配達不能とされた手紙
「クラリス・ヴェイン。あなたは、自分が何をしたのか分かっていますか」
中央局監察部の査問室は、やけに白かった。
壁も、机も、天井も。
窓のない部屋に置かれた長机だけが、黒く磨かれている。
その向こうに、三人の職員が座っていた。
中央にいるのは、監察官レオンハルト・グライス。
銀縁の眼鏡をかけた痩せた男で、怒鳴りはしない。ただ、ひとつひとつの言葉を、判決文のように置く。
右隣には、配達不能判定課の課長、マルタ・キール。
灰色の髪を後ろでまとめ、指先ひとつ動かさずに書類を見ている。
左には、クラリスの元上司であるオルヴィン・バルトが座っていた。
彼だけは、こちらを見ていない。
机の上に置かれた封筒を、ずっと見ていた。
部屋の隅では、若い記録官が羽根ペンを握っている。
名札には、テオ・ランズとあった。
クラリスは、彼らの前に立っていた。
郵便魔女の外套は、すでに取り上げられている。
空を飛ぶ者のために軽く仕立てられた、深い緑の外套。
肩からそれが消えただけで、身体の重さが変わった気がした。
この国の郵便は、空に支えられている。
風路。
そう呼ばれる魔力の流れが、町と町、国と国、山村と港をつないでいる。
郵便魔女は箒でその流れに乗り、地上の街道では間に合わない手紙を運ぶ。
ただし、風路はただの道ではない。
強まる日もあれば、痩せる日もある。
風標と呼ばれる灯が流れを示し、中継塔が風の乱れを整える。
それらが消えれば、空の道は少しずつ読めなくなる。
読めない空を飛べば、郵便魔女は落ちる。
だから中央局は、危険な風路を閉鎖する。
配達員を守るために。
郵便網を維持するために。
そして、届かない手紙に、赤い判を押す。
配達不能。
クラリス・ヴェインは、その判が嫌いだった。
「分かっています」
クラリスは答えた。
「高棚共同区から中央局宛てに出された異議申立書を、期限内に配達しました」
マルタ・キールの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「それは、こちらで配達不能と判定された郵便です」
「存じています」
「では、なぜ届けたのですか」
クラリスは、机の上に置かれた封筒を見た。
厚い公用封筒だった。
角は風に削られ、封蝋にはひびが入っている。
表には、赤い判が押されていた。
配達不能。
ずいぶん便利な言葉だ、とクラリスは思った。
押せば、それ以上誰も飛ばなくてよくなる。
押せば、返事を待つ者の顔を見なくて済む。
押せば、風路が本当に死んだのかどうか、もう確かめなくて済む。
「見捨てないでください、と言われましたので」
記録官テオの羽根ペンが、紙の上で止まった。
レオンハルトは表情を変えない。
マルタは、静かに息を吐いた。
「それは配達理由にはなりません」
「郵便官には、十分な理由です」
クラリスが答えると、室内の空気が一段冷えた。
オルヴィンが、ようやく顔を上げる。
「クラリス」
その声には、叱責ではなく、制止の色があった。
昔からそうだった。
オルヴィンはクラリスが何か言う前に、たいてい一度だけ止める。
それでも止まらないと知っているくせに。
クラリスは続けた。
「郵便官は、そう書かれたものを棚に戻せるほど器用ではありません」
「君は、郵便官としてではなく、個人として判断した」
レオンハルトが言った。
「違います。風路が完全には死んでいなかったため、配達可能と判断しました」
「中央局の判定では、当該支線風路は閉鎖済みだ」
「風標は確かに沈黙していました。中継塔も使えませんでした。ですが、風路そのものは残っていました」
「それを確認する権限は、君にはない」
「飛べるかどうかを判断するのは、郵便魔女の仕事の一つのはずです」
「その判断を、我々は認めていない」
「では、あなたたちが間違っているのでしょう」
今度こそ、テオの羽根ペンが小さく音を立てた。
マルタが顔を上げる。
「あなたは、ご自分の発言の意味を理解していますか」
「はい。配達不能判定は、誤りでした」
「誤りではありません」
マルタの声は、薄い刃物のようだった。
「高棚共同区への第七支線風路は、三年前から安定値を下回っています。風標は二基停止。中継塔は老朽化。利用件数は規定値未満。配達員の安全確保も不可能。ゆえに、中央局は当該地域への通常配達を停止しました。異議申立書であっても、例外ではありません」
「例外にするべきでした」
「それをあなたが決めるのですか」
「いいえ」
クラリスは、わずかに首を横に振った。
「私が決めたのは、飛ぶことだけです」
レオンハルトが眼鏡の奥で目を細める。
「そこが問題なのだ、クラリス・ヴェイン」
彼は机の上の書類を一枚めくった。
「君が飛べたことは、問題ではない。君が優秀な郵便魔女であることも、この場では争点ではない」
「では、何が問題なのでしょう」
「君の成功が、他の郵便魔女にとって死亡例になり得ることだ」
沈黙が落ちた。
それは、クラリスにも分かっていた。
閉鎖風路は、死んでいるわけではない。
だが、生きているとも限らない。
風標の灯が消えた空は、夜の海に似ている。
目を凝らせば流れはある。
流れがあるなら飛べる。
けれど、読めない者が入れば、箒は沈む。
風に裂かれる。
地上へ落ちる。
クラリスには見えた。
他の者には見えない。
その差を、中央局は許さない。
「だから、配達不能にして終わらせるのですか」
「事故を防ぐためだ」
「手紙は届きません」
「命より優先される手紙などない」
レオンハルトの声には、怒りではないものがあった。
クラリスは口を閉じた。
正論だった。
不愉快なほどに。
だが、机の上の封筒には、配達不能印の下に、もうひとつ紙片が挟まれていた。
高棚共同区の代表が添えた、短い言葉。
どうか、私たちを見捨てないでください。
たったそれだけの一言が、クラリスの耳から離れなかった。
マルタが淡々と言う。
「一つの共同区を残せば、他の閉鎖予定地も同じことを言い出します。中央局の判断は、情で揺らいではなりません」
「情ではありません」
「では何ですか」
「配達です。可能であれば届ける、それだけの事です」
クラリスは答えた。
マルタの目が、初めてわずかに冷えた。
「あなたのような郵便魔女がいると、配達不能という判定そのものが意味を失います」
「失えばよろしいのでは」
「クラリス」
オルヴィンが、もう一度だけ名を呼んだ。
クラリスは黙らなかった。
「届けられるものに、不能の判を押す方が間違っています」
レオンハルトが、書類を閉じた。
音は小さかった。
だが、それで終わりだと分かる音だった。
「中央局監察部は、クラリス・ヴェインを本日付で郵便組合所属魔女名簿より除籍する」
テオが息を呑んだ。
オルヴィンは目を伏せた。
マルタは表情を変えなかった。
「郵便外套、局章、認可風路の使用権、緊急着陸権、局間照会権をすべて返還。以後、君は郵便組合所属の郵便魔女ではない」
「承知しました」
クラリスは答えた。
自分でも、驚くほど声は揺れなかった。
レオンハルトは少しだけ眉を動かす。
「何か申し立ては」
「あります」
オルヴィンが顔を上げた。
クラリスは、机の上の封筒を指した。
「高棚共同区宛ての回答書が出るはずです。閉鎖保留の決定通知なら、期限内に送ってください」
「君は今、自分の立場を理解しているのか」
「はい。ですから急いでいます」
クラリスは、ほんの少しだけ笑った。
「私がいなくなれば、誰かが届ける必要がありますので」
誰も、すぐには答えなかった。
白い査問室の中で、赤い配達不能印だけが、やけにはっきり見えていた。




