第七話② ななせが、素の顔で笑った
午前中。
律が居間で参考書を広げていると、ななせが縁側から顔を出した。
「律くん、ちょっといい?」
声はいつものトーンだった。でも律にはわかった。この声の裏に、昨日の続きがある。
縁側に出た。七月の日差しが庭に落ちている。一が朝に水を撒いた跡がまだ湿っていた。蝉が鳴いている。ななせは膝を立てて座っていた。昨日と同じ場所。同じ姿勢。
律は隣に座った。
「昨日の続き、聞いていい?」
律が先に言った。ななせは少しだけ驚いた顔をして、それからケロッと笑った。
「うん。聞いて」
ななせの声が変わった。ケロッとした声から、一本の線のような声へ。昨日の夕暮れに聞いた声。感情を制御している声。でも今日は——少しだけ、昨日より軽かった。律が知ったからかもしれない。一人で抱えていたものを、誰かが受け取ったからかもしれない。
「昨日、『暴走が連鎖する』って言ったよね。その先の話」
律はうなずいた。
ななせが庭を見た。雑草の穂先が風に揺れている。
「起点は千ちゃん。千ちゃんのゲシュタルト崩壊が暴走するの」
律の背中に冷たいものが走った。千。あの子が——起点。
「仲良くなりすぎると、千ちゃんは相手が誰かわからなくなる。それがことわりつきの暴走。普段は自分から離れることで防いでるんだけど——何かがきっかけで、離れられなくなる。離れたくないって思っちゃう。そうなると、千ちゃんの周りで意味が崩れ始めるの。文字が読めなくなる。名前が出てこなくなる。一さんの顔を見ても——誰かわからなくなる」
「一さんの——」
「うん。千ちゃんがいちばんたいせつな人。一さんの顔がわからなくなるのが、千ちゃんにとってはいちばん怖いこと。でもそれが起きる。毎回」
律は昨日の千の言葉を思い出していた。「また、見えなくなるんだろうな」。あの「見えなくなる」は——一の顔が見えなくなることだったのか。
「千ちゃんが不安定になると、セオリア荘を出ていく。一人で、夜中に。毎回そう。行き先はないの。ただ——ここにいると壊れるから、出ていく」
ななせの声は揺れなかった。事実を並べている。二十回観測した事実を。
「千ちゃんが出ていくと、一さんが変わる」
律は昨日の夕方を思い出した。一の言葉がほんの少しだけ鋭くなっていたこと。ななせに「疲れてない?」と言い、千に「ごはんの量、減ってきてる」と言った。あれが——予兆だった。
「一さんのことわりつきは——名前は今は言わないでおく。一さんのことわりつきが暴走すると、言葉が変わるの。普段はふわっとしてて、誰にでも心地いい距離感で話す人でしょ。それが——反転する。相手のいちばん深いところを抉る言葉が、勝手に出てくる。しかも一さんは気づかない。自分が何を言ったか覚えてない」
律の指が縁側の板を掴んでいた。
「(好さんのときと同じや。好さんの暴走は吊り橋効果が範囲ごと拡大した。一さんの暴走は——言葉が反転する。どっちも本人の制御を離れてる。でも一さんの場合は、もっとたちが悪い。好さんは自分が暴走してることに気づいてた。一さんは——気づかない)」
「一さんの言葉が全員を傷つける。ななせちゃんは疲れてるでしょって言われる。好ちゃんは答えが出ないってわかってるでしょって言われる。千ちゃんは——言葉が届く前にもう出ていってる。ぜんぶ、本当のことなの。嘘じゃないから、刺さる」
律は黙って聞いていた。
「一さんが変わると、この家の空気が壊れる。千ちゃんの暴走と一さんの暴走が重なると——法則が外に漏れ出すの」
「外に——」
「好さんの吊り橋効果の範囲が広がって、通行人にまで届く。私のデジャヴが一気に増える。この家の中だけで干渉し合ってた法則が、壁を越えて、塀を越えて、国立の街に広がっていく」
律の頭の中に立川の街並みが浮かんだ。初日に歩いた、あの映画の街。あの街の通りを歩いているときは、こんなことは何も知らなかった。法則が漏れ出したら、あの街にも届くのだろうか。
「東京中が壊れるの」
ななせの声は平坦だった。
「ストーカーみたいな行動が起きる。知っている人の顔がわからなくなる。見たことのない人の核心を突く言葉が飛び交う。——社会が動かなくなる」
「……それが、二十回繰り返されたんか」
「二十回」
ななせが庭を見たまま言った。
「そして空気が変わるの。ぜんぶが止まる。音が消える。蝉の声も、車の音も、ぜんぶ。静かになって——声が聞こえる」
「『定理過剰。リセット開始』」
律の呼吸が止まった。
定理過剰。ていりかじょう。ことわりつきとは違う響きの言葉だった。ことわりつきは住人たちが使う日常語だ。でも今の言葉は——違う。どこかの誰かが使う言葉だった。管理する側の。
「それを聞いたら、ぜんぶ巻き戻る。この家も、国立も、東京も、ぜんぶ。私だけが覚えてる。声を聞いたのも私だけ。他のみんなは——何も覚えてない」
ななせの手が膝の上で動いた。指を組んで、解いて、また組む。
「二十回聞いた。あの声を。二十回。毎回同じ声。同じ言葉。同じタイミング。ぜんぶが壊れた後に、ぜんぶが巻き戻る直前に。——あの声だけが、静寂の中にある」
律は何を言えばいいかわからなかった。でも黙ってもいられなかった。
「止める方法は——ないん?」
ななせは少し考えた。
「わからない。十五回目くらいで気づいたの。何をしても結末が変わらないって。毎回ちょっとずつ展開は違う。千ちゃんが出ていくタイミングとか、一さんが変わるきっかけとか。でも最後は——必ず同じ。暴走が連鎖して、外に漏れて、声が聞こえて、巻き戻る」
ななせがケロッと笑った。でも律にはもう、その笑顔の厚みがわかる。
「でもね、二十回目のとき、ちょっとだけ違うことがあった」
律はななせを見た。
「二十回目のループ。四十ヶ月前に戻ったの。それまででいちばん遠くに飛んだ」
ななせが膝の上で指を組んだ。
「遠くに飛ぶと、目が覚める場所がセオリア荘じゃなくなるの。私がこの家に来たのは一年くらい前だから、それより遠くに飛ぶと、目が覚めるのは前に居候してた家。それは平気だった。ちゃんと覚えてる時期だったから。何度も戻ってるし」
「……二十回目は」
「もっと手前だった。居候を始めるより、前。——変な話なんだけどね、私、その頃のことをほとんど覚えてなかったの。自分がどこで寝起きしてたのかも、あやふやなくらい。でも、戻って、そこで何日か過ごしてるうちに、思い出していった。ああ、私ここにいたんだ、って」
ななせの声がかすかに変わった。一本の線の中に、微かな震えが混じった。
「それでね。ひと月くらいしたある日——迎えが来たの」
「迎え——」
「誰かが来て、私を国立まで連れてきて、セオリア荘の門の前に立たせたの。……たぶん、一回目のときも同じことがあったんだと思う。私がぜんぶ忘れてただけで。二十回目で初めて、その日をもう一回——覚えてる私のまま、経験したの」
「(……門の前。ななせがこの家に住み始めたんは一年前や。一さんもそう言うてた。ってことは、それより二年以上前に、ななせは一度、この家の前に立たされてる)」
「偶然じゃなかった。私がここに来たのは——偶然じゃなかったの」
「誰——」
「わからない。……ね、変なこと言っていい? その人の顔、見たはずなのに、思い出せないの。目の前にいたのに。並んで歩いたはずなのに。頭に残ってるのは——声だけ」
ななせが空を見た。七月の空。雲が流れている。
「その人、門の前で言ったの」
「『ここにいなさい。いつか来るから』」
律の心臓が跳ねた。
いつか来る。
その言葉が、律の中で何かに触れた。ループの残りカス。九回分の残像。覚えていない記憶の破片。ここに来るべきだったという直感。何かをせなあかんという衝動。全部が——その声に繋がっている気がした。
「(『いつか来る』。——俺のことか? 根拠はない。何もない。でも——ここに来た理由がわからなかった。九回分の残像がここに引っ張ってきた。それが——その声と繋がってるんやとしたら)」
ななせが律を見た。
「声の正体は、わからない。誰が言ったのかも、なんのために私をあそこに立たせたのかも。でもね——私、一年前にこの家に入ったとき、理由なんてなかったの。気づいたらここにいた、くらいの感じで。……理由、あったんだよ。ちゃんと。私が忘れてただけで」
「(……同じや。家賃だけちゃう理由。説明できへんまま、足だけが前に出てた。——ななせも、忘れた声に引っ張られて、ここに来たんや)」
「あの声だけが、二十回のループの中で、唯一『これは初めてだ』って思えたものだった」
律はうなずいた。うなずくしかなかった。
太陽が高くなっていた。庭の日差しが強くなって、雑草の影が短くなっている。蝉の声が厚みを増していた。
「ななせ」
律が言った。
「昨日の話も今日の話も、全部——俺が知ったところで、何かが変わるかはわからん」
ななせが律のほうを向いた。
「でも、一人で抱えてた荷物が、ちょっとだけ軽くなったんちゃうかな」
ななせは何も言わなかった。何も言わないまま、少しだけ笑った。ケロッとした笑顔ではなかった。もっと小さくて、もっと柔らかい。律が昨日と今日で二回だけ見た——素のななせの笑顔だった。




