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スワン・ピーク<10>

 なんで全員ぶっ殺さなかった、と左隣の奴が言う。

 肝心な時に萎えちまったのか? と右隣の奴が笑う。

 どっちも幻聴だ。だって俺はひとりで床に転がされてる。

 カトリの悲鳴に集まってきた連中。俺は銃を抜いた。当然だ。けど、先頭が尼さんたちだったんだ。ちっぽけな銃口を見とめた瞬間、彼女たちの顔に矢継ぎ早に浮かんだ驚愕と恐怖。立ちすくんで動くこともできない。きゅう、と紫衣を握りしめる手。お玉やフライ返しが似合いそうな、ふっくらした、手。

 で、おっしゃるとおり萎えた。

 次いで男たちが駆けつけてきた。俺は気を取り直した。しぼみ切ってた銃身を奮い立たせた。だが、奴らが尼さんたちをかばうように前に出た時、また萎えた。今にも死にそうなじいさんが混じってたのは、まあいい。あいつらが手になにを抱えてたと思う? 棒だ。警棒やショックバトンじゃない。焚きつけにでもちょうど良さそうなただの棒。それをぶるぶる震えながら構えてた。もちろん棒ったって馬鹿にはできない。俺は耳かきで人を殺せる奴を知ってる。だけど、男たちは肉体的な訓練どころか、筋トレひとつしたことなさそうな連中ばかり。病棟で見かけた例の心臓外科医も混じってたっけ。あいつなんて涙目だった。

 冷静になれと何度も自分に言い聞かせたさ。こいつらは羊の毛皮をまとった狂信者、もしくはインチキ信徒。子どもを生贄に捧げるような連中なんだぞってな。だけどダメだ。一度、完璧に萎えちまうと復活は難しい。男なら分かるはずだ。ごめん、嘘。実は萎えても復活はたやすい。俺はまだ若いし、元気だし。

 恥ずかしい話だが、俺はヤケになってた。

 カトリ。

 彼女は俺の手を取らなかった。俺は彼女に手を取らせることができなかった。

 ようするに振られたんだ。失恋ほど人を自暴自棄にさせるものもない。もう知らない、どうにでもなれってもんだ。

 男たちが俺に殺到した。子羊の群れみたいにぎゅうぎゅうと俺を押す。押すだけだ。落ち着け、俺を縛るんだろ? 後ろ手がおすすめだぞ。違う、お前がつかんでるのは俺じゃなくて隣のじいさんの手だ。落ち着けって。

 納骨堂のどこかの一室、物置みたいな部屋に押し込められた。

 そして、今、俺は自暴自棄になってた自分を心から後悔している。目の前に、耳かきで人を殺せる種類の人間が立ってるからだ。

「ファティマ」

 かつて、ファティマを世界で最も美しいと信じていた時期があった。何より心を奪われたのは彼女の肌だった。喜びで、苛立ちで、怒りで、興奮で、あらゆる色に染まってみせた彼女。それが今、黒い紫に塗りこめられている。尼僧の装束。異形の神への忠誠を証す姿。

「その色はあんたに似合わないな」

「残念ね」

 にこりともせずにファティマが答えた。

「息子と引き換えに手に入れた色なのに。これを着られるのは、我が子を捧げた者だけ」

 九歳と二か月だった、と彼女は呟いた。

 取れる手段はいくつもあった。突っ立っているファティマに飛びかかるとか。勝率は低いがゼロじゃない。逃げ出すことくらいはできたかも。もしくは情けなく命乞い。あるいは、彼女と言葉を交わすとか。カトリにやったように。

 でも、俺は疲れてた。これ以上、言葉を絞り出したくなかった。

「立って」

 ファティマは言った。命令の響きすらなかった。

 俺はのろのろと彼女の言う通りにした。手首は体の前で縛られたままだ。

 ファティマは踵を返した。ついて来い、という無言の圧。部屋から出ると、待っていた二人の尼僧が俺の後ろを固めた。無駄のない足さばき。揃いの紫衣の下には、おそらく9㎜のオートマチックあたりを吊っている。カトリの部屋に押し寄せたような素人連中とは違う。ファティマの部下か仲間だろう。

 低い天井が続く通路を四人で歩いた。緩やかに湾曲する暗い道。空気がこもっていた。水の匂いと、腐臭。なぜか産道という言葉が脳裏に浮かんだ。

「メル」

 ファティマの声が落ちた。

「あんたの車は正門に停めてある。儀式を見届けたら、行って」

「へえ」

 こんな時でも皮肉が口をつくのが嫌になる。

「殺さないのか? てっきり処刑場にでも連行されてるのかと」

「あたしがナイフを教えた子たちの中で、あんたが一番あたしに似てた」

 ファティマの声は平板だった。思い出を懐かしむ風はない。

「バルサは既に完成されていた。キャスパーは……まあ、ああいう子だしね」

 紫の背中が揺れる。かつて追いかけた背中。

「メル。あんたに知ってほしい。だから儀式の場所を教えた。最後にカトリに会わせた。理解しろとは言わない。邪魔もさせない。でも、見て。そして――残して。あんたの穴蔵に」

 空気の中に異質な匂いが交じった。南国の花、強烈な色と芳香の。違う。もっと人工的なもの。こうだ。薄い煙に乗ってやって来た。歩みを進めるにしたがって、香りはどんどん濃く、強くなる。息苦しさを感じるほどだ。

 突然、通路が終わった。視界が大きく開けた。

 バルコニー――いや、桟敷席か。そんな印象を持ったのは、目の前に広がる空間が劇場を思わせたからだ。アーチを描く高い天井に吊るされた豪奢なシャンデリア。その光を受けた観客席は満員御礼。彼らは一心に舞台の上を見つめている。今夜のプログラムを今か今かと待っている。真正面には一段も二段も高くなった舞台。壇上にましますのは端役である尼僧たち。そしてもちろん主役のインチキ神。金色に塗りたくられた巨大な像。シャンデリアの灯りで第三の眼が輝く。

 宗教施設と劇場が似るのは仕方ない。どちらも陶酔と喜悦を効率よく搾り取るための設計だからだ。だが、ここのはひどい。ストリップ場なら悪くないが、信仰の場としちゃグロすぎる。観客席にはおそらく聖域教会にいた連中の全員が詰め込まれてる。舞台に近い特等席、前のほうは子どもたちで占められている。車いすや、中にはベッドごと運ばれたらしいのもいる。

 一瞬、くらりと視界が揺れた。

 濃密すぎる香りと最悪の音のせいだ。流れてるこれを俺は断じて音楽と呼びたくない。舞台の隅にいる尼僧たちが打ち鳴らす小さな鐘。シンバルに似た楽器。不協和音が耳の奥を揺さぶる。不快感で海馬がはち切れそう。

「メル」

 ファティマが呼びかけた。今の今まで、存在を忘れかけてた。なんてこった。俺は飲まれかけてたって言うのか。

「手すりによりかかるといいわ。慣れてないとキツい」

「ご親切に、どうも」

 こちらの不調を見透かしたようなセリフ。俺の鼻が人工の香りで偽装された刺激臭を嗅ぎ分ける。ドラッグ。売人が「宇宙までぶっ飛べるぜ」ってうそぶくような奴。

「ただの散布でここまでクるなんてびっくりだ。空調管理は完璧みたいだな。教会なんてやめて、ここにクラブでも作ったら? いいFJファンタジー・ジョッキーを紹介しようか」

「相棒みたいな口を利くのね。安心して、人体に害はないわ。それほどは」

 軽口は簡単に見透かされる。

 毛穴という毛穴が全部かっ開く感覚。桟敷席の床の感触が遠のく。よくない兆候。

 始まるわ、という言葉は遠くから聞こえた。

 鐘の音が高くなる。ヒロインのご登場だ。

 観客席の中央、舞台に続く花道を車輪が滑る。白いワンピースの膝でそろえた小さな手。頭からベールまでかぶせられてる。天使、聖なる乙女、殉教者、そして――神の花嫁の役柄ってか。彼女がなりたかったのはお姫様で、そんなもんじゃなかったのに。

 グロテスクな金ぴかの像の前で、誰かが待っていた。若い尼僧たちに両脇から支えられるようにして立っている。

 利かなくなった目じゃ顔かたちまでは判然としないが、これだけは分かった。

 あれは干物だ。

「娘よ」

 乾ききった肉体から生み出された声は、意外にも豊かだった。

「終末の日は近い。偉大なる眼を持つ神が、この悪しき地上を炎と洪水で洗う。何もかもが地獄の苦しみのうちに息絶える。あなたの家族も、あなたの友人も、わたくしたちも」

 薄い肉を張りつけた骨の腕が、王冠でも乗せるようにベールの上にかざされる。

「祝福しましょう。ジャン・ド・グラ様はあなたをお選びになった。その献身が、犠牲が、魂が、あの御方を慰撫いぶするでしょう。炎と水は遠ざけられる。あなたが皆を救うのです」

 おお、おお、おおん、と、信徒たちが鳴く。感激で、法悦で、興奮で、あるいは単純にドラッグの作用で。

「聖杯を」

 舞台端から誰かが進み出る。サーシャ。紫の衣。あの地味なブラウスのほうが千倍は素敵だったのに。彼女が両手で捧げ持った金色の杯が老婆に渡される。

「取って、飲みなさい。は神の血。あなたを宇宙へと導くネクタル――」

 杯に満たされた液体がとぷんと揺れる。

「ファティマ、俺を見ろ」

 ほぼ無意識の反射だろう。ファティマが俺に視線を向ける。ペールブルーが琥珀に色を変えていた。瞳孔がこれ以上ないくらい開いている。

 時間だ。

 俺は両腕を戒めていた縄をむしり取った。子羊の男たちは素人だった。縛られる瞬間に、少しの工夫さえ忘れなければゆるめるのは難しくない。ファティマだって俺がそうするって予想はついたはずだ。かつての彼女なら、縄を調べたはずだ。自分の手で縛りなおしたはず。でもしなかった。彼女はもう傭兵じゃなかったから。あるいは――。いや、もうどうでもいいか。

 紫衣に包まれたファティマは悲しげな顔をした。縄抜けの技をご披露したところで、こっちは素手。彼女の手には既にご自慢のアーミーナイフの柄が握られている。後ろの二人もご同様。だから、俺は自分の手首の皮膚を噛み千切った。ぬるい血が噴き出す。ファティマは驚きの表情を浮かべた。だが、彼女の驚愕はそれで終わりじゃない。一歩踏み出した瞬間、彼女の膝が床に崩れ落ちた。美しい肌に起きていることが、俺には手に取るように分かった。毛穴という毛穴が全部かっ開く感覚。桟敷席の床の感触が遠のく。よくない兆候。そんな感じだろ?

「慣れてないとキツいだろ? 手すりに寄りかかれば?」

 悪いお薬はカルトの専売特許じゃない。

 自然派FJに教わった特性ブレンド。そこにキャスパーが独自のアレンジを加えた。奴は楽しげにうそぶいた。「宇宙までぶっ飛べるぜ」。使い方はいたって簡単。バスボールにしか見えないそいつを熱源に、そうだな、松明なんかに放り込んどくだけだ。ここまで空調管理が行き届いてたのと、ドラッグカクテルになったことだけが予想外だった。おかげでオヤツの抵抗薬キヤンディの効きが悪くて、血を抜く羽目になった。

「安心しろよ、人体にそこまで害はない。ただ、夢を見せるだけだ」

 水底をただよう、深海魚の夢を。

 観客席や舞台上の奴らも、やっと異常に気づきはじめたみたいだ。ざわめきが聞こえる。だが遅い。プログラムは変わったんだよ。

 俺は床に伸びた尼僧の体から銃を抜き取る。同時に背後から刃が襲いかかった。

 悲しかった。かつての彼女の半分にも満たないスピードと威力。ドラッグのせいだけじゃない。

「メル」

 両ひざをついたファティマが俺を見上げる。

「お願いよ」

 その言葉は何を意味していたのか。命乞いじゃないことだけは確かだった。

 俺は勢いをつけて手すりから飛び降りる。花道に着地。そのまま観客席を突っ切る。床に倒れ込む信徒、へたりこんでぼんやりと空を見つめる尼僧。バスボールのピークタイムは短い。しばらくすれば正気に戻る。子どもたちはただ眠っているだけのようにも見えた。ただ幸福に、なんの心配もないって風で。

 俺は走った。今の自分に出せる全速力で。

 もう壇上の何もかもが視認できる距離だ。

 干物。ラオ院長。この教会の教えの根源。気が抜けちまうくらい普通の婆さんだった。丸まった背はいかにも弱々しかった。もうその濃いしわを一本一本数えられる距離。

「カトリ!」

 俺は叫んだ。

 目深にかぶった白いベールが揺れた。ワンピースの袖から手が伸びた。あの時、俺の人差し指を柔く握った手。その手が、婆さんが呆然と持っていた杯を奪い取った。神の血が満たされた杯を。数滴、あふれた。白い布地が黒みがかった紫を吸い込む。それ以外は、全部、一滴残らず、彼女の喉へ。

 俺は悲鳴を発したような気がする。どうだろうな。分からない。

 足が止まった。

 ずるりと彼女の体が崩れ落ちた。車いすの車輪が軋んだ。こぼれたミルクみたいに、小さな体が床に流れ落ちた。全ての音が遠くなった。

「救済は、成りました」

 老婆が両手を翼のように広げる。おとがいを上げ、天を仰ぐ。まるで、自分も飛び立とうとしてるみたいに。意志より先に、右腕がしなった。リコイルはほとんど感じなかった。銃声。1発、2発、3発、4、5、6789発。トリガーがカチカチという音しかたてなくなっても、しばらくそうしていた。

「ずいぶん、乱暴をなさるのですね」

 老婆の見上げる先で、神の像が崩壊しようとしていた。ハリボテの神は、作りもやっぱりハリボテだった。たかが9㎜弾の十三発で、ぼろぼろと石膏をこぼれさせていた。

「作り直すのは面倒なのですよ」

 無感動に老婆が告げた。

 酔っ払いみたいな足取りで、俺は歩き始めた。壇上へ。頭がふらつく。血を流しすぎたせいでありたかった。うつぶせに倒れた小さな肉体を包む白。すぐそばに膝をつく。

 その時、かすかにうめく声がした。

「カトリ」

 俺は彼女を覆ったベールに手をかけた。こんなもの、引っぺがしてやりたかった。せめて、最期くらいは。

「あたしが、みんなを救ったの。あたしの人生には意味があった」

 青ざめた唇、もう死の愛撫を受け入れたそれが、震えた。

「あたし、も、おひめさま。――カトリだけじゃ、ない」

 ――ニットキャップ。

 ベールの下から現れたのは、塩入りのお茶を供した少女だった。ばあや役ばかりやらされて、泣きべそをかいていた子。今はあの時の帽子はなく、茶色の短い髪の毛があらわになっていた。彼女は最後に俺の人差し指を握って、そしてこと切れた。

 老婆が言う。

「カトリの順番は、この子の次でした。でも今夜はもう無理ね。あなたが台無しにしてしまったから」

 立ち上がった俺に、何かが――誰かがぶつかった。たたらを踏む。

「どうして!」

 サーシャ。カトリの母親。

「どうしてこんなことを! 今夜、あの子は旅立てるはずだった! 使命を果たすはずだったのに!」

 ドラッグの影響でもうろうとする瞳から涙が溢れていた。俺の胸を殴りつける拳は震えていた。

 血の気を失っていたこめかみが熱くなるのを感じた。カトリはまだ生きている。手首の傷が痛い。足はふらふらだ。ニットキャップは死んじまった。お姫様になりたかっただけなのに。カトリはまだ生きている。

 俺は殴打を続けるサーシャの手首をつかんだ。

「ふざけるなよ」

 腕の中の細い骨がきしんだ。

「あの子は生きてる。生きるべきだ。なんであんたらは寄ってたかって彼女を殺したがるんだ。なんで彼女は死にたがるんだ。こんなクソみたいな神のために。サーシャ」

 俺は彼女を強引に引き寄せる。濡れた目をのぞき込む。

「あの神はインチキだ。なにもかも嘘なんだ。カトリが死んだって世界は救われない。あの子に使命なんてない」

 カトリによく似た目が俺を見つめ返す。そこには、無垢な驚きがあった。初めて虹を見た赤ん坊のような。そして、彼女は言った。

「――知ってるわ、そんなこと」

 唇に笑みが浮いた。

「ここにいる大人たち――親たちなら誰でも知ってることよ」

 病室で俺が一瞬みとれた笑み。アレジャーノの心を奪ったであろう笑み。

「ジャン・ド・グラですって。変な名前よね――あら。失礼、院長」

「かまいませんよ。実際、たまたま置いてあったお菓子から取った名前ですからね」

 女たちはレディのように優雅に目礼し合う。

「嘘っぱちのジャン・ド・グラ様。出鱈目の教え。ハリボテの教会。――でも、どんな信仰より必要だった。カトリには。この教会にいる子どもたちには」

 力を失った俺の手から、サーシャはするりと手首を抜く。

「カトリのことをどれほどご存じかしら。あの子は生まれつき病に侵されてた。どんな名医も十歳までは生きられないと言い切ったわ。生まれてから七年間、あの子がどんな風に暮らしていたと思う? 発作、投薬、手術、発作、さらに厳しい投薬。そんな拷問に耐えても、彼女の寿命は一秒だって伸ばせなかった。……私たちだけを憐れむのは卑怯ね。ここにいる子どもたちは皆、同じなのだから」

 十年よ、と母親は繰り返した。

「人生に何の意味があるのか、なんて、大人でも難しい質問よね。十年ぽっちじゃ答えなんて出せない。私たちは娘にそれをあげたかった。最高の答えを。あなたの生には、死には、重大な意味があるのよって。七年間、病室の壁ばかり見続けていたあの子に」

 母親の口調は、むずがる子どもをあやすように優しい。

「ねえ、あなた。さっき「カトリに使命なんてない」って言ったわね。それがあの子にとってどれほど残酷なことか、分かる?」

「〝選ばれる〟子どもは誰でもいいわけではないのです」

 院長が言う。

「おっしゃるとおり教会はハリボテ、神も教義もこけおどし。しかし、医療は違う。最高の設備と、最良の医師たち。彼らをもってしても救えない者たちが選ばれるのです」

 皺に覆われた目には薄い紗がかかっている。高齢のせいだ。

「一番はじめは、私の末の娘でした」

 私はあの子のために、この教会と教えを生み出した、と老婆は言った。既によく利かないであろう薄青い瞳には、確かに何かが映っていた。

 いつの間にか、大勢の人間が俺を取り囲んでいた。

 サーシャと院長。

 俺たちに見学会の案内をしてくれた杖の尼僧。日没に似た彼女。

 涙目で棒っきれを構えていた心臓外科医。

 そして――ファティマ。

 母親たちと、父親。

 狂信者じゃない。詐欺師でもない。我が子の生に意味を贈りたかった、ただの、親。

 彼らは俺を見ていた。

 俺がどうするかを、見ていた。

 この喜劇をどう終わらせる? 二流以下の道化には手に余る。悲劇は嫌いだ。お涙ちょうだいなんて真っ平。けれど、もはや大団円の道は閉ざされた。

 ところが、思いもしなかった方向から破綻カタストロフはやって来た。最低の脚本家が書き替えたんだ。

「伏せろ!」

「伏せて!」

 反応は俺とファティマがほぼ同時だった。いいや、ファティマがほんの少し、コンマ何秒か遅かった。俺はサーシャを突き飛ばした。ファティマは跳んだ。ファティマだけが間に合わなかった。

 アサルトライフルの重低音。弾の雨が舞台の上を薙ぎ払う。届かなかったファティマの指の先で、院長の肉体が激しく踊った。血煙の花が次々に咲いた。道の奥から新たに登場したのは――蟻どもだ。

「はあい。撃ち方やめえい」

 白い硝煙のカーテンが引かれ、赤いベレー帽が姿をのぞかせる。黒い蟻の刺繍の、ダサい部隊章ワッペン

「アー、アー、テステス、マイクテス。こんばんは、善男善女の皆さん。我々は――って、おい、なんでみんな寝こけてんだよ」

 笑えるほど奇妙な光景だった。酩酊して床に――あのブレンドは重いから下に流れて溜まりやすいんだ。マスタードガスと一緒――ばたばた倒れている観客たち。観客席の中央を突っ切る花道の向こう、入場口の巨大な扉の前に拍子抜けしたような顔をした男がいた。

「なんだよお、せっかくメガホン持ってきたってのに――おや」

 ぽいと拡声器を投げ出して、彼は首を傾げた。

「おや、おや? おやおやおや?」

 彼は散歩でもするような足取りで舞台に歩み寄った。

「そこにいるのはもしかして、……メルか?」

 男は目を丸くする。いかつい顔に、いっそ愛らしいと呼べそうな稚気が乗る。

「水臭えなあ。こっち来てんなら連絡くらい寄こせよ」

 ラ・モット中尉。相変わらずだ。彼を嫌な奴だとかクズだとか言う人間を知らない。俺も彼がけっこう好きだ。こちらに銃口を向ける兵隊を引き連れているこの瞬間も。不格好なガスマスクのせいで、連中はいよいよ蟻じみていた。

「俺のお手製のチェリーパイを振舞うって約束だったろ?」

 血の匂いが鼻をついた。心臓外科医が肩を押さえてのたうち回っている。仰向けに倒れているのは杖の尼僧。腹と胸。こちらは苦悶の声ひとつあげていない。院長だったものは赤と紫のボロの塊みたいになって床に落ちてる。身を挺して守ろうと跳んだファティマ。彼女もまた、倒れていた。駆け寄りたい衝動に襲われる。できない相談だと分かっていても。

 俺は立ち上がりながら答えた。

「悪いな、中尉。仕事だったもんで」

「仕事だぁ? バカ言うな、俺のパイを食わないなんて一生の損――待てよ、仕事?」

 中尉はぴしゃりと額を叩いた。

「ひょっとして、教会に雇われてる傭兵ってのはお前らトリオか? そりゃウチの若いのがケツに弾丸タマもらうわけだ」

「ハズレ。ケツはタレットの仕業だし」

 サーシャは突き飛ばされた先で、腰が抜けたみたいにぺたりと床に座り込んでいる。壇上で立っているのは俺だけだ。

「そっちはアレジャーノの仕事?」

「まあな。ウチは食わせないといけない口が多いから、金持ちの依頼人はありがたい」

「依頼内容は?」

「全部、潰せとさ」

 中尉はバツが悪そうに鼻の頭をかいた。最近いい感じのあの子に他の女と一緒にいるところを見られちまったティーンエイジャー。そんな感じの仕草。

「アレジャーノはお怒りだ。カルト教団がかわいい娘と愛する人を洗脳したってな。許しちゃおけねえ、二人を確保した上で徹底的に根まで焼け、とよ」

 そうか、だから俺は今こうして立ってられるのか。サーシャと密着していたから、蟻どもは俺を撃てなかった。幸運が俺を助けた。それがいつまで続くかは知らないが。いや、絶対に続きはしないんだが。

「俺のチェリーパイはほんとに絶品なんだぜ、メル」

「だろうな」

「前に食わしてやったクリームパイなんて目じゃない」

「うん」

 中尉は眉をハの字にして長々とため息をついた。情けない表情。あの子に平手打ちを食らったガキみたいに。

「じゃ、しょうがないか」

 始めよう、と中尉は言った。

 同時に、俺は跳んだ。さっきまで俺がいた空間を猟犬じみた弾丸が襲った。そのうち一匹の牙の先っちょが太ももをかすめた感触がした。

「メル!」

 血の塊と共に吐き出された呼び声に振り向く余裕はない。だが、ガキの頃に叩き込まれた習性ってのは恐ろしい。俺は目の前に飛んできたそいつをつかんで鞘を払い飛ばした。ファティマのアーミーナイフは俺には大きすぎるし重すぎるけど、贅沢は言えない。俺はさらに横に跳んだ。跳ぶ、はちょっと言い過ぎた。不格好に転がっただけ。だが、この間抜けな姿のおかげで、猟犬どもは吠えるのをやめた。

 世界中に胸を張って言えることだが俺は善人じゃない。だから平気でサーシャを利用できたりする。呆然としている彼女の前方。この位置取りで、奴らのピカピカのアサルトライフルはただの鉄くずになった。万一にでも彼女に当たれば、金払いのいい依頼主は大激怒どころじゃないだろう。

 軍隊蟻どもの判断は早く、適格だった。彼の判断はもっとだった。

 右手が動くのがコンマ二秒遅ければ、俺の頭は前衛的な花瓶みたいになってただろう。刺さってるのが花かククリナイフかの違いだけで。

 ファティマのナイフが刃を受け止め不快な金属音をたてる。

 嘘だろ、一足飛びに舞台に飛び上がるなんて。そのガタイならもっと鈍重であってくれよ。

「お前にチェリーパイを食わしてやりたかったよ」

 分厚い刃の向こうで中尉が眉尻を下げた。

「あんたの、パイは、なんだって最高」

 俺の口調に中尉ほどの余裕はない。声が震えてるのが自分でも分かる。

 クソ重たい一撃目の後、中尉はそれ以上深追いせず後ろに飛びすさった。適切な間合いを取る。俺には遠すぎて、彼には最適な間合い。

「あー、兵士諸君。彼は俺の古い友達なんだ。だからこっちはやらせてくれ」

 中尉が背後に回した蟻どもに向かって言った。

「諸君らはそこで寝こけてる連中への対応を頼む。依頼どおりに」

 残らず潰せ、と中尉は命じた。

 俺のとるべき道は一つだった。

 俺は雄叫びをあげて中尉に突進した。

 先に言っとくが、雄叫びったって勇ましいヤツじゃない。この世で一番オンチのガチョウみたいな声だ。別にいいだろ。こっちは命がかかってる。

 中尉もまさか馬鹿みたいに真正面から突っ込まれるとは思ってなかったらしい。少し意外そうに眉を上げた。普段は従順な幼い息子の悪戯を見とがめた父親みたいな顔だった。

 俺はナイフを振るった。軽くいなされて刃が払われた。俺は間髪入れずに二撃目を繰り出す。もちろん不発。でもめげない。三、四、五、とヒステリーじみた突きを重ねる。

「お、おいおいおい、メル、おい!」

 観客席から響き始めた断続的な銃声。それに負けないくらい、中尉は声を張りあげた。

「なにやってんだ、正気か?」

「さあね」

 六撃、七撃。手がしびれてきた。

「もうどうだっていいんだ。畜生」

 旦那の浮気現場に包丁を持ち出した嫁さんみたいに俺はナイフを振るう。

「みんな好き勝手言いやがって。使命だの、意味だの。知るかよ」

 中尉は俺をいなし続ける。

「壊れちまえばいいんだ。ぶっ壊れちまえ」

 彼がこの瞬間に俺を殺さないのは、いつでも仕留められるからだ。

「分かったよ」

 中尉が構えを変えた。ククリナイフを逆手に持った。俺は肩で息をしてあえいでいる。大きすぎて重すぎるアーミーナイフの切っ先は、これ以上、上がりそうにない。

「俺はお前みたいな奴をたくさん見てきた。――お前、もう、壊れちまったんだな」

 中尉の瞳が憐憫に陰った。だが一瞬だ。瞬く間に相貌から全ての表情がかき消える。

「じゃあな、メル」

 鈍い光が走った。ククリナイフの軌跡は的確に俺の頸動脈を捕らえていた。

 だが、刃が俺の首に到達することはなかった。

 妙に澄んだ音を響かせて、刀身の半ばで折れ砕けた刃が床に落ちた。

「合図が遅い」

「いや、最高のタイミングだろ。主人公はここぞって時に登場するもんだ」

 花道にふたつの影が立っていた。小さいのと、長いのと。

 俺は息を弾ませながら言い返す。

「合図をガチョウの声にしようって主張したのはお前だぞ」

「遅いって言ったんだ。ガチョウが悪いわけじゃない。美味いし」

 バルサはひっつかんでいた兵隊をぽいと投げ捨てた。首がつま先とは逆の方向に曲がっていた。

「いい買い物だったろ? お前らは格好だけだってさんざん文句言ってくれたけどな」

 キャスパーは硝煙を上げる大口径を自慢げに振って見せた。

 軍隊蟻の血を踏みつけて、まるでそこから生まれてきたみたいに二人は立っていた。

 もちろん、ただの錯覚だ。奴らが観客席の一番後ろに滑り込んできたのは、チェリーパイの話を始めたころだ。二人は中尉と軍隊蟻の後ろをとっていた。位置取りは良かった。だが、中尉の存在はいかにも邪魔だった。彼は飛びぬけて優秀な傭兵だから。

「お――おいおいおいおい」

 マグナムで砕かれたククリナイフを片手に、中尉はゆっくり振り向いた。花道の二人を見とめ、呆れたように言う。

「なんてことしてくれんだ、お前たち。ニンジャみたいなマネしやがって。あーっ、気づかなかったなんて一生の不覚だ」

「あんたはメルと踊るのに夢中だったからな」

 キャスパーは得意げに銃を握っていないほうの手首をくるりと回した。全ての指の股にバスボールが生まれる。奴は手品が得意。意外なようだが、スニーキングも。倒れているのは中尉が連れてきた兵隊ばかりだ。前列の子どもたちも、その後ろに控えた親たちも、未だに深海魚の夢のうちにいる。バルサについては言わずもがな。あいつは生まれながらのニンジャ・ミッションの天才。その気になれば音を一切立てず、ひと声もあげさせないまま血の海だって作り出せる。

 さて。

「こういう次第だが、中尉。これからどうする?」

 とびきりの傭兵は、自分の手の中の折れたナイフを見下ろした。彼がその気になれば、半分の刃先でも俺一人くらいどうにでもできる。実力のケタが違いすぎる。

 けれど、ラ・モット中尉はやはり最適解を採れる傭兵だった。

「中止中止、撤退に決まってるだろ」

 彼はいつだって冷えた鉄のように冷静だ。どすどす足を踏み鳴らして舞台から降りる。

「家帰ってパイ焼いて違約金払ってパイ食ってふて寝だ、こんなもん。三人とも、暇ができたら俺んち寄れよ。約束だぞ」

 十分前まで部下だった男たちの血をびしゃびしゃ跳ね飛ばしながら中尉は退場した。

 良かった。最後の最後で情けない姿を見せずに済んだ。

 目の前が暗くなった。食い破った手首が熱かった。猟犬が噛んだ太ももの傷口は焼けるようだ。あーあ、シャツとズボンどころか、きっと下着まで真っ赤だ。まとめて捨てるしかないだろうな。この服、気に入ってたのに。

 床にキスする直前、強い力で引っ張り上げられた。

 左脇の下にバルサの頭が生えていた。

「ぶっ倒れたきゃ、好きにしろ」

 その妙にまじめ腐った口調がおかしい。脇腹が痙攣する。笑いの発作が起きようとしている。どこもかしこも死体だらけだってのに。俺が心から美しいと思った女も、今、その仲間入りをしようとしてるってのに。彼女は地面にぽとりと落ちた紫の百合に似ていた。アサルトライフルの風穴だらけの百合。その花弁から真っ赤な血が広がっている。

 舞台へと上がったキャスパーが、彼女のそばに静かに膝をついた。

「俺でいいか、ファティマ」

 奴は親指の腹で、そっとファティマの頬骨を撫でた。

「あの子のお墓、ね。北の墓地の、沼のそばだから。その、横に」

 ごぼり、ごぼり。母音を一つ重ねるたびに、命のかけらが失われていく音がした。

「ああ、沼のそばだな。分かった。目印はあるか?」

 ふ、とファティマが笑う気配がした。

「ボウフラが、いっぱいいるとこ」

「ボウフラ?」

「そう。あの子、ボウフラが好きだったの。他にも、芋虫とか、ミミズとか。変なもんばっか、好きだった。ほんとにもう――」

 ペールブルーが、キャスパーと俺を交互に見た。

「しょうがないわよね、男の子って」

 最後に彼女はキャスパーに向かって、わずかにあごを引いた。充分だった。銃声。ククリナイフすら叩き折った弾。キャスパーは瞬き一つ分の時間だけ彼女だったものを見下ろしてから立ち上がった。長めの髪が顔に落ちかかり、表情はわからない。歩き出そうとして、奴はふと足を止めた。金に塗られた像の足元に、干物じみた老婆の塊。片方だけ残った光のない目が、彼女が産み出した神を仰いでいた。キャスパーは何も言わなかった。

 キャスパーは俺のそばまでやってくると、右脇の下に頭を突っ込んだ。

「帰ろうぜ」

「そうだな、帰ろう」

 と、反対側からバルサが言った。

「今度こそビーチだ。パラソル刺したカクテルと悩ましきビキニの女たち」

「ビール。それからバカでかい肉、焼くぞ」

「行き先は南だ」

「北も悪くない」

 西でも東でもどっちだっていいさ。ビーチでもビールでも喜んでおごってやるよ。どこだって行ける。行こう。帰ろう。

「傭兵さん」

 カトリがいた。

 血の絨毯が敷かれた花道。白いワンピースが鮮やかに浮かび上がっていた。倒れた蟻どもの死体の腕がすがるように彼女に向かって差し伸べられていたのは、偶然なのか何かの意図か。サーシャが、母親が、震えながらその光景を見ている。見開いた眼。唇は娘の名を結ばない。

 きい、と車いすが軋んだ。前進した車輪が死体の指に引っかかって、かしいだ。病に蝕まれた肉体が地に投げ出された。

「カトリ」

 俺はつんのめるようにして足を踏み出した。両側から、鋭く強い力が俺を引き留めようとした。一瞬だけだ。腕はすぐに離れた。

「カトリ」

 俺はアル中のじいさんみたいに足をもつれさせながら進んだ。足音は不規則で、水っぽかった。びちゃり、びちゃり。もう自分の血なのか他人の血なのか区別もつかない。俺はぶっ倒れるようにしてカトリの前に両膝をついた。

「傭兵さん」

 カトリの手が俺のシャツの胸元を握りしめた。過剰な赤を吸い上げて、白い布地が浸食されていく。真っ白なのはカトリの頬だけだった。

「ねえ、言ってよ。あたしが世界を救うんだって。あたしの命には意味があるんだって」

「言ってやればいい」

 俺の背後、舞台に並んだ影法師の一つが言う。

「死に時と死に方を選べるそいつは幸運だ」

 奴はいつものように率直だった。対して、もう一つの影法師は違った。

「ふざけるなよ」

 怒気もあらわに言う。

「ハリボテの神、偽りの教えに命を捧げろだと? その子の生を欺瞞で塗りつぶすな」

「それでどうなる? 長くはない残りの時間を虚しく過ごさせるのか?」

「それでもだ。たった数年だろうと数か月だろうと、彼女は真実を生きられる」

 待て、これは本当に奴らの声か? 奴らの言葉か? 利かなくなった耳と頭じゃ区別がつかない。

「言ってやれ、メル」

「言ってやれよ、メル」

 観客席の前方を占めていた子どもたちが酩酊と夢から目覚め始めていた。皆がカトリと俺を見ていた。宇宙そらへゆくはずの子どもたち。彼らも言葉を待っていると思うのは俺の傲慢だろうか。

「――言ってよ、傭兵さん」

 声を震わせないでくれ、と俺は誰かに祈った。

「カトリ、君は」

 崩れた人造の神が俺たちと死を見下ろしている。

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