第七話③ 柄杓の水が、土に沈む音
昼を過ぎた。
午後の光が傾き始める時間帯に、一が庭に出た。柄杓を持って。
律は居間で参考書を広げていたが、集中できなかった。午前中のななせの話が頭の中で反芻されている。ドミノ崩壊。暴走の連鎖。定理過剰。リセット。二十回。——数字と事実が頭の中で渦を巻いていて、統計の問題文が入ってこなかった。
ふと、縁側のほうで水の音がした。顔を上げると、庭で一が水を撒いていた。
律は参考書を閉じて、縁側に寄りかかった。
一の背中を見ていた。
ナチュラルウェーブの髪が風に揺れている。シャツの背中にうっすら汗が滲んでいる。柄杓から落ちる水が日差しで光る。その背中は——穏やかだった。何も知らない背中だった。自分のことわりつきが暴走したら何が起きるか知らない。自分の言葉が人を傷つけることを知らない。二十回のループで、二十回とも変わってしまったことを知らない。
「(ななせが言ってた。一さんの暴走は、千ちゃんを失う恐怖がきっかけになるって。千ちゃんが出ていったとき、一さんの中で何かが壊れる。大切にしてた水やりのリズムが狂って、ふわっとした距離感が剥がれて、中身がそのまま出てくる。——その中身は、本当のことや。嘘やないから、刺さる)」
一が振り返った。律と目が合う。
「あ、律くん。見てたの?」
「ぼーっとしてただけです」
「勉強疲れた?」一がふわっと笑う。「私もさ、水撒くと頭がすっきりするんだよね。なんかこう——単純作業って、いいよね」
「(……単純作業。水を撒くこと。ごはんを作ること。みんなに声をかけること。一さんにとっては全部、同じ延長線上にあるんやろな。やらなきゃいけないからやってるんちゃう。やりたいからやってる。でも——やりたくてやってることの中に、ことわりつきが紛れ込んでる。本人は気づかないまま)」
一が水を撒き終えて、柄杓を縁側の端に立てかけた。律の隣に座る。
「今日の夕飯、何がいいかな。リクエストある?」
「俺はなんでもいいですよ」
「律くん、いつもそう言うよね。遠慮してるの?」
「遠慮っていうか……一さんが作ってくれるもんは全部美味しいから、ほんまになんでもいいんです」
一が嬉しそうに笑った。
「そういうの、弟みたいで好き」
律は笑い返した。
「(この笑顔を守りたい、って思うのは傲慢なんやろか。でも——知ってしまった。知ってしまったから、この笑顔が前とは違って見える。一さんは何も知らない。知らないままでいてほしいとも思う。でも——知らないままでは、また同じことが起きる)」
一が立ち上がって台所に戻っていった。律は縁側に残った。庭の雑草が水を吸って、少しだけ色が濃くなっていた。
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千が縁側に来たのは、一が台所に入った直後だった。
律がまだ参考書を膝に乗せたまま座っていると、廊下の奥から足音がした。裸足の、軽い足音。千だった。
千は律の二メートルほど先に立ち止まった。縁側の柱に手をかけて、庭を見ている。律のほうは見ていない。何かを見ているのか、何も見ていないのか、わからない立ち方だった。
律は何も言わなかった。千が何かを言うまで待つことにした。
しばらくして、千が口を開いた。
「……一さん、水撒き終わった?」
「うん。さっき台所に戻ったよ」
千はうなずいた。うなずいて、でもその場を動かなかった。一の水撒きを見に来たのだろうか。律はそう思った。でもそれを聞くのはやめた。
千が庭を見ている。さっき一が水を撒いた場所を。一の柄杓の軌跡が、地面の湿り気でまだ読めた。
千の横顔は無表情だった。でも——いつもの「別に」の無表情とは違う気がした。何かを探している顔だった。
台所から一の声が聞こえてきた。
「千ちゃーん、麦茶飲むー?」
千が振り返った。台所の方向を見た。一の声が聞こえた方向を。
その瞬間の千の目を、律は見ていた。
探していた。一の声を。一の存在を。一がどこにいるのかを——千は探していた。水撒きが終わったか聞いたのも、ここに来たのも、一がどこにいるのかを確認するためだった。
「(千ちゃん、一さんのことを——探してる。いつもの「別に」の距離感とは違う。声がどこから来るか、気配がどこにあるか、無意識に追いかけてる。朝、ななせに聞いた話が、目の前で形になっていた。他の人なら流せる。でも一さんだけは——耐えられない。だから今、確認してるんや。まだ見えてるうちに)」
千が律のほうを見た。目が合った。千は何も言わなかった。でも——律が何かに気づいたことを、千は感じたのかもしれない。
「……なに」
「なんでもないよ」
千は少しだけ首を傾けて、それから台所に向かって歩いていった。「……飲む」と小さく答える声が聞こえた。




