スワン・ピーク<4>
俺は女という性を尊敬している。
女は腕力に劣る。背は低いしウェイトだって軽い。そもそも肉体の作りが脆い(もちろん「平均的には」って話だ。中には規格外もいる。俺の隣とかに)。だが、そんな弱い生き物を相手に、してやられた経験は一度や二度じゃすまない。奴らは楽々とハンデを粉砕する。策略、情熱、本能、殺気、破れかぶれ。なまじっか強い生き物じゃ逆立ちしても到達できないそれらの高み。俺は女を尊敬してる。引き金を引く時もためらわないくらいだ。
そして今や、その尊敬は恐怖に近いものに変化してる。
見学会の許可はあっけないほど簡単に下りた。百もの嘘とおべっかを用意していたキャスパーが不満げな顔をしたほどだ。先導してくれたのは件の杖の尼僧だ。
バルサが本館と呼んだ建物は、ロの字型をしていた。中央は広い中庭。幼い子どもたちがボール遊びをしてるのを、尼僧や親たちが見守っていた。バルサの言う通り、少数だが父親らしい男たちの姿もあった。眼差しは一様に静謐だった。
「こちらが乳児室。入室できるのは医師と看護師、母親だけです」
「父親は立ち入れないのですか?」
「お気の毒ですが。病気の菌を持ち込むリスクを少しでも下げたいのです。赤ちゃんはまだ外の世界になれていませんから」
ごもっとも、素晴らしい、と俺の〝夫〟が褒めちぎる。
大きなガラス越しに見える保育器の海。幾人かの赤ん坊は福音めいた泣き声をあげている。小さな口に乳房をあてがう母親たちの横顔は、祈りの形をしていた。
乳児室は完全に清潔で近代的だった。白い壁の棚には医療品がずらりと並び、保育器には個々に透明な強化プラスチックのカバーがかかっている。全て完璧に消毒してありそうだ。俺なんか、指を触れただけで溶けちまうんじゃないだろうか。じゅわっ、悪魔よ去れ。
今の俺は下らない冗談でも考えてなきゃやってられない。
腹にくくった砂袋は容赦のないストレスを与えてくる。「八㎏にしてみた」と言ったキャスパーのにやけ面。くそ、世の妊婦は全員こんな苦行に耐えてるのか? ほんとに? マジで? なんで何もかも嫌にならないんだ。なんで笑ってられるんだ。尊敬どころじゃない。怖い。
脂汗にまみれていたせいで、危うくそいつを見逃すところだった。
「あれは?」
キャスパーは乳児室の壁に描かれたモチーフを指さした。
赤ん坊のようにもふっくらした女のようにも見える巨大な顔。青く塗りたくられた額には第三の眼が開いている。顔の周りを花びらのように取り囲む赤い翼。さらに外輪に無数の腕。触手のように四方に伸びる。この教会のあちこちで目にした意匠だ。
「ジャン・ド・グラ様です」
尼僧は杖を置いて手を合わせた。細い指が動いて、胸の前で複雑な印を組む。
「この世をお創りになり、この世に幕を引く御方。慈悲深き救い主様。千の御手を差し伸べて罪なき者を宇宙のかなたへお連れくださる」
みずみずしい頬を彩る従容と諦観の色。まるで日没を知る老婆のような。
「信仰を強制はいたしません。けれど、あなたがたもジャン・ド・グラ様の御前に身を投げ出す日が来るでしょう。あの御方があなたがたをお選びになるのなら」
その時、足首に鋭い痛みが走った。急に聖痕が開いたとかじゃない。愛しの夫が蹴ったからだ。ああ、分かってるよ、そろそろだよな。
ううううう、と俺は精いっぱいの作り声を絞り出し、背を丸めた。砂袋の苦痛は本物だったから、割と真に迫っていたと思う。
「まあ、陣痛ですか」
尼僧の言葉に、キャスパーの裏返った声が重なる。
「ああ、どうしよう! 陣痛じゃない、発作です! ――――という病気はご存じですか」
「ええ、それは、もう。なんてこと、大変だわ」
俺はその舌がもつれそうな病名を知らないが、感染症じゃないことは確かだ。じゃなけりゃキャスパーはこの病気を選ばない。
「良かった、話が早い! 治療室を提供していただけませんか、できるだけ設備が整ったところを」
奴の演技は相変わらずの圧巻。喉を震わせ、怒りに限りなく近い必死さを演出している。
「分かりました、すぐに医師を」
「ストレッチャーだけで結構です。私は医師です。ずっと妻を診てきました。それに、彼女は他人に肌を見られるくらいなら死を選ぶでしょう!」
あっという間にストレッチャーに乗せられた。滑るように運ばれる。襤褸布の隙間から、こちらを眺めている子どもたちが見えた。素直な驚き、気づかわし気な表情。車いすの少年の膝には鮮やかな色のボールが乗っていた。そのピンク色も瞬く間に後ろに流れていく。
カトリ・アレジャーノは先天性の難病を患っている。最高級の医療がなきゃ、ひと月と生きてはいられない。そんな彼女を置いておくなら、病棟だ。設備が整った治療室のすぐ近くとか。俺がストレッチャーごとぶち込まれた部屋なんか最適。
「病室で妻と着せ替えっこするなんて、なかなか倒錯的だ」
「そのネタ引っ張るなよ」
二人きりになった治療室で俺たちはお色直しと洒落込む。おあつらえ向きに治療室には白衣とマスクが常備されていた。いいね。騒ぎを起こすタイミングじゃない。今は、まだ。
カトリと母親のサーシャを知るのは写真を見た俺だけだ。つまり今回、嗅ぎ回るのは俺の役目。
「それじゃダーリン、健闘を祈る」
頭から襤褸布を被ってベッドに横たわったキャスパーが言う。
「お前こそバレるなよ」
マスクを顔の半ばまで引き上げながらそう返す。
もちろん俺は、妻の演技力に絶対の信頼を置いている。




