第八話① 千ちゃんの世界が、崩れ始める
第八話「また、こうなる」
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八日目の朝は、いつもどおりだった。
味噌汁の香りが廊下に満ちていて、一が台所に立っていて、蝉が鳴いていた。七日目と同じ朝。六日目と同じ朝。でも律の頭の中には、もう七日分の荷物が積み上がっていた。ループの全容。ドミノの構造。定理過剰。二十回。——寝て起きてもどこにも行かない数字と事実が、今朝も枕の横にあった。
着替えて廊下に出ると、姿より先に一の声が飛んできた。
「おはよー、律くん」
いつもの笑顔。いつもの声。律は「おはようございます」と返した。テーブルには四人分の朝食が並んでいる。好はもうコーヒーを飲んでいた。律と目が合うと、一瞬だけ外して、戻る。定着したリズム。
千が来た。テーブルの端に座る。いつもの場所。味噌汁を少しだけすすって、箸を置いた。
一が振り返った。
「千ちゃん、今日も食べないの?」
律は聞き逃さなかった。「今日も」。一はさらっと言った。でもその言葉の中に、観察の蓄積があった。六日目の「千ちゃん、あんまり食べてなかったよね」。七日目の「千ちゃん、最近笑ってないよね」。そこから一段進んでいる。「今日も」は記録だ。一が千の食事量を無意識のうちに追跡している。
千は「……別に。朝はいらない」と言って、麦茶だけ飲んだ。
一は「そっかー」と笑った。笑ったけれど、律は見ていた。一の口元が笑っているのに、目が笑い切っていないこと。昨日までの一とは違う。今日の一には——もう一言が控えている顔がある。言わなかった。言わなかっただけで、ある。
「(一さんのフィルターが薄くなってる。昨日の夕方よりもっと。千ちゃんについての観察が——整理されないまま口に出かけてる。ふわっとした距離感で相手を包む、あの感じが剥がれてきてる。一さん自身は気づいてない。いつもどおりのつもりで喋ってる。でも——言葉の刺さり方が日に日に変わってきてる)」
ななせが八時過ぎにパジャマで現れた。
「おはよー」
ケロッとした声。律の隣に座って、味噌汁に手を伸ばす。アホ毛がぴょこんと跳ねている。三十五年分の記憶を持ったまま、今朝も仮面を被り直して「おはよー」と言っている。律にはもう、その笑顔の厚みがわかる。
五人の朝食が進んだ。見た目は普段と変わらなかった。
でも律の目には——千の箸がテーブルの上で止まっていること。一の笑顔のフィルターが薄くなっていること。好がコーヒーカップの向こうから一の横顔を観察していること。全部が見えていた。
何かが、動き始めている。
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午後。
律は居間で参考書を広げていた。集中できなかったのは昨日と同じだ。統計の問題文の上を目が滑る。頭の中でドミノの因果チェーンが回り続けている。千が起点。一が連鎖。外に漏れて——東京が壊れる。ななせから聞いた構造が頭蓋骨の内側にへばりついて剥がれない。
ふと、縁側に目をやると、千がいた。
一人で座っていた。膝を抱えて、庭を見ている。昨日の午後、一の水撒きの跡を見に来たのと同じ場所。何を見ているのかわからない。何も見ていないのかもしれない。
一が居間を通って、縁側に出た。千の隣に座った。自然な動作だった。一にとって千の隣は定位置のようなもので、千もそれを拒まない。二人の間に一メートルほどの距離がある。近すぎず、遠すぎず。初日から変わらない距離。
律は参考書のページを開いたまま、二人の声を聞いていた。居間の奥にいるから、二人には律が見えていないはずだった。
「千ちゃん」
一の声は穏やかだった。今朝の「今日も食べないの?」とは違う。午後の日差しの中で、一の声はいつもの柔らかさを取り戻している。
「千ちゃんって、何が好き?」
唐突だった。でも一の唐突さはいつも唐突に聞こえない。声が空気に溶けるからだ。「何が好き?」という問いが、縁側の板の温もりに混じって、千の耳に届く。
千は少し間を置いた。
「……海、かな」
律は顔を上げた。千が「別に」以外の答えを返した。しかも——好きなものを口にした。
「見たことないけど」
千の声は小さかった。庭の雑草を見ながら、ぽつりと付け足した。テレビと写真でしか知らない海。十三歳の千が人生で一度も行ったことがない場所。
一が少しだけ目を丸くした。
「え——見たことないの?」
「……ない」
一が千のほうを向いた。体ごと。
「連れてってあげたい」
即答だった。
一のことわりつきを通った言葉なのか、一という人間の言葉なのか、律には区別がつかなかった。でもその言葉は——午後の縁側に、ぽん、と置かれた。軽く、明るく、何の計算もなく。一が千に向けた、剥き出しの好意。
千が固まった。
朝、箸を置いたときの固まり方とは違った。体が止まっているのではない——感情が止まっている。律は参考書から目を上げて、千の横顔を見た。千の目は庭に向けられたままだった。でも焦点がない。目の前にあるはずの雑草を、見ていない。
「(千ちゃん。——今、怖くなったんちゃうか)」
律にはわかった。七日間で見てきたものが全部繋がった。
千は深い関係が怖い子だ。仲良くなると、相手のことが「見えなくなる」。——大切に思えば思うほど、相手の顔が、名前が、意味を失っていく。だから千はいつも距離を取る。「別に」で壁を作る。二階の部屋に一人でいる。
でも一だけは——千が距離を取れなかった相手だ。一の隣に座ることをやめられなかった。「別に」の壁を、一だけがすり抜けてくる。
「連れてってあげたい」。
その言葉が千の中で何を動かしたのか、律には想像がつく。
この人と海に行きたい。
そう思った瞬間に、千の中でゲシュタルト崩壊の予感が走ったのだ。近づきたい。近づいたら壊れる。一さんのことを好きになればなるほど、一さんのことが見えなくなる。千はそれを知っている。知っているから——今、怖くなった。「海に行きたい」と思ったことが怖い。一さんともっと一緒にいたいと思ったことが怖い。
「(近づけば近づくほど——崩壊が近づく。ななせが言ってた。千ちゃんの暴走のトリガーは、深い関係への恐怖が臨界に達したとき。——今、臨界に近づいてる)」
一は千の固まりに気づかなかった。「海かー。いいね。夏だし。みんなで行けたらいいね」と言って、立ち上がった。「麦茶入れてくるね」。居間を通って台所に入っていく。律のすぐ横を通り過ぎたが、律が参考書を開いていたので何も言わなかった。
千だけが縁側に残された。
律は千を見ていた。千は膝を抱え直して、庭を見ていた。雑草が夏の日差しで影を作っている。蝉の声が午後の空気を震わせている。
千が小さく口を動かした。声にはならなかった。唇だけが動いた。
律には読み切れなかった。でも——形だけなら、「見えなくなる」と動いた気がした。




