第七話⑤ 三十五年分の、夕暮れ
夜。
縁側に出ると、ななせが座っていた。膝を抱えて、空を見ている。星が見えていた。国立の住宅地にしては、今夜は星が多い気がした。
律は何も言わずに隣に座った。三回目の夜の縁側。三回目にして、もう座る場所が決まっている。律が左、ななせが右。
しばらく黙っていた。蝉は夜になっても鳴いている。ただし朝より控えめだった。
ななせが口を開いた。
「人類が解明できてない分野に興味を持ち始めたことがあるの」
唐突だった。でも律は驚かなかった。ななせの話はいつも唐突に始まる。前置きなしで、いきなり核心に入る。三十五年分の話題の在庫があるのだ。前置きをしている暇はない。
「十五回目くらいのとき。ループがどうしても止まらなくて、じゃあそもそもこの時間が戻る仕組みって何なんだろうって思ったの。物理で説明できるのかなって」
律は隣を見た。ななせは星を見ていた。
「本屋で超ひも理論の本を買ってみた。宇宙は十一次元あるかもしれないっていう話。三次元と時間の四次元以外に、もっと小さな次元が折りたたまれてるんだって」
「……三十五年の中で、そんなこともしてたんか」
ななせがケロッと笑った。
「暇だったから。ループの待ち時間って、長いんだよ。二十回目なんか、律くんが来るまで三十九ヶ月待ったし。三年以上。一人で」
律は何も言えなかった。三十九ヶ月。三年以上。一人で。律が来るのを待ちながら。律が来ても、「はじめまして」から始めなければならないとわかっていながら。
「十一次元あるなら、この時間が元に戻る次元もあるかなって思って」
「……なかったけど」
軽く笑う。
律は笑えなかった。笑えなかったけど、泣く場面でもなかった。ななせがケロッとしているのだから、律がしんみりするのは違う。でも笑うのも違う。だから律は——ただ、隣にいた。
「(この子は、三十五年間、一人でそういうことを考えてたんや。この子のケロッとした笑顔の裏には、本屋で超ひも理論の棚を探す十六歳の女の子がいた。——いや、十六歳やない。十五回目。頭の中で勝手に足し算が走った。十五回目が終わる頃なら二十年。三十六歳分の記憶を持った十六歳の体で、超ひも理論の棚の前に立ってた)」
「次元の話、わかったん?」ぽつりと律が聞いた。
「数式は全然わかんなかった」ななせが即答した。「でも考え方は面白かった。私たちが認識できない次元がもしあるなら、私のデジャヴが時間を巻き戻すっていうのも、別の次元で起きてる何かが三次元に影響してるのかもしれないって」
「(……すごいな。三十五年間考え続けて、自分のことわりつきを理論的に理解しようとしてる。答えは出なかった。でもななせは考えることをやめなかった。ずっと)」
ななせが律のほうを向いた。
「律くんは理系?」
「うん。まあ、数学と物理は好きやな」
「じゃあいつか、一緒に超ひも理論の本読んでくれない? 数式のとこ」
律は小さく笑った。
「ええよ」
ななせが嬉しそうにした。ケロッとした嬉しさではなかった。もっと素直な、小さな嬉しさ。
「(ななせ。三十五年間一人でやってきたことを、誰かと一緒にやりたいって思ってる。超ひも理論の数式を。——そんなの、世界で一番贅沢な家庭教師の依頼やろ)」
星が見えていた。国立の空にしては、今夜は多い。
ななせが小さく言った。
「……ありがとね」
律は「ん」と返した。
ななせは「ごめん」と言わなかった。昨日と同じだ。ななせは律に対して「ごめん」と言わない。好も千も、自分の内側を見せた後に「ごめん」と言う。でもななせは——「ありがとう」と言った。昨日も今日も。
「(ループの中で、ななせが「ありがとう」を言える相手が何人いたんやろ。二十回のループで。二十人の律のうち、ななせに「ありがとう」を言わせた律は——何人おったんやろ。……もしかしたら、俺が初めてなんちゃうか)」
縁側の板が夜の冷気で冷え始めていた。昼間の日差しの温もりが消えて、木の地肌の温度に戻っている。
ななせが立ち上がった。
「おやすみ、律くん」
「おやすみ」
ななせが居間に消えた。アホ毛が廊下の暗がりに吸い込まれていく。
律は一人で縁側に残った。
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七日目の夜。
律は自分の部屋で天井を見ていた。マットレスの上。今夜も一人だ。背中が楽だ。でも頭の中は昨日よりもっとうるさかった。
ループの全容が見えた。千が起点。一が連鎖。法則が外に漏れて、東京が壊れて、声が聞こえて、巻き戻る。二十回。
二十回目のループで、ななせは「ここにいなさい。いつか来るから」という声を聞いた。
「(『いつか来る』は、俺のことなんやろか。根拠は何もない。でも——九回分の残像が俺をここに連れてきた。覚えてないけど、何かが残ってた。それが俺をセオリア荘に引っ張った。——偶然やない。ななせがここに来たのが偶然やなかったのと同じで、俺がここに来たのも偶然やない。たぶん)」
天井の染みが暗闇の中で浮かんでいた。六日目と同じ模様。でも七日目の律には、その模様の見え方が違う。六日目は「ループの存在」を知った夜だった。七日目は「ループの全容」を知った夜だ。
六日目に知ったのは——ななせが三十五年間一人で繰り返してきたということ。
七日目に知ったのは——その三十五年が、どういう構造で、何が起きて、どうなるのか。千が起点で、一が連鎖して、全部が壊れる。止める方法はわからない。十五回目で気づいた。何をしても変わらない。
でも——今回は違う。
ななせが言った。「二十回のループで、今みたいなこと言った律くん、一人もいなかった」。昨日の夕暮れに。
「(止める方法はわからん。でも——ななせは一人やない。今回は俺がいる。覚えてる律がいる。残像じゃなくて、今この瞬間のことを知ってる律がいる。それが何かを変えるかどうかはわからん。でも——何も変わらないと決まったわけでもない)」
七日目が終わる。
昨日は世界が変わった日だった。今日は——世界の形が見えた日だった。変わったのではなく、もともとあった形が見えただけだ。千の「見えなくなる」も、一の「でも」も、好の「楽になる」も、ななせの「ここにいなさい」も。全部、最初からそこにあった。律が見えるようになっただけだった。
右手の指先に、昨日のななせの体温はもう残っていない。でも——触れたという事実は残っている。
律は目を閉じた。明日は八日目だ。ループの重さを知ったまま、またあの朝の味噌汁の香りの中に入っていく。ななせのケロッとした「おはよー」を聞く。好の視線が外れて戻るのを見る。一の笑顔を見る。千の「別に」を聞く。
全部、前と同じだ。全部、前とは違う。
今日も、今日の分の重さを抱えたまま、律は眠った。




