さんの暴走を吸い込んだとき、あれはどこへ行ったのか。触れて鎮めるたびに胸の中に降りてくる、あの半段下がった静けさは、何と引き換えなのか。人の波が見える目になっても——自分のことだけは、何も見えない。
「(……見えんもんは、しゃあない)」
律は手のひらを閉じた。
鼻の奥に、香りが広がった。
焦げたような、でも嫌じゃない——砂糖と醤油が鍋の底で出会ったときのような、香ばしい香り。
「(……これ、久しぶりや)」
子どもの頃、たまにこうなった。初めて海を見た日。初めて新幹線のホームに立った日。経験したことのないものの前に立つと、鼻の奥にだけ、この香りが来た。誰に言っても伝わらなかったから、誰にも言わなくなった。小学校を卒業する頃には、来なくなった。世界から初めてが減ったからやと、思っていた。
それが——十三歳の体の中で、いま、戻ってきていた。
当たり前か、とも思う。記憶を持ったままリセットを泳ぎ切った人間なんて、たぶん世界の側にとっても初めてや。香りの一つくらい、出るやろ。
窓の外から、箕面の街の音が聞こえていた。鳥の声。車の音。この街で——これから四十二ヶ月を過ごす。
セオリア荘までの距離が、途方もなく遠かった。
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四十二ヶ月。
律がそれを「人生のやり直し」と呼ぶのをやめたのは、三日目のことだった。
ななせからメッセージが来た。短かった。
——生きてる?
律はスマホを見つめた。ななせの名前がメッセージアプリに表示されている。連絡先はループの前に交換していた。
律は返した。
——生きてる。覚えてる。全部。
一分後に返信が来た。
——やった。
もう一通。
——律。今どこにいるの。
——大阪の箕面市。実家の自分の部屋。十三歳やった。
——こっちも。国立にいるけど、セオリア荘にはまだ誰もいないの。一さんもまだ来てない。
——四十二ヶ月前やもんな。
——うん。
しばらく返信がなかった。律は画面を見つめていた。ななせが何かを打ちかけて消している気配がある。入力中の表示が点いたり消えたりしている。
来た。
——律の声、聞きたい。
律は通話ボタンを押した。
三コールで出た。
「——もしもし」
ななせの声だった。ケロッとしていない声。電話越しに聞くと余計にわかる。声の芯が震えている。
「もしもし。律です」
「……うん。わかってる」
ななせが笑った。小さく。電話越しの笑い声は少しだけ割れていた。
「ほんとに覚えてるんだ」
「覚えてるよ。ななせの——太陽の香りも覚えてる」
「……えっち!」
ななせが笑ったあと、すっと黙った。黙ったまま——電話の向こうで、鼻をすする音が聞こえた。一回だけ。小さく。
「ななせ。——泣いてるん?」
「泣いてない。花粉」
「まだ冬やで」
「……関西弁、やっぱ律だ」
ななせがまた笑った。今度は——少しだけ、ケロッとしていた。
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十五ヶ月目。
箕面の中学を卒業する年だった。勉強は楽だった。三年半先の内容を知っている頭で中三の問題を解くのだから当然だ。でも——楽であることが逆に気持ち悪かった。この教室の全員が初めて解く問題を、律だけが二度目を解いている。テストの点が良くなって、先生に褒められて、同級生に「いつからそんなできたっけ」と聞かれるたびに——ここではない場所にいる違和感が胃の底で重くなった。
国立に行きたかった。セオリア荘に帰りたかった。でも帰れなかった。四十二ヶ月が経たなければ——ドミノは始まらない。住人が全員揃わなければ、律がそこにいる意味がない。
視界の端で、ななせの二重の波形がずっと揺れていた。距離に関係なく見える。どこにいたとしても、ななせの波は律の視界にある。穏やかに揺れている日は——ななせが安定している。波形のずれが大きくなる日は——何かがあった日だ。律は波を見て、メッセージを送った。
——今日なんかあった?
——なんでわかるの。
——ななせの波が揺れてた。
——……律の能力、ちょっと怖い。
——怖がらせるつもりはないんやけど。
——怖がってないよ。嬉しいの。見えてる人がいるって。
十五ヶ月目の週末に、ななせが大阪に来た。新幹線で。「こっちに用事がある」と言ったけれど、用事の内容は聞いても答えなかった。律は箕面駅で待ち合わせた。ななせは少しだけ小さいアホ毛を揺らして改札を出てきた。手に本を持っていた。
「はい、これ」
本屋の袋に入った本。超ひも理論の入門書だった。
「前のループでも買ったんだけど、律がいるなら一緒に読みたいなって」
二人で箕面の滝道を歩きながらページをめくった。律が数式の部分を解説すると、ななせは「ふーん」と言って滝道の木漏れ日を見た。数式には興味がなかった。
「十一次元あるなら、この時間が元に戻る次元もあるかな」
ケロッとした声で言った。でも目は笑っていなかった。
「あったら俺が見つけたるわ」
ななせが律を見た。一秒だけ。それから——ケロッと笑った。久しぶりに。この十五ヶ月で、一番ケロッとした笑い方だった。




