↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/42

第七話③ 柄杓の水が、土に沈む音

 昼を過ぎた。


 午後の光が傾き始める時間帯に、一が庭に出た。柄杓を持って。


 律は居間で参考書を広げていたが、集中できなかった。午前中のななせの話が頭の中で反芻されている。ドミノ崩壊。暴走の連鎖。定理過剰。リセット。二十回。——数字と事実が頭の中で渦を巻いていて、統計の問題文が入ってこなかった。


 ふと、縁側のほうで水の音がした。顔を上げると、庭で一が水を撒いていた。


 律は参考書を閉じて、縁側に寄りかかった。


 一の背中を見ていた。


 ナチュラルウェーブの髪が風に揺れている。シャツの背中にうっすら汗が滲んでいる。柄杓から落ちる水が日差しで光る。その背中は——穏やかだった。何も知らない背中だった。自分のことわりつきが暴走したら何が起きるか知らない。自分の言葉が人を傷つけることを知らない。二十回のループで、二十回とも変わってしまったことを知らない。


 「(ななせが言ってた。一さんの暴走は、千ちゃんを失う恐怖がきっかけになるって。千ちゃんが出ていったとき、一さんの中で何かが壊れる。大切にしてた水やりのリズムが狂って、ふわっとした距離感が剥がれて、中身がそのまま出てくる。——その中身は、本当のことや。嘘やないから、刺さる)」


 一が振り返った。律と目が合う。


 「あ、律くん。見てたの?」


 「ぼーっとしてただけです」


 「勉強疲れた?」一がふわっと笑う。「私もさ、水撒くと頭がすっきりするんだよね。なんかこう——単純作業って、いいよね」


 「(……単純作業。水を撒くこと。ごはんを作ること。みんなに声をかけること。一さんにとっては全部、同じ延長線上にあるんやろな。やらなきゃいけないからやってるんちゃう。やりたいからやってる。でも——やりたくてやってることの中に、ことわりつきが紛れ込んでる。本人は気づかないまま)」


 一が水を撒き終えて、柄杓を縁側の端に立てかけた。律の隣に座る。


 「今日の夕飯、何がいいかな。リクエストある?」


 「俺はなんでもいいですよ」


 「律くん、いつもそう言うよね。遠慮してるの?」


 「遠慮っていうか……一さんが作ってくれるもんは全部美味しいから、ほんまになんでもいいんです」


 一が嬉しそうに笑った。


 「そういうの、弟みたいで好き」


 律は笑い返した。


 「(この笑顔を守りたい、って思うのは傲慢なんやろか。でも——知ってしまった。知ってしまったから、この笑顔が前とは違って見える。一さんは何も知らない。知らないままでいてほしいとも思う。でも——知らないままでは、また同じことが起きる)」


 一が立ち上がって台所に戻っていった。律は縁側に残った。庭の雑草が水を吸って、少しだけ色が濃くなっていた。


---


 千が縁側に来たのは、一が台所に入った直後だった。


 律がまだ参考書を膝に乗せたまま座っていると、廊下の奥から足音がした。裸足の、軽い足音。千だった。


 千は律の二メートルほど先に立ち止まった。縁側の柱に手をかけて、庭を見ている。律のほうは見ていない。何かを見ているのか、何も見ていないのか、わからない立ち方だった。


 律は何も言わなかった。千が何かを言うまで待つことにした。


 しばらくして、千が口を開いた。


 「……一さん、水撒き終わった?」


 「うん。さっき台所に戻ったよ」


 千はうなずいた。うなずいて、でもその場を動かなかった。一の水撒きを見に来たのだろうか。律はそう思った。でもそれを聞くのはやめた。


 千が庭を見ている。さっき一が水を撒いた場所を。一の柄杓の軌跡が、地面の湿り気でまだ読めた。


 千の横顔は無表情だった。でも——いつもの「別に」の無表情とは違う気がした。何かを探している顔だった。


 台所から一の声が聞こえてきた。


 「千ちゃーん、麦茶飲むー?」


 千が振り返った。台所の方向を見た。一の声が聞こえた方向を。


 その瞬間の千の目を、律は見ていた。


 探していた。一の声を。一の存在を。一がどこにいるのかを——千は探していた。水撒きが終わったか聞いたのも、ここに来たのも、一がどこにいるのかを確認するためだった。


 「(千ちゃん、一さんのことを——探してる。いつもの「別に」の距離感とは違う。声がどこから来るか、気配がどこにあるか、無意識に追いかけてる。朝、ななせに聞いた話が、目の前で形になっていた。他の人なら流せる。でも一さんだけは——耐えられない。だから今、確認してるんや。まだ見えてるうちに)」


 千が律のほうを見た。目が合った。千は何も言わなかった。でも——律が何かに気づいたことを、千は感じたのかもしれない。


 「……なに」


 「なんでもないよ」


 千は少しだけ首を傾けて、それから台所に向かって歩いていった。「……飲む」と小さく答える声が聞こえた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。