第八話② 誰かのために使われた法則
夕方。
好が台所のテーブルに研究資料を広げていた。律が水を飲みに来たのを見て、好がちらりと顔を上げた。
「律くん」
好の声はいつもより低かった。勉強タイムの声ではない。何かを考え続けてきた末の、疲れた声だった。
「ちょっと、聞いてほしいことがある」
律は向かいの椅子に座った。好は資料のページを開いたまま、律のほうを見ていた。目をそらすまでの時間が——今日はいつもより短い。集中モードではなかった。
「一さんのこと」
律の手がコップの上で止まった。
好がコーヒーカップを回した。白い陶器の表面に指紋の跡が残っている。
「私、昨日から——いや、もっと前からかもしれない。一さんの言葉が変わってきてることに気づいてた。昨日の夕方、律くんに聞いたよね。『一さんの言葉、変わってきてない?』って」
律はうなずいた。好が昨日発した問いを、律は答えないまま流した。今はまだ——と思ったからだ。
「あの後、自分の研究資料を見返してた。認知バイアスの文献。私が二年間やってきたデータ」
好が資料のページをめくった。認知バイアスの分類表が並んでいる。細かい字の論文。マーカーで囲まれた項目がいくつかある。
好が一つの項目を指差した。
「バーナム効果」
律はその文字を見た。聞いたことのある名前だった。でも——この台所で、この文脈で、この名前が出てくるとは思わなかった。
心臓が跳ねた。
「(バーナム効果。——ななせが昨日「名前は今は言わないでおく」って言った。一さんのことわりつきの名前。好さんが——自分の研究から、独力でたどり着いた)」
「バーナム効果。聞いたことある?」
「……占いとかの話かな。誰にでも当てはまることを言われると、自分だけに当てはまってるって感じるやつ」
「そう」好がうなずいた。「星座占い、血液型性格診断、コールドリーディング。全部これ。『あなたは人前では明るく振る舞いますが、一人になると不安になることがあります』——こういう曖昧で誰にでも当てはまる文言を、相手が『自分のことだ』と受け取る現象」
好は資料から目を上げて、律を見た。
「一さんの言葉、ずっと気になってた。一さんが話すと、みんな『わかってもらえた』って感じる。私もそうだった。初めてここに来たとき、一さんに『好ちゃんは頑張ってるね』って言われただけで——自分のことを全部見てくれてるって、思った」
律は黙って聞いていた。
好の指が資料の縁をなぞった。
「でもあれは——バーナム効果だったんだと思う。一さんの言葉は、誰にでも当てはまるの。受け取った側が勝手に『自分だけに向けられた言葉だ』って解釈してしまう。一さん自身はたぶん、相手をよく見て言ってるつもり。悪意はない。意図もない。でも——結果的に、バーナム効果と同じ構造になってる。それが一さんのことわりつき」
律は呼吸を整えた。
好が言語化したことの重さが、台所の空気に沈んでいく。一のことわりつきは——バーナム効果。誰にでもしっくりくる言葉を、自然に投げている。受け取った側は「わかってもらえた」と思う。一の笑顔を疑わない。一の言葉で満たされて、それ以上踏み込まない。
だから——誰も一の「中」に入ろうとしない。
一は全員の外側を温めているのに、一自身の内側には誰の手も届かない。
「(「でも、ね」。一さんが昨日の夜、台所で言いかけた言葉。——あれは、これやったんか。好かれてるって、わかってる。「でも」——わかってもらえてない。誰にでもしっくりくる言葉を持ってるから、誰にも深く見てもらえない。ことわりつきが一さんを守ってるんちゃう。ことわりつきが一さんを孤立させてるんや。しかも一さん自身は気づいてない。気づいてないから——傷つき方が純粋で、重い)」
「それで——」
好がコーヒーカップを置いた。陶器がテーブルに触れる音が、静かな台所に小さく響いた。
「最近の一さんの変化は、これの反転だと思う」
「反転?」
「バーナム効果の反転」好が言った。声に力があった。研究者の声だ。自分の感情を一度棚に上げて、現象の構造を見ようとしている声。「通常のバーナム効果は、曖昧な言葉を相手が勝手に深く受け取る。一さんの平常時がこれ。でも最近の一さんは——曖昧じゃなくなってきてる。もっと具体的になってる。『疲れてない?』じゃなくて『最近笑ってないよね』。相手の深層を、正確に射抜く言葉が出てきてる。フィルターなしで」
律の頭の中で、ばらばらだったピースがカチッとはまった。
ななせが説明した暴走の構造。一の言葉が反転する。「誰にでも当てはまる言葉」が「相手の深層を暴く言葉」に変わる。全員に好かれる存在が——全員を傷つける存在に。しかも本人は気づかない。バーナム効果の裏面。
好の二年間の研究が、一の変化に名前をつけた。
「好さん」
「ん」
「気づいてくれて——ありがとう。俺だけやったら、名前をつけられんかった」
好が律を見た。少しだけ目を見開いて、それから視線を外した。外すまでの時間が——今日は長かった。
「……名前をつけたところで、一さんの暴走が止まるわけじゃない」
「でも——何が起きてるかわかる。わかれば、どこを押さえたらいいか、手がかりになるかもしれん」
好は何も言わなかった。コーヒーカップの縁を指でなぞった。好の指が細くて白かった。二年間、認知バイアスの論文を読み、データを取り、自分のことわりつきと向き合ってきた指だ。その研究が——今、一さんの変化を照らしている。好はそれに気づいているだろうか。自分の苦しみから始まった研究が、誰かのために使われたことに。
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夕飯は一が作った肉じゃがだった。
五人がテーブルについて食べ始めた。千は今夜も量が少ない。味噌汁を半分と、肉じゃがの人参を二つ。律は千の箸の動きを見ないようにしながら、自分の肉じゃがを食べた。
空気は穏やかだった。ななせが「一さんの肉じゃが最高ー」と言い、一が「お肉たくさん食べてね」と言い、好がコーヒーの代わりに今日は麦茶を飲んでいた。七日間繰り返されてきた、この家の夕食。
一がななせの茶碗におかわりをよそいながら、ふと口を開いた。
「好ちゃん」
好が顔を上げた。
一は笑顔のままだった。
「好ちゃんってさ、毎日メモ書いてるよね。スマホで。『今日のどきどき』ってやつ」
好の箸が止まった。
律の背中を冷たいものが走った。
「あれ、答え出た?」
台所の空気が——変わった。ななせのおかわりの手が止まった。千が顔を上げた。律だけが一を見ていた。一は好のほうを向いている。心配するような、不思議がるような顔。悪意はない。悪意がないことが律にはわかった。
好は箸を持ったまま、テーブルの木目を見ていた。何も言わなかった。
「ずっと記録してるでしょ。でもさ——答え、出ないんじゃない?」
一の声は柔らかかった。いつもと変わらない声。いつもどおりの距離感。でも——言葉が違う。
「本物かどうかって、記録しても確かめられないって——好ちゃん自身がわかってるんじゃないかな」
好の指が白くなった。箸を握り締めている。
「(バーナム効果の反転。——好さんが言った通りや。一さんの言葉が鋭くなってる。「答え出ないんじゃない」「わかってるんじゃないかな」——全部本当のことや。好さんが二年間闘ってきたことの核心を、一さんは食卓で三十秒で言い当てた。好さんの内側の一番柔らかい場所に、真正面から触れた。嘘やない。嘘やないから——刺さる)」
「(しかも一さんは自分が何をしたか、わかってない。好ちゃんのことを心配して、好ちゃんが毎日苦しんでることに気づいて、それをそのまま口にしてるだけ。フィルターが剥がれてるだけ。一さんのことわりつきが——暴走し始めてる)」
好が箸を置いた。静かに。
「……ごちそうさま」
好は立ち上がって台所を出ていった。足音が廊下を歩いて、自室の引き戸が閉まった。音はしなかった。好は音を立てずに引き戸を閉める人だ。でも——閉まったことだけが、空気でわかった。
一が首を傾げた。
「あれ——好ちゃん、怒った? 私、何か変なこと言った?」
ななせが「好さんちょっと疲れてたのかも〜」と軽く言った。いつものケロッとした声。でもななせの目は笑っていなかった。その顔の奥で——ななせの目だけが、律を見ていた。
律はななせの視線を受け取った。受け取って、小さくうなずいた。声には出さなかった。
「(ななせも気づいてる。一さんの変化に。ドミノの気配を知ってるんや。二十回見てきたから)」
千は何も言わなかった。肉じゃがの人参を箸でいじっている。食べていなかった。千の目は——一を見ていた。首を傾げている一の横顔を。自分が「何か変なこと言った?」と笑っている一の横顔を。
千は何を思っているのだろう。「この人が変わるのか」と思っているだろうか。それとも——「この人だけは変わらないでほしい」と思っているだろうか。
律には聞けなかった。
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夕飯の後。
律は縁側に出た。参考書を持ってきたが開かなかった。庭は暗くなり始めていた。夕暮れの残光が雑草の穂先を染めている。
庭の暗がりの中を——黒猫が横切った。
律は見ていた。黒い影が、庭の端から端へ駆けていく。門のあたりの闇に消えた。
一秒後。同じ場所から、同じ大きさの黒い影が——同じ方向に走った。
デジャヴだ。初日と同じ。一匹目と同じ速さ、同じ軌道で二匹目が門の闇に消えた。
——消えたその直後に、三匹目が現れた。
律の指が縁側の板を掴んだ。
三匹目の後ろに、四匹目。四匹目の後ろに、五匹目。黒い影が庭を横切り続けている。同じ大きさ、同じ速度で、途切れない列になって走っていく。六匹目。七匹目。
八匹目が門の闇に消えたところで、列が止まった。
庭が静かになった。蝉だけが鳴いている。
「あ——デジャヴ感じた」
ななせの声がした。居間の奥から。ケロッとした声。でも——律の耳には、その声の底に張り詰めたものが聞こえた。
「(八匹。初日は二匹。好さんの暴走の前は四匹。今夜は八匹。倍になっていってる)」
ななせが縁側に出てきた。律の隣に座った。いつもの場所。
「猫、見た?」
「見た。八匹おった」
ななせは少しだけ黙った。ケロッとした顔のまま、庭の暗がりを見ていた。猫の列が消えた方向を。
それから笑った。
「多かったね」
それだけだった。それだけしか言わなかった。でも律には——ななせが言わなかったことのほうが聞こえた。ななせは二十回のループの中で、猫の数と災厄の大きさの相関を知っている。八匹という数字が何を意味するか、律よりずっとよく知っている。知っていて——「多かったね」としか言わなかった。




