第九話③ セオリア荘の時間が、巻き戻る
一が廊下に立ち尽くしていた。
引き戸は開いたままだった。夜の空気が台所まで流れ込んでいる。一は千が消えた方向を見ていた。笑顔はなかった。泣いてもいなかった。ただ——立っていた。
律が廊下の角から出た。
「一さん」
一が律を見た。一の目は——壊れかけていた。千を失ったという事実が、一の内側の一番奥まで到達している。律はそれを見た。見えたけれど止められなかった。
「律くん——千ちゃんが。千ちゃんが私のこと好きだって。私のことが見えなくなるから出ていくって。——私のせいで」
一の声が裏返った。
「私が千ちゃんに近づいたから。私が千ちゃんに海のこと聞いたから。私が『連れてってあげたい』なんて言ったから——」
「一さん——」
「なんで——なんで私の言葉はこうなるの。みんなに優しくしたいだけなのに。千ちゃんを傷つけるつもりなんてなかったのに。——なんで」
一の目から涙がこぼれた。一が泣くのを律は初めて見た。いつも笑顔だった。いつもみんなを包んでいた。その笑顔の下にある涙を、律はこの九日間で一度も見たことがなかった。
「私——追いかけなきゃ」
一が玄関に向かった。律も続いた。靴を突っかけて外に出た。門の外はまっくらだった。街灯がぽつぽつと並んでいる。住宅地の夜道。千の姿はもう見えなかった。
一が走り出した。走る一を目で追っていると——律の体の中で、何かが鳴り始めた。
皮膚の下で。好の暴走の朝に感じたものと似た、でもあのときより何倍も深い振動。セオリア荘の輪郭が崩れ始めている。屋根の下にいなくても感じる。ここから半径何十メートルかのどこかで——法則が漏れ始めている。
好が玄関に現れた。パジャマに上着を羽織って、走ってきた。
「律くん——私のことわりつきが」
好の声が震えていた。好は自分の胸を押さえていた。
「範囲が広がってる。セオリア荘の外まで——今、この道を歩いてる人に届いてる。制御できない」
律は好を見た。好の顔が蒼白だった。好は自分のことわりつきの範囲が広がっていることを、体で感じている。
ななせが走ってきた。最後に。パジャマにスニーカー。アホ毛が夜風で揺れている。
「律くん——デジャヴが」
ななせの声が——初めて、ケロッとしていなかった。
律はななせの視線を追った。ななせが見ている方向——住宅地の道路の端を、黒い影が走っていた。猫だ。一匹。二匹。三匹。四匹。途切れない列になって走っている。同じ大きさ。同じ速度。門の闇に消えて、次が現れて、消えて、現れて。
八匹を超えた。十匹を超えた。十五匹を超えた。
数えきれなくなった。
猫が——何十匹も。夜の道を、黒い列になって駆けていく。同じ方向に。同じ速さで。終わらない。
ななせが目を押さえた。
「多すぎる——こんなの、もう止まらない」
三十五年分のループで、ななせはこのレベルのデジャヴを知っている。知っているから——声が震えている。これが何の前兆なのか、律よりずっとよく知っている。
四人がセオリア荘の外にいた。千を探して。でも千はもう見えなかった。住宅地の夜道は暗くて、街灯の光が細い。道の向こうで——犬を連れた通行人が立ち止まっていた。深夜の散歩らしい男性が、好の方向をじっと見ている。好から何メートルも離れているのに。好のことわりつきの範囲に入っている。
国立の住宅地は、深夜のはずなのにざわついていた。どこかで犬が吠えている。一匹ではない。何匹もの犬が、見えない何かに反応して吠え続けている。律の皮膚の下で振動が鳴り続けている。セオリア荘を中心にして——何かが広がっている。好のことわりつきだけではない。千のゲシュタルト崩壊が空気に滲んでいる。一のバーナム効果が声にならない言葉として漂っている。複数の法則が干渉し合って増幅されて、この住宅地の夜を塗り替え始めている。
好が「一さん——!」と叫んで走る一を追いかけた。好は自分の両腕を抱きながら走っていた。自分のことわりつきが広がっていくのを感じながら、それでも一を一人にできなくて。二人の背中が大学通りの方向に消えていった。
律はその場に立っていた。追いかけたかった。一を止めたかった。千を見つけたかった。でも——律が走っても何が変わるのか。触れるだけでは止まらなかった。千の手を握っても根っこには届かなかった。構造が見えても手段がなかった。
猫の列はまだ続いていた。何十匹もの黒い影が夜の道を走り続けている。終わりが見えない。
ななせが律の隣に立っていた。走らなかった。走る意味がないことを——ななせだけが知っていた。
ななせが律を見た。
「律くん」
「……うん」
「始まっちゃった」
ななせの声は静かだった。諦めた声ではなかった。もっと手前の——事実を確認している声だった。二十一回目の確認。
「もう止められない。いつもこうなる。千ちゃんが出ていって、一さんが変わって、全部が外に漏れて——空気が変わる。声が聞こえる。そしたら全部巻き戻る」
律は立っていた。夜の国立市の住宅地。あの映画の舞台を見に行った立川の隣町。あのとき律は観客だった。今は——当事者だ。
「ななせ」
「ん」
「俺も一緒に行く」
ななせが律を見た。
月明かりが落ちていた。街灯の光と混ざって、ななせの顔を二方向から照らしていた。アホ毛の影が額に落ちている。ケロッとしていない顔のまま——ななせの目が見開かれた。
「律くん——次のループは四十二ヶ月前に飛ぶ。私に会えるまで、三年以上かかる。一人で。その間ずっと——何もできない。待つだけ」
「知ってる」
「知ってて——行くの?」
「行く」
ななせの呼吸が揺れた。ケロッとした仮面が——持ち上がらなかった。持ち上げようとして、持ち上がらなかった。三十五年間機能してきた防御が、たった二文字で裏返った。
「……律くんがそう言ってくれるの、初めて」
ななせの声はかすかだった。猫の足音よりも小さかった。
「二十回のループで、律くんはいつも最後まで頑張ってくれた。千ちゃんの手を握ったり、一さんを追いかけたり。でも——一緒に行くって言った律くんは、一人もいなかった」
律はその言葉の重さを受け取った。二十回。二十回分の律が、ここで止まった。ここから先に進んだ律はいない。ここが——分岐点だ。
「ななせ。行く方法がある。確実やないけど——筋は通る」
律は続けた。声を落ち着けた。考えながら喋った。
「ななせ。ループで巻き戻ったとき——俺の記憶はリセットされる。全員がリセットされる。ななせだけが覚えてる。二十回そうやってきた」
「……うん」
「でも俺には残像がある。十一回目以降のループで、九回分。覚えてないのに痕跡だけ残ってる。ここに来た理由がわからないのに来た。初日から好さんの視線の意味が読めた。千ちゃんの『別に』のトーン差を聞き分けた。——全部、九回分の俺がこの家で過ごした残像や」
ななせが黙って聞いていた。猫の列が二人の足元を走り抜けていく。
「あの残像は——俺の抑制能力がリセットに干渉した痕跡やと思う。触れてもないのに。何十メートルも離れた場所にいたのに。それでも九回分の記憶が断片になって残った。ことわりつきに対する俺の抑制能力は、リセットに対しても——わずかやけど、干渉してる」
ななせの目が変わった。三十五年間、一人で観察し続けてきた人間の目だった。律が言っていることの意味を——ななせは理解し始めていた。
「俺がななせに直接触れた状態でリセットが起きたら——干渉は最大になる。残像じゃなくて、全部残るかもしれん」
「かもしれない」ななせが繰り返した。確認するように。
「確証はない。でも——」
律はななせを見た。
「ななせのことわりつきはデジャヴや。『前にもあった』ことを覚えてなかったらデジャヴは成立しない。ななせの記憶がリセットされないのは、デジャヴという現象の構造的な必然なんや」
ななせがうなずいた。
「もし俺がななせに触れた状態でリセットが起きたら、俺の干渉波はななせのデジャヴの波と直接絡む。ななせの波には記憶を保持する構造がある。俺の記憶が——ななせの波に乗って、リセットをすり抜ける。九回分の残像が証拠や。あれが接触なしで起きたことなら、直接触れた状態なら——」
「……全部、残る」
ななせが言った。律の言葉を引き取るように。
ななせは少しだけ黙った。猫の列が道を埋め尽くしている。何十匹もの黒い影が、同じ方向に駆けていく。デジャヴの嵐の中で、ななせは——笑った。
ケロッとした笑い方ではなかった。もっと小さくて、もっと本当の笑い方だった。
「律くんが、そういうこと言ったの——二十回目にして初めてだよ」
「二十一回目や」
「……うん。二十一回目」
空気が変わり始めていた。猫の列が消えた。音が消えた。蝉の声も風の音も、好が走っていく足音も。すべてが遠くなっていく。世界の音量が下がっていく。
ななせの目が変わった。
「来る」
律は手を伸ばした。ななせの手を——
取ろうとして、止めた。
手では足りない。九回分の残像が手の届かない距離で生まれたなら、手を握った程度で「全部」が残る保証はない。確率を上げるなら——干渉面積を最大にするなら——
律はななせを抱きしめた。
両腕で。しっかりと。ななせの体は小さかった。律より少し低い背丈が、腕の中にすっぽり収まった。ななせの肩が強張って——すぐにゆるんだ。ななせの両手が律の背中に回った。パジャマの布越しに、ななせの指が律の背中をつかんだ。しがみつくように。三十五年間、誰にもしがみつけなかった指が。
太陽の香りがした。
ななせの髪から。昼間、縁側で過ごした午後の残り香。洗濯物を干した日差しの温度。セオリア荘の庭から吹き込む風の香り。九日間の日常が、ななせの髪に染みついていた。味噌汁と麦茶と、夏の香り。
律は目を閉じた。
「(——この九日間の、セオリア荘の香りや)」
腕の中で、ななせの心臓が鳴っていた。速い。律の心臓も速かった。どちらの心臓がどちらの音なのか、区別がつかなくなっていた。
ななせが律の胸に顔を押しつけた。声が聞こえた。小さい声。律の胸に当たって震える声。
「——律」
くん、がなかった。
二十回のループで、ななせは律を「律くん」と呼んできた。毎回の「はじめまして」から始まる関係で、それ以外の呼び方をする理由がなかった。でも——今、ななせは「律」と言った。くんを落とした。三十五年分の距離が、消えた。
律は答えなかった。答える代わりに、腕に力を込めた。離さない。
空気がさらに変わった。音が完全に消えた。猫も。風も。犬の遠吠えも。世界が呼吸を止めた。街灯の光がちらついた。国立の住宅地の、何でもない一角の、何でもない深夜が——静止した。
遠くから——声が聞こえた。
人の声ではなかった。どこからともなく届く、質量のない声。ななせが二十回聞いてきた声。律は初めて聞いた。温度のない声だった。感情がなかった。世界を巻き戻すための、事務的な宣告。
「定理過剰。リセット開始」
律の視界が白くなった。
腕の中のななせが律をきつく抱き返した。太陽の香りが——九日分の日常の全部が——律の肺を満たした。
最後に思ったことは——この香りを、覚えていたい、だった。
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九日目が終わった。
セオリア荘の時間が、巻き戻り始めた。




