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スワン・ピーク<5>

 どっかの言語学者が「アホの上に運のない間抜け野郎」の代名詞を作ろうと思い立ったとしよう。それは間違いなく「メル」だ。

 言い訳させてもらうなら、途中まではまあまあ順調だった。本館とつながった病棟の建物は全体が乳児室に雰囲気が似ていた。嫌になるくらい清潔で、うんざりするくらい機能的。ゴシックホラーの色はない。人の気配は少なかった。白い廊下を進む間、すれ違ったのは数人だった。尼僧と、医療スタッフ風の白衣の男女。隠れる必要もなかった。軽く会釈しておしまい。誰も俺に気を払ったりしなかった。勝因は三つ。マスクと白衣のおかげってのがひとつ。制服は個人から個性を奪い去る。ふたつめは俺が――例えばツレたちと比較すれば――奥ゆかしい――平凡でつまらないとは断じて言わない――容姿だってこと。俺は血まみれのスコップもとんちきなサングラスも装備してないし。最後のみっつめは、奴らが俺なんか眼中になかったって点だ。まるで他に夢中なことがあって、不審者なんぞに注意してる場合じゃないって感じだった。俺のほうは違う。会釈の下から彼らの顔を素早く観察した。

 そのひとつが引っかかった。見覚えがあった。

 男だ。四十歳前後。薄い頭髪。ふちなしの眼鏡。やや猫背。ピアニストみたいな指。鼻の横に楕円形のホクロ。

 心臓外科医だ。暇つぶしにめくった雑誌にでかでかと写真が載っていた。世界でたった数人しか成し得ない術式を可能にする神の手の持ち主。都市まちの金持ちの爺さん婆さんが奴の門前に列を作ってる。どんな高額報酬でも思いのままの医者が、なんでこんな場所に? 急に人道やら信仰に目覚めたって? まさか。

 俺はそのことを頭の中に「?」つきで書き留めて先を急いだ。

 白い廊下をいくつか曲がると、ささやかなロビーのような場所に行き当たった。壁一面に、もはや見慣れた例のグロテスクな神様のウォールアート。

 そこに、カトリ・アレジャーノがいた。

 車いすに座っていた。彼女は一人じゃなかった。薄いニットキャップを被った少女と一緒だった。彼女も車いすだった。少女たちが寄り添うテーブルには、おもちゃのティーセットが鎮座している。

「お茶をいれてちょうだい、ばあや」

 俺はカトリの声を初めて聞いた。細いが意思を感じさせる音の連なり。穴蔵に叩き込む。

「はい、おひめさま」

 答えた少女は、カトリよりいくつか年上のようだった。いや、違う。カトリが小さすぎるんだ。彼女はどう見ても四、五歳程度の体のつくりだ。病気のせいだろうか。

 カトリは芝居がかった仕草で胸の前で両手を組む。

「王子様は、いつお迎えに来てくださるのかしら。あたし――わたくしが、嫌いになったのかしら」

「そんなことはないでございます、おひめさま。おーじ様はおひめさまをすごく愛しているのですから」

 お姫様と王子様にお茶会ね。こんな場所でもままごと遊びってのは変わらないらしい。

 おもちゃのティーポットからおもちゃのティーカップへ、お茶が注がれた。湯気が立っていた。中身は本物のようだ。

 カトリは取り出したハンカチを顔に当て、大げさに泣き崩れた。

「いいえ、いいえ。きっと嫌いになったのよ。他にすごくすごく好きな人ができたのよ。そうでしょう?」

 否定してほしいがための問いかけ。こういうところは大人の女顔負け。

 ――なんて、感心してる場合じゃなかった。

 ハンカチで顔を覆っているカトリを伺うニットキャップ。目つきが鋭すぎた。小さな手が病院着らしいゆったりしたパンツのポケットに滑り込む。取り出したのは手のひらに収まるくらいの紙袋。片手で封を開ける。白いさらさらした粉。一方のカップに注がれたそれはわずかに水面を揺らしただけだ。何事もなかったようにお茶がたゆたう。

「おひめさま、さあ、これを飲んで元気を出して」

 ソーサーごと差し出されるカップ。

「ありがとう、ばあや」

 涙をぬぐうマネをして、カトリはカップを受け取った。

 で、俺はやっちまった。

 気づいた時にはカップを持ったカトリの腕をつかんでた。ちっちゃな唇が今まさに水面に触れようとしてたタイミングだ。

 真ん丸な四つの目が、俺を見上げる。

「今、なにをした?」

 ニットキャップの少女に訊く。彼女の目に怯えの影が走る。

「い、意味わかんない」

「お友達のカップに何を入れたかって訊いたんだ」

「だから、意味わかんないって」

 自白したも同然の声の震え。子ども相手の尋問はやっかいだ。グリップエンドでぶん殴るわけにもいかないし。だから、膠着した状況を打開したのは俺じゃない。

「――クソ女」

 カトリはお茶を口に含んだ。止める間もなかった。

 ぐちゅぐちゅぐちゅ、がらがらがらがら。洗面台でお馴染みの音がカトリの口内から響く。そして最後はお決まりの「ぺっ」だ。

 床にお茶を吐き出して、カトリは手の甲で口を拭った。

「ただの塩? 思った通りいくじなしね。青酸カリくらい使えっての」

 蒼白になるニットキャップをカトリはせせら笑う。

「なんでこんなことを――って、聞くのもバカバカしい。あたしがあんたのオトコとピアノの裏でキスしたからよね」

「リューとキスしたの⁉ ひどい!」

「遊びよ、お馬鹿さん。迫ってきたのはあっちだし、キスは最悪だった。あんたのお茶よりもね」

 ニットキャップの目に涙が盛り上がる。泣きべそは爆発寸前。カトリは静かにカップを置いた。

「あんたとの遊びは今日でおしまいみたい。残念、楽しかったのに」

「あたしは全然、楽しくなかった。カトリはおひめさまの役を絶対やらせてくれなかった」

「当たり前でしょ」

 挑発的な微笑み。

「お姫様はいつだってあたし。あんたは下僕がお似合い。行きましょうか、ドクター」

 ドクター。あ、俺か。

 カトリは視線だけで俺に車いすを押すよう促した。俺は青い血だの高貴な血統だのは眉唾物だと思っちゃいるけど、事実、アレジャーノの遺伝子はしっかり役目を果たしているらしい。

「疲れたわ。部屋まで送って」

「ええと、君の部屋を知らない。その、新人なもんで」

 カトリの細い眉が神経質に痙攣した。嘘でしょう、信じられない、あたくしの宮殿を知らない臣下がいるなんて。

「指示するから、言う通りに進んで」

 指示ね。案内でもお願いでもなく、指示。

 俺は慣れた風に――見えるように祈りながら――車いすを押し始めた。きしみのひとつもたてず、タイヤは滑るように進む。

「君はいつからここに?」

 医療スタッフならこんな時、こういう言葉をかけたりするはずだ。が、返答は新米には痛烈すぎた。

「聞いてどうするつもり? あたし、社交の為だけの会話は嫌いよ。時間の無駄だから」

 おやまあ、なんとも可愛らしいお子さんだ。

 やがてカトリの病室についた。目の前で音もなくスライドドアが開いた。なんと自動ドア。二度目の「おやまあ」。こういうのはドアノブをひねることすら億劫がる都市まちの連中向けかと思ってた。

 部屋は広い。大きな窓から午後の光が差し込んでいた。この病棟に潜り込んで初めて窓を目にした気がする。中央にはパイプのベッド。その脇にデジタルの数字とグラフを瞬かせる医療機器が張りついている。床も天井も東側の壁一面に垂れ下がるアコーディオンカーテンも乳児室と同じ白で埋められどこまでもよそよそしい。この部屋で有機質を感じさせるものと言えば、今、車いすの上にいる痩せた少女と、もはや親しみすら感じる例の神様のウォールアートだけ。

 俺はベッドのそばまで車いすを押し、止まった。

 やたらと大きな目が不機嫌そうに見上げてくる。眼だけで訴えてくる。「指示」をお垂れになるつもりはないらしい。

 なんだよ? ああ、そうか。

 俺は車いすの前に回り込んだ。カトリの膝裏に手を差し込み、もう片方の手で背中を支えてやった。いわゆるお姫様抱っこ。ぎょっとした。彼女の体を放り投げちまわなかったのは奇跡だ。子どもって奴はこんなに軽かったっけ?

 こめかみに銃を突きつけられたみたいに背中に脂汗をかきながら、俺はカトリをベッドに下ろした。小さな尻を乗せても、マットレスは沈み込みもしなかった。

「あー、それじゃ、俺はこれで」

 カトリの病室までのルートは頭に叩き込んである。深追い禁物。今回はこのくらいで撤退するのが吉。

 立ち去ろうとしたとき、

「待って」

 今度はなんだ。ひざまづいて足にキスでもしろって?

 四歳にしか見えない七歳の少女は、バースツールにいるみたいにゆっくり足を組んだ。

「迎えはいらないわ。戻る気はないから。あたしも、ママも」

 化粧もしていないのに赤の目立つ唇がつり上がる。

「――そうパパに伝えてくれる? 傭兵さん」

 見てるか、言語学者ども。

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