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スワン・ピーク<9>

 計画は完膚なきまでに破綻した。

 そういう時はどうする? 走るしかない。

 だから俺たちは今、苔と腐った水ともっとおぞましい何かでぬめる階段を駆け下りている。可能な限り、静かに、素早く。

 美しい傭兵は、儀式の場は地下の納骨堂だと言った。ご親切にも納骨堂に続く秘密の扉の位置まで教えてくれた。彼女の真意は相変わらず不明だ。罠や嘘の可能性は低いと思う。俺たちを排除したいなら眠りこけてるところにロケット弾でもぶち込んだほうが早い。いや、そんな理屈じゃない。彼女の言葉を信じた理由は、背中だ。夜の向こうへ去っていく後ろ姿。昔、銃弾の雨や血しぶきの中で、何度も見上げたそれを儚いと感じたのは初めてだった。

「ああ、クソ。なんで、こうバカっ広いんだ」

 隣を走るキャスパーが弾む息の下でぼやく。

「納骨堂で、生贄の儀式なんて、ベタすぎるだろ、センスってもんが、ねえのか」

「お前もう煙草やめろ」

 とはいえ、こっちの息切れもキャスパーを笑えない。

 地下に広がる空間は、納骨堂と言うより遺跡を連想させた。地下水が染み出してでもいるのだろう、濡れそぼった壁が続く。ところどころに掲げられた松明の火が表面をぬらぬらと光らせていた。石造りの迷宮。ミノタウロスの住居としちゃ絶好の物件。

 カトリの姿はまだ見つからない。

 それどころか人っ子一人いない。だが、どこかに生き物の気配は感じられた。

「別のプランを、提案しても? 引き返して地上に戻って、ビーチまで車かっ飛ばして、ビキニ鑑賞会、とか」

「却下」

「ちっちゃなパラソルの刺さった、カクテルつきだ、ぞ」

 もう黙れ、と返す前に正面に分かれ道が現れた。左右に二手。

 俺は手にしたライトで足元を照らす。あった。左側の壁、床から手のひら一枚分の位置。ナイフで刻まれた傷。バルサの印。とっくの昔に鈍足の男どもを置き去りにした、俺たちの獣。

「右だ」

 俺たちは再び駆け出す。

 しばらく進むと、行く手の道がまた二手に分かれた。

 俺は足を止めないまま斜めがけにしていたバッグを外し、後ろを走るキャスパーに向かって放り投げた。

「嘘だろ、このザマの、俺に、荷物、持てってか」

「中身はほとんどお前の大事なバスボールだろ」

「クソ、この野、郎」

「オヤツのキャンディ舐めて元気出せ」

 悪態を返される前に、俺は素早く右手の道に走り込んだ。

 足音がひとつだけになった。余計なことを考えるのはこういう時だ。

 カトリ・アレジャーノ。四歳児にしか見えない七歳の女の子。彼女の世界は下僕と敵と両親だけ。友達なんていやしない。根性がひん曲がりすぎて複雑骨折してるからだ。でも、ユニコーンのアニメが好きだ。怪獣も。この手のひらを刺した、手首の骨。

 俺は彼女をどうしたい?

 決まってる。

 狂信者だか詐欺師だかの集団から奪還する。

 抱えて、逃げる。

 娘は父親の元へ。

 報酬は俺たちの懐へ。

 決まってるんだ。

 よそ事をこねくり回していた頭とは裏腹に、耳のほうは優秀だった。通路の奥から人の話し声。近づいてくる。身を隠す場所なんてない。

「それでは、時間になったらお迎えに来ますからね。部屋の中まで送りましょうか?」

「いい、自分でできる。あなた、車いすを押すの下手なんだもの」

「儀式の際は気をつけましょう」

「最後にママには会える?」

「いいえ」

「そう」

「さようなら、カトリ」

「さようなら――同胞」

 俺の体の――正確には股の下で、静かに扉が閉じられた。去っていく尼僧の群れの足音が完全に聞こえなくなってから、五つ数えて俺は床に舞い降りた。落っこちた、という表現のほうが正確かもしれない。通路の幅が狭くて助かった。俺の両手両足は自慢できるほど長くない。突っ張っていたせいで手首がしびれている。

 扉を開け、俺は中に滑り込む。

 支度部屋のような印象の部屋だった。部屋の隅に水の張られた盥。身を清めるためだろう。そばに置かれた簡素な衝立には、子どもサイズの病院着がかけられている。

 カトリは部屋の中央にいた。両手を膝の上に乗せ、ぼんやりと宙を見つめていた。着ているのは足首まで届く真っ白のワンピース。薄暗い部屋でそこだけが光を放っている。天使、聖なる乙女、殉教者――あるいは犠牲の子羊を連想させる気まんまんの稚拙な舞台衣装。まったく、吐き気がする。

 俺は閉じた扉を軽くノックした。

「カウンセラーにご用は?」

「あら」

 カトリが俺を見た。

「こんばんは、傭兵さん。意外な場所で会うわね」

「どうやって入り込んだんだって聞かないのか?」

「無駄話は嫌いって言ったでしょ」

「つまらないな」

 カトリがにやりと笑った。

「あなた、やっぱり面白い」

 俺はカトリに歩み寄る。彼女は身構えもしない。

「あたしをさらいに来た? ドラマチック。物語ロマンスみたいね」

「カトリ」

 彼女の前に膝をつき、正面からのぞき込む。彼女をずっと誰かに似ていると思っていたことに初めて気づいた。あいつだ。言葉で支配し、言葉で身を守る男。もっとも、奴は神の教えをコンドームといっしょくたにするような罰当たりだが。

「昼間、君のことを今まで会った子どもの中でピカイチだって言ったのは覚えてるか? 訂正する。君は大人を含めてたとしても、最高の部類だ。賢く、冷静で、腹も座ってる」

「お世辞攻撃? 嫌いじゃないけど」

「違う。教えてほしいだけだ」

 この種類の人間の弱点は多くはないがなくはない。奴らが最も苦手なのは、単純、純粋、それに真実。そこにシンプルな武力行使と正面突破も入るかな。とはいえ俺はバルサじゃない。最初の三つで我慢だ。

「君は、今夜、死ぬつもりか?」

 わずかにまつ毛が揺れた。

「死ぬんじゃない。あたしは宇宙そらに行くの」

 小さな手が、胸の前で複雑な印を描く。

「ジャン・ド・グラ様があたしを選んだ。あたしは地上の肉体を捧げる。神はご嘉納くださるわ。そして、世界は破滅から救われる。この命を使うの。世界を守るために」

「カトリ」

 俺はまだ印を結んでいた手に自分のそれを重ねる。骨ばった手がびくりと震えた。

「言ったよな、君は賢い。知ってるだろ。理解してるはずだ。そんな話――全部、嘘っぱちだって」

 ひびが入ったのを、確かに感じた。カトリの痩せた頬や、大きいばかりの瞳や、病的に赤い唇に。俺はまくしたてる。ひびから言葉を流し込む。

「怪獣を間近で見たくないか? あいつはすごいぞ。車いすごと君を担ぎ上げて、十mの壁だって駆け上がる。黒いナンパ男に興味は? 奴と君の対決は俺もぜひ観戦したい。無二の親友になるか天敵になるか、どっちかだと思う。カトリ」

 手に力を籠める。

「俺と行こう」

 印がほどけた。彼女の手が俺の人差し指を握る。

「怪獣は、好きよ。ナンパ男も見たい」

 だが、その力はあまりにも弱い。

「だけど、それじゃあ――」

 のぞき込んだ眼。暗い炎が消えていた。焼け野原に残ったのは、一面の虚無。

「――あたしはなんのために生まれてきたの?」

 唇からこぼれ落ちた問いが俺の手の甲に滴って、ぬぐえない染みを広げた。

「カトリ」

 彼女は大きく息を吸い込んだ。病魔に侵された肉体から、残った力を絞り出す。

「誰か! 誰か来て、侵入者よ!」

 指先のぬくもりが離れた。

「さようなら、傭兵さん」

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