第七話④ 今はまだ、その時期じゃない
夕方。
台所のテーブルで、律は参考書を広げていた。好がコーヒーを入れながら、自分の研究資料を隣に広げている。いつのまにかできた勉強タイムだった。好が統計の問題を解説してくれて、律が横で聞く。好にとっては教えることで自分の理解を整理する時間でもあるらしい。
好が赤ペンで律の参考書に書き込みながら、ふと手を止めた。
「律くん」
「ん」
「私——最近思うんだけど」
好は赤ペンを持ったまま、テーブルの木目を見ていた。目をそらしているのではなかった。何かを考えている目だった。
「律くんがいると——少し、楽になる気がして」
律の手が止まった。
好の声は平坦だった。でもいつもの「記録しておく」の声とは違った。記録ではなく、打ち明けに近い声。
「吊り橋効果のせいかもしれない。律くんの近くにいると心拍が安定するから、それを脳が『楽になった』と解釈してるだけかもしれない。でも——律くんといるとき、私、目をそらすまでの時間が長くなってるの。記録を見返したら、そうだった」
「(好さん。記録を見返してまでそれを確認したんか。自分の感情を数値にして、変化を追って。——でも今、打ち明けてるのは数値じゃない。「楽になる」っていう、数値にならない感覚のほう)」
律が何か言おうとしたとき、台所の入り口に一が立っていた。
「あ、ごめんねー、お邪魔しちゃった」
一が笑いながら入ってくる。冷蔵庫から何かを取り出す。
「でもわかるなー、その感覚。律くんがいると、なんか楽になるよね」
好が固まった。
律も固まった。
一は気づいていなかった。自分が好と同じ言葉を使ったことに。「楽になる」。好が悩みながら、記録を見返しながら、やっと口にした言葉を——一は事もなげに言ってのけた。いつもの笑顔で、いつもの距離感で。
好の目が一瞬だけ揺れた。そしてすぐにコーヒーカップに視線を落とした。
「(一さん。今の、好さんと同じ言葉やった。でも——一さんのは、ことわりつきを通して出てきた言葉なんちゃうか。一さんのことわりつきは、誰にでも当てはまる言葉を投げる。「楽になるよね」は、たぶん律に限った話ちゃう。一さんの近くにいれば誰でもそう感じるし、一さん自身もそう思ってる。——でも好さんの「楽になる」は違う。好さんは自分の法則と闘いながら、数値と感覚を照合して、やっとたどり着いた言葉や。同じ言葉でも、重さが全然違う)」
「(でも一さんは気づいてない。好さんがあの言葉にどれだけの時間をかけたかも、自分が同じ言葉を軽く使ったことの意味も。気づかないまま笑ってる。これが——ことわりつきか。一さんのことわりつきは、こういうかたちで人を傷つける。悪意はない。悪意がないから、よけいに)」
好がコーヒーを飲んだ。何も言わなかった。律も何も言わなかった。
一が冷蔵庫から野菜を出して、まな板の前に立った。夕飯の仕込みを始める。
「千ちゃーん、ちょっと手伝ってー」
千が台所に来た。一の隣に立つ。一が千に包丁を渡す。千が無言でにんじんを切り始める。一が「上手だね」と言う。千が「……別に」と答える。
一が千の横顔を見た。少し眉を寄せた。
「千ちゃん、最近笑ってないよね」
台所の空気が変わった。
千の包丁が止まった。にんじんの上で刃が動かなくなった。
一は笑顔のままだった。悪気はない。いつもの一だ。いつもの距離感で、いつもの優しさで、千の状態を見て、そのまま口にした。
でも——それは、昨日の「疲れてない?」「ごはんの量、減ってきてる」と同じだった。ふわっとした距離感のフィルターが薄くなって、観察結果がそのまま出てきている。
千は包丁を置いた。
「……別に。もともとそんなに笑わないし」
千は台所を出ていった。廊下を歩いて、階段を上がる。二階の引き戸がぴしゃりと閉まる音。
一が千の去った方向を見ている。
「あれ……また何か変なこと言っちゃったかな」
「一さん」
律が言った。一が律のほうを向く。
「千ちゃん、たぶん大丈夫ですよ。ちょっと一人になりたいだけやと思います」
一は「そっか」と笑った。笑って、まな板に戻った。でも——律は見ていた。一の目が、ほんの一瞬だけ、空洞になったことを。笑顔の奥で、何かが揺らいだことを。
好が小さな声で言った。「律くん」
律が好のほうを見る。好はコーヒーカップを両手で持ったまま、テーブルの木目を見ていた。
「一さんの言葉——最近、ちょっと、変わってきてない?」
律は答えなかった。答える代わりに、参考書のページをめくった。
「(好さんも気づいてる。好さんは認知バイアスの研究をしてる人や。人の言葉の微妙な変化には、俺より敏感かもしれん。——一さんの言葉がフィルターなしで出てきてること。好さんなら名前をつけられるかもしれん。でも——今はまだ、その時期ちゃう)」
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夕飯の後。
一が後片付けをしている。律が皿を拭いて棚に戻す。いつもの分担。でも今夜は、律のほうから一に声をかけた。
「一さん」
「ん?」
一がフライパンを洗いながら振り向く。
「一さんは——みんなのこと、好きですよね」
一は少し驚いた顔をして、それからいつものふわっとした笑顔に戻った。
「うん。好きだよ。みんな大切」
律は皿を拭く手を止めなかった。
「みんなに好かれてるって、自分でもわかってます?」
一はフライパンを流しに置いた。水を止めた。少しだけ間を置いてから、笑顔のまま答えた。
「……そうだね。なんとなく、わかってるよ」
「……でも、ね」
その先を、一は言わなかった。
フライパンを棚に戻して、ふきんで手を拭いて、「おやすみー」と言って台所を出ていった。廊下を遠ざかっていく足音。律だけが残った。手の中の皿はとっくに乾いていたのに、律は拭く手を止めたまま、一が消えた廊下のほうを見ていた。
「(「でも、ね」。——その先、なんやったんやろ。一さん、みんなに好かれてるってわかってる。でも「でも」がある。その「でも」の先に何があるんやろ)」
「(そうか、好かれてると、わかってもらえてるは、違うんやな。一さんは全員に好かれてる。でも——全員に好かれてるからこそ、誰にも深く見てもらえてないんちゃうか。ことわりつきのせいで、一さんの言葉は誰にでもしっくりくる。しっくりくるから、みんな安心する。安心するけど——それ以上踏み込まない。踏み込む必要がないから。一さんの言葉で満たされて、それで終わり。一さんの中にある「でも」には、誰も気づかない)」
「(俺は今日、気づいた。でも——気づいたことをどうすればいいのか、わからない)」
律は最後の皿を棚に戻して、台所の電気を消した。消してから、すぐには動かなかった。
台所は暗かった。窓の外に夜が来ていた。




