第八話③ 深夜二時の、崩れかけた千ちゃん
深夜。
律が目を覚ましたのは、二時過ぎだった。
何が律を起こしたのかわからなかった。物音はしなかった。蝉はまだ鳴いている。部屋の中は暗くて、天井の染みがうっすら見えている。八日目の天井。七日目と同じ染み。
でも——何かが違った。空気が違う。うまく言葉にできないけれど、この家の輪郭が揺らいでいるような感覚があった。皮膚の表面で感じる違和感。好の暴走の朝にも似た、でもあのときとは質の違う——もっと深い場所から来る揺れ。
律は布団を出た。裸足のまま廊下に出た。
台所に明かりはなかった。でも——人がいる気配がした。
台所の入り口に立つと、椅子に千が座っていた。電気はついていない。窓から入る街灯の光だけが、千の横顔を照らしていた。
千の前にノートが開いてあった。学校のノートだ。表紙にマーカーで名前が書いてある。千の手がノートのページの上にあった。
律は声をかけようとして——止まった。
千がノートのページを見つめていた。見つめているのに——何も読んでいない。千の目が文字の上を滑っている。何度も何度も、同じ行を目で追っている。でも、読めていない。目が文字の形をなぞるだけで、意味にたどり着けていない。
律の心臓が冷たくなった。
ゲシュタルト崩壊。
千のことわりつきが——動き始めている。
律は一歩、台所に入った。足音を殺さなかった。千に気づいてほしかった。
「千ちゃん」
千が顔を上げた。律を見た。でも——千の目が揺れていた。律の顔を見ているのに、焦点が合うまでに時間がかかった。一秒。二秒。瞳が迷子になっている。
「……律」
「眠れへんの?」
千はノートに目を落とした。手のひらでページを押さえている。指先が震えていた。
「……読めない」
「ん?」
「字が——読めない」
千の声は小さかった。暗い台所の中で、街灯の光に照らされた唇が動いている。
「さっきまで読めてたのに。自分の名前。自分で書いた字。なのに今、見ても——形はわかるの。線が並んでるのはわかる。でも、何が書いてあるかわからない」
律は息を吸った。音を立てないように。
「(千ちゃんのことわりつきが暴走しかけてる。文字が読めなくなってる。これが始まりや。ななせが言ってた——千ちゃんの暴走は、文字が読めなくなることから始まって、名前が出てこなくなって、最後は一さんの顔がわからなくなる。ドミノの一枚目。今、目の前で傾き始めてる)」
律はテーブルの向かいに座った。千の目がまだ揺れている。ノートの文字と律の顔を交互に見ている。何かにすがろうとしている目だった。
「千ちゃん。俺の顔、見える?」
千は律を見た。一秒。二秒。瞳が焦点を結ぶ。
「……見える」
「俺が誰か、わかる?」
千が少しだけ眉を寄せた。考えているのではなく——確認している。目の前にいる人間が誰なのか、わかっている自分を確認している。
「……律」
まだわかっている。律の顔はまだ認識できている。
律はテーブル越しに手を伸ばした。千の手に触れた。
四日目に好にやったことと同じだ。接触して、法則を鎮める。好のときはこれで暴走が止まった。好の吊り橋効果が鎮まって、通行人が振り返らなくなった。手を握って、「ことわりつきと関係ない温度」を渡した。
千の手は冷たかった。指先が氷のようだった。好の手が冷たかったのと同じだ。暴走しかけている人間の手は冷たくなる。体温が法則に吸い取られているのかもしれない。律にはわからない。でも触れた。指を重ねて、手のひらで包んだ。
千の目が——少しだけ、安定した。焦点が戻る。ノートに目を落とす。
「……あ」
千が小さく声を出した。
「読めた」
律の手を握り返している。指が細くて冷たかった。十三歳の女の子の小さくて柔らかい手だ。兄弟がいなくて、律を「お兄ちゃんみたい」と言った子の手。
律はほっとした。ほっとして——すぐに気づいた。
「(止まった?——いや。止まってない)」
好のときとは違う。好の暴走は、律が触れた瞬間に波が引くように収まった。効果が消えて、通行人が元に戻って、好がゆっくり呼吸を取り戻した。
千は——触れている間だけ読めている。
律は試しに、指をわずかに緩めた。千の手から力を抜いた。
千の目が揺れた。ノートの文字が——一瞬で意味を失う。千の顔に恐怖が走った。目が見開かれて、呼吸が浅くなった。
律はすぐに手を握り直した。千の目が戻る。文字が読める。呼吸が落ち着く。
「(足りてない。触れるだけでは足りてない。好さんのときは触れただけで法則が鎮まった。でも千ちゃんは——触れている間しか保ってない。手を離したら元に戻る。根っこが止まってない。表面を押さえてるだけや)」
千が律の手を見ていた。暗い台所で、二人の手が重なっている。街灯の光が千の横顔を照らしている。
「律——手、あったかい」
「……うん」
千が律の手を両手で包み込んだ。すがるように。
「離さないで」
律は離さなかった。千の手を握ったまま、テーブルの向かいに座り続けた。台所は暗かった。どこかで蝉が鳴いている。時計の秒針が動いている。
千の目はまだ揺れている。触れている間は安定しているけれど——安定しているだけで、治ってはいない。手を離せば崩れる。ガラスにヒビが入っていて、手で押さえている間だけ割れないのと同じだ。手を離した瞬間に——砕ける。
千が律を見た。揺れる目で。
「……一さん」
「ん?」
「一さんは——今、どこにいる?」
「一さんの部屋にいると思うよ。寝てるんちゃうかな」
千は少しだけうなずいた。うなずいて、ノートに目を落とした。文字は読めている。律の手が触れている間は、読める。
「一さんの顔——まだ、わかる」
律は何も言えなかった。「まだ」という言葉が、律の胸を貫いた。「まだわかる」は——いつかわからなくなることを、千自身が知っているということだ。自分のことわりつきがどこに向かうか。その先に何が待っているか。千は半分わかっている。わかっていて——「まだ」と言った。
「千ちゃん」
「……なに」
「明日も俺、ここにおるから」
千は律を見た。長い間。暗い台所で、街灯の光の中で。それから——少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれない。笑っていないのかもしれない。暗くてわからなかった。
「……ありがと」
律は千の手を握ったまま、台所にいた。どれくらいの時間が経ったのかわからなかった。千がテーブルに突っ伏して眠るまで、律は手を離さなかった。千の呼吸がゆっくりになって、指の力が抜けていく。眠った。
手を離した。
千の目は閉じていたから、文字が読めるかどうかは確認できなかった。眠っている間は——崩壊しないのだろうか。それもわからなかった。
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律は千の背中にタオルケットをかけて、台所を出た。
自室に戻る途中、廊下の窓の外を見た。庭は暗かった。猫はもういなかった。蝉だけが鳴いている。月が出ていた。昨日と同じ月。でも——昨日と同じ月の下で、千ちゃんの目は揺れていた。
部屋に入って、マットレスに座り込んだ。
「(……いや。変わってることがある。ななせが一人じゃない。俺が知ってる。好さんが分析した。千ちゃんの手を握った。足りなかったけど——何もしなかったわけちゃう。何かはした。何かをしたのに足りなかった。——なら、次はもっと深くまで届かなあかん。触れるだけでは千ちゃんの波の表面しか押さえられてない。根っこに触れないと止まらない。でも——どうやって?)」
怖い、と思うべき場面のはずだった。ドミノ。二十回のループ。全部が崩れる未来。なのに——恐怖がどこか遠かった。ガラス一枚向こうで鳴っている警報みたいに、あることはわかるのに、体に響いてこない。
「(千ちゃんの手、何時間握ってたんやろ)」
好さんのときもそうだった。触れて、鎮めて、そのあとしばらく、自分の中が静かになる。今夜は長かったぶん——静けさも深い。
「(……ま、取り乱すよりええか。今は頭が回るほうが助かる)」
律はそう処理した。処理して、先のことを考えた。静けさの出どころは、考えなかった。
律はまだ、答えを持っていなかった。




