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第九話② 午前二時、千ちゃんが立ち上がる

 夕食は一が作ったオムライスだった。


 千の好きなメニューだ。一がいつ千の好みを覚えたのかは知らない。でも一は覚えていた。千がオムライスを好きなことを。


 千はケチャップの文字を見つめていた。一がオムライスの上に描いた、小さなスマイルマーク。千は——ケチャップの線を、じっと見ていた。赤い線がスマイルの形をしているのはわかる。わかるけれど、それが「笑っている顔」という意味に繋がるまでに、数秒かかった。千の手がスプーンの上で止まっていた。


 空気が重い。夕食のテーブルに五人が座っていて、居間のテレビもついていなくて、たまに唸る冷蔵庫の音と蝉の声しかない。


 一が口を開いた。


 「ななせちゃん」


 ななせがアホ毛を揺らして顔を上げた。


 「ん?」


 一は笑顔だった。いつもの笑顔。でも——昨日の夕食で好に向けたのと同じフィルターの薄さが、今日はもっと広がっている。律にはわかった。一の笑顔が昨日より透けている。裏に控えている言葉が、笑顔の隙間から漏れかけている。


 「ななせちゃんって、いつもケロッとしてるよね」


 律のスプーンが止まった。


 ななせは笑った。


 「そうかな〜? ケロッとしてるつもりないけど〜」


 一が首を傾げた。穏やかな声で。


 「でもさ——ケロッとしてないと、持たないからそうしてるんでしょ?」


 台所が静まった。


 ななせの笑顔が——一瞬だけ、止まった。停止した。ケロッとした仮面のまま、中身だけが凍った。三十五年分の重さが表面に浮きかけて、沈んだ。ななせは「えー、何それ〜」と笑ったけれど、声の芯が消えていた。


 律は一を見た。一は不思議そうな顔をしている。自分が何を言ったか——わかっていない。


 「(バーナム効果の反転。——昨日は好さんだけやった。今日はななせにまで届いてる。範囲が広がってる。フィルターが剥がれるスピードが上がってる)」


 好がコーヒーカップを置いた。ことり、と音がした。好は一の横顔を見ていた。認知バイアスの研究者の目で。昨日、好自身がバーナム効果の名前をつけた相手の横顔を。


 一が今度は律を見た。


 「律くんは、みんなのこと心配してくれるよね」


 律の背中を冷たいものが走った。


 「でもさ——本当に心配なのは自分のことじゃない? ことわりつきがないのに、ことわりつきの人たちの中にいるの。それって——居場所がないのと、何が違うの?」


 律は答えなかった。答えられなかった。否定できなかったからだ。一の言葉が——真実を含んでいたからだ。俺はなんでここにいるのか。ここに来た本当の理由はわからない。ことわりつきを持たない自分が、ことわりつきの人間たちの中にいる意味。それを「居場所がほしいだけ」と言われたら——反論の言葉が出てこない。


 一はまだ止まらなかった。


 目が千を捉えた。


 「千ちゃんはさ——『別に』って言うけど、本当は別にじゃないよね。怖いんでしょ。近づくのが。近づいたら壊れるから。でもさ——離れたって同じだよ。逃げてるだけだよ。自分を守ってるようで、一番自分を傷つけてるの、千ちゃんじゃない?」


 千のスプーンがテーブルに落ちた。金属がテーブルの木目に当たる音が、静かな台所に響いた。千は動かなかった。動けなかった。一の言葉が千の中のどこに届いたのか、律にはわかった。千が誰にも言わなかったこと。「別に」の壁の向こうにあったもの。自分を守っている壁が、自分を一番傷つけている——千はそれを知っていた。知っていて、それでも「別に」しか言えなかった。


 一がスプーンを持ち直した。笑顔のまま。


 「なんか——みんなで暮らしてるけどさ」


 声が柔らかかった。いつもの一の声。みんなを包み込むような、あの温かい声。でもその声から出てきた言葉は——


 「みんな一人ぼっちじゃない!」


 テーブルが凍った。


 ななせはスプーンを握りなおした。好が目を閉じた。千が固まっていた。律は——呼吸を忘れた。


 一が言ったのは疑問文だった。「一人ぼっちじゃない?」と聞いているつもりだったのかもしれない。でも声は疑問文ではなかった。断言だった。この家で暮らしている五人が、一緒にいるのに一人ぼっちだという宣告。全員の核心を、たった一言で射抜いた。


 ななせは三十五年間、一人でループを繰り返してきた。好は自分の感情が本物かどうかわからないまま、一人で闘ってきた。千は深い関係が怖くて、自分から離れてきた。律は——居場所がわからないまま、ここにいる。


 そして一自身が——誰にも深く見てもらえない、最も深い一人ぼっちだ。


 一の言葉は嘘ではなかった。バーナム効果の反転が暴いたのは、全員が抱えている孤独の正確な形だった。


 「あれ——みんな、どうしたの?」


 一が首を傾げた。笑顔のまま。何を言ったか覚えていない顔で。


 好が立ち上がった。「……ごちそうさま」。今夜も静かに台所を出ていった。


 ななせが「ごちそうさまー」と言った。声は軽かった。ケロッとしていた。でもテーブルに手をついて立ち上がるとき、指が震えていた。律だけがそれを見ていた。


 千は——動かなかった。オムライスを半分残したまま、崩れたスマイルマークを見つめていた。赤い線の意味が、千の目の中で溶けかけていた。


 「(ドミノが——加速してる。一さんの反転が全員に当たった。全員が傷ついた。全員が動揺してる。ことわりつきの干渉バランスが崩れかけてる。——千ちゃんの崩壊。一さんの反転。二枚が同時に傾いてる。止められるのか。これを、俺が。触れるだけで足りなかったのに——何ができる)」


---


 夕食の後、セオリア荘は沈黙した。


 好は自室に閉じこもっていた。引き戸の向こうから音はしなかった。ななせは居間のソファに座ってスマホを見ていたが、画面をスクロールしている指が動いていなかった。画面を見ていない。何かを——待っている顔だった。


 一は台所で皿を洗っていた。いつもと同じ動作。でも蛇口の水の音だけが台所に響いていて、一は何も喋らなかった。洗い終わった皿をかごに置くとき、一の手が止まった。皿を持ったまま、窓の外の暗い庭を見ていた。


 千は二階に上がったきり降りてこなかった。


 律は廊下に座り込んでいた。何もできなかった。好に声をかけることも、ななせに「大丈夫か」と聞くことも、一の隣に立つこともできた。でも——何をしても、何を言っても、ドミノを止める手段にはならない。構造が見えているのに手が出せない。これが二十回分の律が感じてきた無力感なのだろうか。覚えていないけれど、この壁にぶつかるたびにリセットされてきた。九回分の残像は——この壁の前で立ち尽くした残像なのかもしれない。


 時計が十一時を指していた。律は部屋に戻り布団に入った。眠れないことは、入る前からわかっていた。


---


 深夜。午前二時。


 律が布団の中で天井を見つめていたとき、かすかな音がした。


 引き戸が動く音。廊下の板が軋む音。足音は一つ。軽い。小さい。——千だ。


 律は布団を出た。音を殺して廊下に出た。


 千が玄関に向かっていた。パジャマの上にカーディガンを羽織っている。玄関の引き戸に手をかけた。


 引き戸が十センチほど開いたところで——


 「千ちゃん」


 一の声がした。


 律は廊下の角で止まった。見えている。千が玄関に立っている。一が居間の端に立っている。パジャマのまま。起きていたのか——それとも千の気配で目が覚めたのか。


 千が振り返った。引き戸を掴んだまま。


 一は千を見ていた。笑顔ではなかった。夕食の席であの言葉を放った口が、今は何も言えないまま開いていた。


 「どこ行くの」


 千は答えなかった。引き戸を掴む指が白かった。


 「……別に」


 一が一歩、前に出た。


 「別にじゃない」


 一の声が変わった。夕食のときの、フィルターが剥がれた鋭い声ではない。もっと剥き出しの——怖がっている声だった。千がいなくなることを怖がっている声。一のことわりつきを通っていない、一という人間の声。


 千は引き戸を掴んだまま、一を見ていた。一の顔を。六秒かかった顔認識が——今は、もっとかかっている気がした。千の瞳が一の輪郭をなぞっている。必死に。目の前にいる人が誰なのか、わかっているうちに。わかっているうちに——言わなければいけないことがある。


 「一さんが——好きだから」


 千の声は平坦だった。「別に」と同じ温度で、致命的なことを言った。


 「好きになると、わからなくなるから。一さんのことも——きっとそうなる。もうなりかけてる。午後、一さんの顔を見て——誰かわからなくなりかけた」


 一が息を呑んだ。


 「六秒。六秒かかった。一さんの顔を思い出すのに。——明日はもっとかかる。明後日は——たぶん、戻ってこない」


 千の声は震えなかった。事実を並べている声だった。十三歳の女の子が、自分の呪いの進行を冷静に記述している。その冷静さが——律の胸を抉った。


 「一さんが怒ってるときの顔も、ごはん作ってるときの顔も、水撒いてるときの顔も——全部、わからなくなる。一さんの声は覚えてるかもしれない。でも顔は消える。名前も消える。一さんが『千ちゃん』って呼んでくれる声だけが、意味のない音になる」


 一の口が開いた。何か言おうとした。でも——言葉が出てこなかった。バーナム効果で誰の核心でも射抜ける口が、千の前では何も言えなかった。


 「そうなる前に——ここを出なきゃ」


 千が引き戸を開けた。夜の空気が流れ込んできた。蝉はもう鳴いていなかった。


 「行かないで」


 一の声が震えた。


 千は引き戸の向こう側に一歩出た。サンダルを履いた。振り返らなかった。


 「……ごめんなさい」


 千の背中が、門の方向に消えていった。


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