第九話① 見えているだけの手が、一番歯がゆい
第九話「一緒に行く」
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九日目の朝を、律は眠れないまま迎えた。
千が台所で眠っていた。突っ伏したまま、タオルケットをかけられて。律がかけたものだ。数時間前に。千の手を握って、文字が読めるようになるまで付き添って、千が眠ってから手を離した。あのとき——手を離した瞬間のことが、まだ指に残っている。
律は部屋を出て食堂に向かった。
一が台所に入って、千を見つけた。律はそれを廊下から見ていた。一は声を出さなかった。千の背中を少しだけ見て、タオルケットをかけ直して、ガスコンロに火をつける。いつもと同じ動作だった。でも——いつもより静かだった。
千が目を覚ましたのは、味噌汁ができてからだった。
「あ……」
千が顔を上げた。テーブルの上のノート。開いたまま。文字が並んでいる。千の目がノートに落ちて——一秒、二秒。三秒。
千の指がページに触れた。
「……読める」
声は小さかった。安堵なのか確認なのか、律には判別がつかなかった。眠ったことで崩壊が一時的に戻ったのか、それとも朝の光が何かを安定させたのか。どちらにせよ——昨夜の崩壊は現実だった。千は自分の名前が読めなくなった。それは消えていない。
朝食のテーブルに四人が座った。千は味噌汁を半分だけ飲んだ。箸には手をつけなかった。一が何も言わなかった。昨日の朝なら「今日も食べないの?」と言ったはずだ。言わなかった。
律はその沈黙を聞いていた。一が言葉を飲み込んだのか、それとも——言葉が別の形で出かかっているのを押さえているのか。どちらなのかが律にはわからなかった。わからないことが怖かった。
ななせが八時過ぎにパジャマで現れた。「おはよー」。ケロッとした声。律の隣に座って味噌汁に手を伸ばした。アホ毛がぴょこんと跳ねている。律と目が合った——一瞬だけ、ななせの目の奥に昨夜と同じ張り詰めたものがあった。声には出さなかった。ケロッとした顔の裏で、ななせは秒読みを始めている。二十回見てきた結末の気配を、もう感じ取っている。
律はななせの視線を受け取った。受け取って、何も言えなかった。ななせに「大丈夫」と言える根拠がなかった。
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午前十一時。
律が居間から廊下に出たとき、千とすれ違った。
千が律を見た。目が合った。——合ったはずだった。千の瞳が律の顔の上で止まっている。止まっているのに、焦点がない。昨夜の台所と同じ目だった。
「……」
千の口が動いた。何かを言おうとした。律の名前を。でも——出てこなかった。
一秒。
二秒。
三秒目に、千の目に光が戻った。
「あ——律。ごめん。なんでもない」
千はそのまま廊下を歩いていった。二階に上がる階段のほうに。律は千の背中を見ていた。銀髪が揺れている。十三歳の細い背中だ。あの背中の中で——ゲシュタルト崩壊が、一歩ずつ進行している。
昨夜は文字が読めなくなった。今は——人の名前が出てこなくなり始めている。ドミノの一枚目が傾いている。まだ倒れてはいない。でも、傾斜が昨日より深い。
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午後。
縁側に千がいた。膝を抱えている。昨日と同じ場所。同じ姿勢。
一が来た。千の隣に座った。昨日と同じ動線。でも——今日の一は、少しだけ座る位置が近かった。一メートルあった距離が、八十センチくらいになっている。無意識だろう。一は千のことを心配している。心配するほど距離が縮まる。距離が縮まるほど——千の崩壊が加速する。律は居間の奥から、その縮まった距離を見ていた。
一が千に話しかけた。何気ない声だった。
「千ちゃん、昨日台所で寝てたでしょ。風邪ひくよ」
千は答えなかった。庭を見ていた。律が昨夜かけたタオルケットのことを、千は覚えているだろうか。律の手の温度を覚えているだろうか。
千がゆっくりと顔を動かした。一のほうを向いた。
律の呼吸が止まった。
千の目が——一の顔の上で、泳いでいた。
焦点が合わない。一の目を見ているのに、一の顔を認識していない。名前が出てこないのではない。もっと手前の段階で止まっている。輪郭を見ている。パーツを見ている。でも——「一さん」という意味に繋がらない。
四秒。
五秒。
六秒目に、千の目が戻った。呼吸を吸い込む音が聞こえた。小さく。
「……一さん」
一は気づかなかった。六秒の空白に。一はただ千を見て「ん?」と首を傾げた。
千は何も言わなかった。視線を庭に戻した。膝を抱え直した。でも——千の指が震えていた。膝を抱える指が、白くなるほど力が入っていた。
律は居間の奥で、参考書を閉じた。
「(六秒。お昼前の俺の名前が三秒。一さんの顔が六秒。倍になってる。崩壊が加速してる。——千ちゃんは今、一さんの顔が見えなくなりかけた。自分がどこに向かっているか、わかってる。わかっていて——縁側から動けない。一さんの隣から離れられないんや。離れたら崩壊が進む。離れなくても崩壊が進む。どっちを選んでも同じ場所に着く。千ちゃんはそれを感じてる)」
「(俺に何ができる。昨夜、千ちゃんの手を握った。触れている間は安定した。離したら崩れた。あれが俺の限界やった。触れるだけでは根っこに届かん。表面を押さえるだけ。——好さんのバーナム効果の分析は正しかった。でも名前がわかっても止め方がわからん。千ちゃんの崩壊が起点になって、一さんの反転が連鎖する。構造は見えてるのに、手が届かん。見えてるだけの手が、一番歯がゆい)」
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夕方。
庭で一が水を撒き始めた。柄杓で雑草に水をやっている。いつもの日課だ。千はその背中を見ていた。一が水を撒くたびに、雑草の葉先が光る。夕暮れの残光が水に反射して、庭が一瞬だけ明るくなる。
千は縁側から一の背中を見ている。その目に、さっきの六秒の空白はなかった。今は——一が見えている。一の背中が、一の動作が、一の水撒きの癖が。全部見えている。でもそれは「今」の話だ。今日の夕方の「今」だけの話で、明日どうなるかはわからない。




