スワン・ピーク<7>
俺は奴の顔面に渾身の力で枕を押しつける。
脚が末期の痙攣じみて暴れ、もがく両手は虚しく空気をかき回す。俺は油断しない。力を緩めたりしない。
「手伝うか?」と、バルサ。
「ありがとう、大丈夫」
答える間に、またがった肉体から徐々に力が抜けていく。やって来る弛緩。最後にぴくりと小指を揺らし、終幕。舞い降りた完全な静寂。ようやくだ。手間をかけさせやがって、この野郎。俺は枕から手を放して言う。
「――で、どこまで話したっけ?」
「警報が鳴ったところまでだ」
「死人は死んでろよ」
キャスパーは上体を起こした。奴の顔面からぽろりと枕が落ちる。現れた顔は赤い。無理もない、さっきまで腹の皮が千切れるほど笑ってたんだから。キャスパーの好物はシェリーとセロリと他人の失敗談。俺の報告なんか、さぞかしいい肴になっただろう。
「あとは言わなくても分かるだろ。バルサ、脱出劇、ロッククライミング、屋根」
「メルが腐った屋根板を一枚ぶち抜いた。足がすっぽりハマって、引き抜く羽目になった。カブみたいに」
「バルサ! 言うなよ!」
僧房じみた宿舎の窓枠に腰かけて煙草を吹かすバルサが「心外だ」とでも言いたげな顔をした。そうだな、お前は事実を言っただけ。間抜けな俺が悪い。悪いのは全部俺。クソ。
笑いの発作をぶり返させかけた顔に枕を投げつける。
「カトリの居場所は判明した。この教会のヤバさとタイムリミットも。一日の仕事としては充分だろ」
「お前は天才だ、メル」
キャスパーはくつくつと肩を揺らした。
「今後、厄介な相手との交渉役は全部お前に任せる。俺ごときじゃ彼女たちからそこまで聞き出せたかどうか」
「嫌味をどうも」
「おいおい、素直に喜べよ、このキャスパー様が珍しく褒めてんだ。警戒されないってのは最高の武器。顔も体も頭もよすぎるのが俺の弱点」
次はきっちり息の根を止めよう、と俺は誓う。奴のお気に入りのバスボールを喉に詰め込んでやる。
「だが、ひとつだけ異議ありだ」
片手をあげたキャスパーに、バルサが煙草を箱ごと投げてやった。
「お前ほどじゃないが、俺だって多少は仕事をしたんだ。ジャン・ド・グラ様とやらの尊い教えを学んでた。尼さんたちが喜んで貸してくれたよ」
キャスパーはベッドの上に散らかっていた本を手に取る。カトリの母親、サーシャが抱えていたものと同じだ。
「で、結論。この聖域教会はカルトじゃない。インチキだ」
「宗教って奴は大抵そうじゃないのか?」
バルサがことりと首をかしげる。
「それでもレベルってもんがある。例えばこの素敵な神様のお姿」
キャスパーが開いたページの挿絵を示した。
「顔はシヴァかクリシュナの下手な模造品、赤い翼は智天使のコピペ、無数の手は千手観音。ド素人が二分で仕上げたコラみたいだ。ツギハギの縫い目が荒いのなんの。教義のほうも似たようなもんだった」
キャスパーはぽいと本を投げ出して、くわえた煙草に火をつけた。
「それもよくあることだろ」
俺の反論に、キャスパーはこめかみをかきながら答えた。
「うーん、違うんだな。実際に読みゃ一発で理解できると思うが――、この教えを〝発明〟した奴に信仰心はない。俺の秘蔵の酒とタマを賭けてもいい」
キャスパーは胸に手を当てて宣誓した。酒はともかく、こいつがタマを賭けるって言うなら全幅の信頼を置いていい。よほどの確信だ。
「じゃあ宗教ビジネスか? 自分たちでも信じてないインチキな教えで、信者から金を集めてる?」
これもよく聞く話だ。しかし、キャスパーは細く煙を吐いて首を振った。
「ビジネスならもっと上手くやる。この神も教義も、詐欺のタネとしちゃ作りが雑すぎる。ボケて死にかけの年寄りでも鼻かんで終わりだ、こんなもん」
キャスパーは不可解そうに眉をしかめて投げ出された本の表紙を眺めた。
「第一、金儲けが目的なら救う者を選別してるのは変だろ。困難な状況にある親と子だけ。集金相手は多けりゃ多いほどいいってのに」
信仰心でもない。ビジネスでもない。
それじゃこの聖域教会の目的は――何だ?
胃の府が重くなる。敵の意図が分からないことほど不快なこともない。
だが、心に浮かんだ疑問はキャスパーの言葉でいったん棚上げにされた。
「気にはなるが、ま、どうでもいいさ。俺たちはインチキ教団の闇を暴きに来たわけじゃない。で、バルサ。お前のほうは? なんか面白いもん見たか?」
「干物を見た」
……なんだって?
「小さい婆さん。魚の干物に似てた。九十歳――いや、百は行ってるか。尼さんたちに院長って呼ばれてた。ラオ院長って」
「ラオ? なんてこった」
キャスパーが驚きの声をあげた。
「その婆さんはこの教義を作り上げた張本人だぞ。存命なのかよ」
「息はしてたな。アタマもしっかりしてそうだったぞ。周りのガキどもにその本を読み聞かせてた」
バルサはあごをしゃくってベッドの上に投げ出された本を示した。そして言った。
「もうひとつ。私たち以外に潜り込もうとした奴らがいる。タレットに追い散らされて逃げてった」
カトリの病室に鳴り響いた警報音。てっきり、バルサが俺を脱出させるためにしたことだと思ってたが。
「あれってお前の陽動じゃなかったのか」
「違う。あれは軍隊蟻の仕業だ」
「蟻――中尉か。見間違いを期待したいとこだ」
キャスパーの口調に苦みが混ざったのはしょうがない。ラ・モット中尉。軍人崩れの傭兵。奴のご自慢はトレードマークの真っ赤なベレーと組織力。頭数にものを言わせて何でもすり潰す戦争屋。
「見間違いじゃない。奴らの部隊章は見間違えない」
「あのダサい柄?」
「あのダサい柄」
バルサはそれきり黙った。報告は終わりらしい。
俺は一息つくために窓辺に寄った。外は薄紫に染まり始めていた。見上げた空には、ナイフでひと削ぎしたような月が浮いている。鼻先にバルサの煙草が香った。
軍隊蟻の侵攻がこれで最後だとは思えない。カトリの儀式は明後日。彼女は満月の夜に尊い犠牲とやらに捧げられる。
「それじゃ、作戦タイムだ」
俺は振り向いて二人に言う。
「タイムリミットは明後日だ。キャスパー、プランは?」
「無理だね。時間がなさ過ぎる。第一、俺たちたったの三人だぞ。この教会全員の鼻先から、お姫様をかっさらえるわけないだろ」
どこからともなく取りだしたバスボールをお手玉しながら奴はうそぶく。否定の言葉はわざとだ。ナルシストはいつだって称賛に飢えている。
「ひねり出せよ。顔も体も頭もいいんだろ?」
「それだけ?」
「……分かった。お前はセンスもいいし、スタイルもいいし、その髪型だってヒゲだってグラサンだって最高に似合ってる。あと……」
「あと?」
「ヒゲも……」
「それはさっき聞いた。さあ、他には?」
「そろそろぶん殴るか?」
バルサの一言のおかげで、キャスパーはようやくお手玉をやめてにっこり笑った。と、と、と、と、とん、と軽い音を立ててバスボールが手の中に収まる。熟練の軽業師の手つきだ。
「しょうがねえな。ま、そんじゃ明日の夜あたりピクニックとしゃれ込もう。バスボールもたっぷりあるし、オヤツのキャンディはちょうど三つ残ってる」
どうせプランなんぞとっくに立て終わってるくせに。
俺は言った。
「カトリ・アレジャーノを奪って、逃げる。決行は明日」
同意の笑みがふたつ、黄昏に溶ける。
戻らないと宣言したお姫様の面影は、強いて頭から追い払った。




