スワン・ピーク<6>
嘘はサーカスに似ている。
巧みな演者は空中に渡された細い綱の上で大胆にトンボを切り、華麗にターンを決める。え? そこに綱なんてありましたっけ? なんて涼しい顔で。揺れる足場はダンスホール。奴は綱と戯れ、綱で遊び、綱を愛する。
俺は軽業師としては二流以下。だからなるべく堅実に行く。ピエロのメイクはごく薄く。ほとんど素だ。声色や口調を変えることもしない。今まではまあまあ上手くいってた。二流以下って自覚を忘れなきゃ、たいていのことで及第点は取れる。
だが、とうとう綱は切れちまった。真っ逆さまに落下して、地面に叩きつけられた。グシャー。
「あー……」
俺は顔を覆っていたマスクを取った。いい加減、息苦しかったし。
「悪いけど、俺は傭兵であって伝言係じゃない」
小さな唇が不満そうに尖る。
「なんで正体が分かったんだって聞かないの?」
「俺も無駄話は好きじゃない」
「つまらない」
大好物の甘いおやつを取り上げられた子どもの顔。カトリが初めて見せた年相応の表情。
「でも、正直なのは褒めてあげる。気に入ったわ、傭兵さん。嘘なんかついてあたしの時間を無駄にしたら、これを押そうと思ってた」
いつの間にやら、カトリの手にはコードがつながった赤いボタンのスイッチがある。
「ここの警備は優秀よ。あの人たち、先月、沼のそばの墓地に何人か入居者を増やしたみたい。微生物って素敵よね? なんでも分解しちゃうんだから」
年相応なのは表情だけか。俺は俺の生命線をぶらぶら揺らしてみせる彼女に訊いた。
「で、戻る気はないって? パパが嫌いか?」
「まさか。パパは最高の父親。政治家としてはどうか知らないけど、あたしは娘だもの。そんなのはどうでもいい」
ま、娘と愛人に甘すぎるのは玉に瑕ね、とカトリは肩をすくめてみせた。
「それじゃどうして――」
「ちょっと」
カトリの鋭い語気が俺の言葉を遮る。
「あなた傭兵なのに取引の基本も知らないの? ギブアンドテイク。情報には対価がいる。今度はこっちが質問する番」
自分でも驚いたことに、俺は苦笑していた。この根性の曲がったお姫様を俺は気に入りはじめているようだ。少なくとも、病気に苦しむ無垢で哀れな少女よりはずっといい。
「どうぞ」
「仲間は何人連れてきたの?」
さて、どう答えよう。
俺は考え込んだ。キャスパーならここぞとばかり大喜びで綱の上で舞い踊るだろう。多分、俺たちは一個大隊を引き連れてきたってことにされちまう。その部隊の中には拷問マニアや爆弾マニアもいることだろう。バルサなら? あいつは綱なんぞに上らない。あっというまにカトリをふんじばっておさらばする。半日後には報酬を手にし、ビール片手にばかでかい肉でも焼いている。思い浮かべたふたつのロールモデルは役に立たないったらない。
で、俺は答えた。
「二人だ」
カトリがどこまでの情報をつかんでいるかは分からない。最初から俺の正体を知っていたような恐るべきお子さんだ。俺の生命線の赤いボタンは彼女の手の中。そもそも俺は下手な軽業師だし。
「あらら。今までで一番、少人数だわ。よっぽど腕に自信があるのね」
俺の綱渡りの技を見極めようとする薄い笑み。
「どうかな。ほんとに腕利きならこんなところで尋問を受けたりしないと思うけど」
「どんな人たちなの?」
「おいおい、俺のターンだろ?」
「失礼」
カトリは優雅に手のひらを上にしてみせた。
「どうして戻る気がないんだ? パパはいい奴なんだろ?」
「ええ、戻らないのはパパのせいじゃない。でも、ここにはいいドクターがいて、痛み止めもある。パパのところと同じか、それ以上の医療は受けられるの。それに――」
無意識の動作だろう、カトリは自分の薄っぺらい胸に手を置いた。彼女の疾患は、心臓に致命的な影響を及ぼす。病魔の一撃はスレッジハンマー。対して、カトリの心臓はガラス製。
「――あたしにはここでやるべきことがある」
胸に置かれた手がこぶしを作った。伏せた目になにかが宿る。悪意や怒りや皮肉じゃない。諦観でも決してない。むしろ逆だ。これは、この暗い熱は――
「さて、こっちの番ね」
ぱっとカトリは顔をあげた。目に生き生きした光が戻る。
「お仲間はどんな人たち?」
「あ、ああ。えっと――」
さっきの眼差しを脳裏にこびりつけたまま、俺は言った。
「ひとりは女で、小型の怪獣みたいな奴」
「怪獣⁉ ……火でも吹くのかしら」
「どうだろう。奴ならやりかねないけど。火で済むならありがたいくらいだ。もう一人は男。黒い服ばっか着てるナルシストのホラ吹き。あいつにナンパされても本気にしちゃダメだぞ。ああ、でも褒め言葉にめちゃくちゃ弱いから、お世辞はものすごく有効」
「参考にする」
カトリは陽気な笑い声をあげた。
「次はあなたの番。さあ、質問をどうぞ」
「そうだな。それじゃ――」
俺はゆっくり唇を舐めてから訊いた。
「カトリ。君がここでやるべきことってなんだ?」
初めて、彼女は揺れた。あからさますぎる逡巡。壊れそうに細いあごが、答えを――助けを求めるようにさまよって、ぴたりと止まる。目にあの暗い熱が戻る。
「あたしは――」
視線を、その熱を捧げられる対象は、
「――あたしは、選ばれたから」
壁一面に描かれた、異形の神の像。
俺の唇が開くより早く、事態は転がった。
背後で紙の束がぶつかる音。俺は振り向いた。病室の入り口に立っていたのは母親――サーシャだ。足元には数冊の本がばらまかれている。
「カトリ!」
叫ぶように娘の名を呼んだサーシャは、敵意に満ちた目と22口径を俺に向けていた。これだから自動ドアって奴は。
「娘から離れて! すぐに!」
こういう時はどうするかって? もちろん、両手を上げるんだ。
だが、降参のジェスチャーが有効かどうか。相手は警察じゃないしプロの殺し屋でもない。銃の構え方だって素人そのもの。彼女は我が子を守ろうと必死なだけの、ただの母親だ。つまり、この世で最も情け容赦のない存在。俺は冷たい唾を飲み下した。
ごくりと喉の鳴る音と、控えめな声が重なった。
笑い声だ。カトリが肩を揺らしている。
「ママ」
口に手を当て、面白そうに母親を見る。
「ドクターにその態度は、少し失礼じゃない?」
「ドクター……?」
そうよ、とカトリは楽しげにうなずいた。
「昨日、言ったじゃない。新しいお医者様が担当につくわよって。ママったら、すぐ忘れるんだから」
「え、あ、ああ。そう。そうね、そうだったかしら――いやだ!」
サーシャは熱々の鍋のフタでも放り出すようにして、銃口を下ろした。
「ごめんなさい! 私ったら……」
サーシャは髪を撫でつけ、せかせかと散らかった本を拾い上げた。俺はようやく手を下ろす許可と観察の時間をもらえたようだ。
サーシャ・ルインスキほど肩書に似合わない女もいない。そこらへんを歩いている奴を適当に何人か連れてきて彼女の横に並べ、「アレジャーノの愛人当てクイズ」を開催したとしよう。正答率は恐ろしく低いに違いない。選択肢の中に八十歳のばあさんや一歳の赤ん坊、俺やタックスなんかが混ざってたとしてもだ。
地味なブラウスの胸に本を抱えて、サーシャは手を差し出した。
「本当にごめんなさい。サーシャです、その子の母親」
俺は彼女の手を取った。
「私、忘れっぽいんです。それに興奮しやすくて。きっと過去の、その、色々な薬の影響で」
俺はどうにか微笑んだ。笑みは自分でも分かるくらい強ばっていたし、手のひらは汗ぐっしょりだったが、この状況ならむしろ自然だろう。
カトリも微笑んでいるが、こちらは余裕の笑みだ。俺は静かに混乱する。ご紹介はありがたいが、俺がドクターだって?
謝罪の言葉を繰り返していた母親が、ふいに眉をひそめた。
「あら? でもドクター・ツェンからは担当を変わるなんて聞かなかったわ。ついさっきまでカトリのことをお話ししてたのに」
「それは……」
喉の奥で舌が硬直する。まずい、辛うじてつながった命綱まで切れそうだ。千切れそうなそれを結んで見せたのは、
「ママってば、ほんとにあたしの話を聞いてないのね」
やはり、カトリだった。
「このドクターはカウンセラーよ。心臓じゃなくて心のほうの専門家」
混乱が加速する。どういうつもりだ、この小悪魔は。
「とっても面白い人よ。今までの先生たちの中でピカイチ。あたしたち、すっかり意気投合しちゃった。友達になったの。そうでしょ、ドクター?」
うなずく以外に、俺に何ができた?
サーシャは花がほころぶように笑った。一瞬、みとれた。アレジャーノが彼女に惚れた理由の端っこを理解した気がした。
「珍しいわね、カトリがそんな風に言うなんて」
俺に意味ありげな目配せを送る娘と違って、母親は素直なタチらしい。
「読書家なんですね」
俺はサーシャが大事そうに抱えた本を示した。
「カトリと一緒に読もうと思って」
布張りの本たちが児童文学なんかじゃないことは分かる。さっき床にばらまかれて開いたページには、でかでかと挿絵が描かれていた。赤い翼と触手じみた無数の手、第三の眼を持つ神のイラスト。
「次はこの子が選ばれましたから、私も勉強しておかないと」
声は誇らしさと感激で揺れていた。
「ジャン・ド・グラ様がカトリに使命をお与えくださった」
「名誉なことですね」
俺は調子を合わせた。カトリは〝選ばれた〟。使命とやらを与えられた。だがその使命とはなんだ? 答えはすぐにリボンをかけて差し出された。我が子を自慢するチャンスを逃せる親は多くない。
「ほら、ご覧になって。ここにあるのはほんの一部ですけど」
サーシャはいそいそと東側の壁に近づいて、片隅の小さなスイッチを押した。控えめな駆動音と共に、壁一面を覆っていたアコーディオンカーテンが真ん中から割れた。壁紙の色は深い赤。白で埋め尽くされた病室に突如現れた鮮烈な色彩の上に、子どもたちは行儀良く並んでいた。写真。ポートレート。彼らはポスターサイズの紙の中からこちらを見つめていた。表情は様々だ。得意げに歯をむき出して笑う少年、真面目くさった顔の少女、不思議そうにレンズに手を伸ばす幼児。下は三、四歳から上は十代の半ばくらいまで。豪奢な象眼の額縁が似合う子はひとりもいなかった。額縁は檻のようだった。
ひとつひとつのポートレートには、二行のキャプションが添えられていた。一行目はおそらくは被写体の名前。二行目は日付。撮影日だろうか。一番古い日付は半世紀近くも昔だ。
みんな血縁だろうか、と考えて、そんなわけあるかとすぐさま否定した。子どもたちに似通った特徴なんてない。なんで俺は血がつながってるなんて思ったんだ? なんの共通点が?
「カトリも明後日には、彼らの仲間入りをします。神に選ばれた子どもたち。彼らと同じように、カトリも世界を救うのですわ」
かけっこで一等賞になった我が子を自慢する親の口調で、サーシャは言った。
「汚れなきその命、尊い犠牲と引き換えに」
俺ははじかれたように振り向いた。この教会のドクターにしては不自然な態度だっただろうか、なんて気を回す必要はなかった。サーシャの目はもう俺なんか見ていない。
儀式では特別な杯が与えられるのです。神の血、ネクタール。少しも苦くなんてない。とても、甘い。眠るように神の御許に逝ける。死ではないのです。わずらわしい地上の肉体を脱ぎ捨てるだけ。目覚めたとき、この子は神の膝元にいる。慈悲深き千の手と先に宇宙に昇った子どもたちがカトリを迎えるでしょう。痛みも苦しみも悲しみもない、楽園。
母親は愛おしそうに娘の柔い髪を撫でていた。
カトリは静かに、母親の手に頭をゆだねている。さっき、自分の心臓を握りしめていた小さな手がひらめく。胸の前で複雑な印を描く。乳児室で尼僧が結んだのとまったく同じ。
暗い熱を思い出す。カトリの瞳の底で煮え立っていたそれ。悪意や怒りや皮肉じゃない。諦観でも決してない。あれは。
あれは、狂信の熱だ。
「それはなんとも――」
おぞましい。
「素晴らしいことですね」
俺は舌を奮い立たせた。
サーシャはにっこり笑ってうなずいた。鳥肌が立つほど綺麗な笑みだ。カトリはうつむいている。表情は分からない。
「カトリの儀式は明後日?」
「ええ、満月ですから。光満ちた夜がいいだろうと院長様が気づかってくださって」
あら、とそこでサーシャは唐突に普通の母親の顔に戻った。
「忘れてたわ。カトリ、これから院長様がここにお見えになるの。少しお話ししましょうって。よろしければドクターもご一緒に」
「俺も? いいんですか?」
「もちろん。滅多にない貴重な機会ですからね」
「それは光栄――」
じゃない。もちろん。
院長ともなれば、医療スタッフの顔くらい把握してるはずだ。俺は今度こそ綱の上から蹴り落とされる。どうする。さっさとこの部屋を抜け出すか? いや、今立ち去るのはどう考えても不自然だ。それに、廊下で院長様にばったりお目もじしちまう可能性も高い。
「えっと……。ね、ねえ、ママ。それって絶対、今じゃないとダメ?」
顔をあげたカトリにさっきの熱はない。かわりに焦燥が浮かび上がった目でちらちらと俺を見る。
「なに言ってるの。ダメに決まってるでしょう?」
今日の俺はいいとこなしだ。
俺がメル、つまり「アホの上に運のない間抜け野郎」だってことは心から認めよう。ああ、違うか。ひとつだけ、異議を唱えさせてもらう。運だけはいい。
けたたましい警報が響いた。
神経を逆なでするために綿密に設計された音。サーシャの顔色が変わった。
「カトリ、ここにいなさい! ドアをロックして! ドクター、カトリをお願いします!」
勇猛なる母親は廊下へ駆け出して行った。残された娘の方は案外、冷静だった。
「侵入者ね。タレットが起動したの。今まで何回か、こういうことがあった。――ちょっと、傭兵さん! なにぼんやりしてるの!」
カトリが存外強い力で俺の白衣の袖を引っ張る。
「さっさと行きなさいよ! 今のうちに逃げるの! 分かる⁉」
袖を引っ張っているのと逆の手が、まだロックされていないドアを指さした。赤いボタン付きのスイッチはベッドの枕元に放り出されている。驚いた。どうやらお姫様はくせ者の逃亡をお望みらしい。
俺は彼女の手を取って外した。そっとだ。それでも手首の骨が俺の手のひらを刺した。
「なあ、カトリ。ルール違反になるけど、最後に俺のターンでいいか?」
「ふざけてる場合じゃないでしょ!」
「なんで俺をかばってくれるんだ? さっきはママから。今は院長から」
俺は窓に向かって歩き出す。この大きさなら、なんとかなりそうだった。
カトリが言葉に詰まった気配がした。俺は窓を開けた。
「別にかばったつもりはないけど」
珍しく口ごもる。
「けど、あなた抜けてるんだもの。今までパパが送り込んだ人たちの中で、一番」
ごもっともすぎる。なんせ俺は〝メル〟だ。
「塩と毒を間違えて飛び出して来ちゃったり、子ども相手に大真面目にルールを守ったり」
俺は窓を背にして振り向いた。カトリは乾いた指先で病院着の裾をいじっていた。
「馬鹿みたいに緊張して、あんな風に抱き上げるんだもの。だからもう少し、おしゃべりしてあげてもいいかなって」
警報は鳴り続けている。侵入者か、侵入者ね。どこもかしこも警戒態勢に決まってる。こんな時に廊下に飛び出すなんて自殺行為。カトリ、君はちょっと実践不足。
「カトリ」
「……なによ」
「君は俺が今まで会った子どもの中でピカイチだ」
とたんに、すさまじい力で引っ張られた。後ろにだ。
カトリが短い悲鳴をあげた。
「その人が怪獣⁉」
どこか歓喜に似た声に見送られて、俺は病室を飛び出した。文字通りだ。
「お前、ちょっと痩せたか?」
怪獣は両脚と右手を石壁にひっかけている。左手はどうしてるかって? 俺の体をジャガイモ袋みたいに抱えてる。
「いいタイミングだ、バルサ」
「上だ。屋根を伝う。地上は警備がうっとおしい」
そのまま、わっしわっしと三本の手足だけで外壁を上り始める。体のあちこちがあちこちにぶつかって悲鳴をあげるが、文句を言える立場じゃない。
「聞いてもいいか」
「いいぞ」
「俺はどうすべきだ?」
「知らん」
だよな。おっしゃる通り。




