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孫正義(そんまさよし) 八兆円の向こうに見える夢

お金持ちの生き方・考え方


孫正義(そんまさよし) 八兆円の向こうに見える夢


 孫正義は、金を失うことよりも、夢を失うことのほうが怖かった。何兆円という金額が目の前を行き来しても、胸の奥にある少年のような気持ちは消えなかった。人から無謀だと言われれば悔しかったし、自分の判断が間違っていたと知れば、眠れない夜もあった。それでも、まだ誰も見たことのない未来を想像すると、心が熱くなった。


 東京の朝は、冷たい雨に包まれていた。高層ビルの窓には細かな雨粒が流れ、灰色の雲が街を覆っている。孫は白いシャツに濃紺の上着を羽織り、会議室の大きな窓の前に立っていた。机には温かいコーヒーと、焼きたてのパンが置かれていたが、まだ手をつけていなかった。


「社長、そろそろ会議のお時間だ」


 長年そばで働いてきた幹部が声をかけた。


「今日は、あまりよい顔をしていないな」


「それは社長のほうだ。昨夜も遅くまで資料を見ていたんだろう」


 孫は振り返って笑った。


「考え始めると、止まらなくなるんだ」


「八兆円という数字を見ても、まだ考えることがあるのか」


「八兆円だからこそ、考えなければならない」


 幹部は椅子に座り、湯気の立つコーヒーを口にした。


「世間の人は、そこまで大きな金があれば、もう何もしなくていいと思うだろうな」


「そうだろうね。家も買える。好きなものも食べられる。世界中を旅行することだってできる」


「それなら、なぜ休まない」


 孫は窓の外を見た。


「休むために会社を始めたわけじゃないからね」


 その声には、少しの迷いもなかった。


 孫は幼いころのことを思い出していた。佐賀県鳥栖市で育った少年時代、家は決して豊かではなかった。周囲の目が冷たく感じられることもあり、悔しさを胸にしまい込んだ日もあった。それでも父は、息子の可能性を信じていた。


「正義、おまえは大きなことをする男になる」


 父の言葉は、少年の胸に強く残った。


「本当にそう思う?」


「思うとも。人間はな、自分で自分を小さくしてはいけない」


 その言葉を聞いたときのうれしさを、孫は忘れなかった。貧しいことは恥ずかしくない。だが、自分には何もできないと決めつけることだけはしたくなかった。


 若い孫はアメリカへ渡った。慣れない英語に苦労しながらも、大学で学び、新しい技術に夢中になった。夜遅くまで机に向かい、窓の外が明るくなるまで考え続けたこともあった。


「そんなに勉強して、いったい何になるんだ」


 友人があきれたように尋ねた。


「世界を変えたいんだ」


「世界を? ずいぶん大きく出たな」


「大きすぎるくらいで、ちょうどいい」


 孫は笑った。目の前には、食べかけのサンドイッチと冷めたコーヒーがあった。金は十分ではなかったが、頭の中にはいくつもの商売の種が生まれていた。


「金持ちになりたいのか」


「もちろん、金は必要だ。でも、金だけが欲しいわけじゃない」


「じゃあ、何が欲しい」


「自分が生きたことで、世の中が少しでも変わったと思える人生だよ」


 友人は首をかしげたが、孫は本気だった。


 やがて日本へ戻り、ソフトバンクを創業した。小さな事務所には机と椅子が並び、電話のベルが鳴り響いた。立派な会社とはほど遠かったが、孫の胸には大きな希望があった。


「これから情報の時代が来る」


 孫が熱心に語ると、社員は不安そうに顔を見合わせた。


「社長、本当にそんな時代になるのか」


「なる。いや、必ずそういう時代をつくるんだ」


「でも、資金はどうする」


「知恵を出そう。人に会おう。何度断られても、また挑戦しよう」


 孫は机を軽くたたいた。


「最初から金がある人間だけが成功するなら、世の中はつまらないじゃないか」


 社員たちは笑った。孫も笑った。だが、笑いながらも心の中では必死だった。給料を払わなければならない。取引先との約束を守らなければならない。夢を語るだけでは会社は続かない。その重さを、孫は少しずつ知っていった。


 長い年月が流れ、会社は巨大になった。投資する金額も、背負う責任も、昔とは比べものにならなかった。


 ある日の昼食、孫は幹部たちと食卓を囲んでいた。白い皿には焼き魚と野菜が盛られ、温かなご飯と味噌汁が並んでいた。焼き魚の香ばしい匂いが漂い、窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。


「社長、資産が何兆円にもなったら、食事も特別なものになると思っていたよ」


 幹部の一人が冗談を言った。


「毎日ごちそうばかり食べていたら、体がもたないよ」


 孫は笑いながら箸を取った。


「それに、腹が減っているときの温かいご飯は、何よりうまい」


「金持ちになっても、そういうものか」


「人間の腹は一つしかないからね」


 皆が笑った。


「でも社長、普通の人なら一生かかっても使い切れない財産を持っている。それでも、もっと大きな事業をやりたいのか」


 孫は箸を置き、少し考えた。


「金はね、持っているだけでは何も生まないんだ」


「どういうことだ」


「新しい技術を育てたり、会社をつくったり、人が便利に暮らせる仕組みを生み出したりする。そのために使ってこそ意味がある」


「失敗することもあるだろう」


「もちろんある。大きな失敗もした」


 孫の顔から笑みが消えた。


「自分の判断で、多くの人に心配をかけたこともある。あのときは、さすがにこたえたよ」


「怖くはなかったのか」


「怖かったさ。何も怖くない人間なんていない」


 孫は窓の外へ目を向けた。


「でも、怖いから何もしないというわけにはいかないんだ」


 午後の会議では、人工知能の未来について話し合った。画面には世界各国の企業や技術の資料が映し出され、社員たちは真剣な表情で説明を続けた。


「社長、この投資には大きな危険がある」


「わかっている」


「予想が外れれば、巨額の損失になるかもしれない」


「その可能性も考えなければならないね」


 孫は腕を組み、しばらく黙っていた。


「ただ、危険があるという理由だけで、未来をあきらめたくはない」


「それでは、どこで判断するんだ」


「夢の大きさだけじゃない。実現する力があるか、社会に必要とされるか、失敗したときに何を失うか。それを徹底して考える」


 若い社員が、おずおずと手を挙げた。


「社長、一つ聞いてもいいか」


「もちろん」


「どうすれば、社長のような金持ちになれるんだ」


 会議室に笑いが起こった。


 孫も笑ったが、すぐに真剣な顔になった。


「まず、自分が何をしたいのかを考えることだね」


「金を稼ぐ方法ではなくて?」


「金を稼ぐ方法も大事だ。でも、何のために稼ぐのかがなければ、途中で迷ってしまう」


「では、社長にとって金とは何だ」


「夢を実現するための道具だよ」


 孫は若い社員を見つめた。


「ただし、道具だからといって粗末にしてはいけない。投資家のお金も、社員の生活も、取引先との信用もかかっている。夢が大きければ大きいほど、責任も大きくなるんだ」


 若い社員は深くうなずいた。


 夕方になり、会議が終わった。窓の外では雨がやみ、ビルの間に夕日が差し込んでいた。孫は一人、窓辺に立っていた。


 八兆円という数字を聞けば、人は驚くだろう。だが、それが会社の価値を示す数字なのか、個人の資産なのか、投資の規模なのかによって意味は違う。大きな数字だけで、人間の幸せや成功のすべてを測れるわけではなかった。


 そこへ、先ほどの若い社員が戻ってきた。


「社長、もう一つだけ聞いてもいいか」


「何だい」


「もし、明日すべての財産を失ったら、どうする?」


 孫は少し驚いたように目を見開き、それから笑った。


「そうだね。また何かを始めるだろうね」


「一からやり直すのか」


「簡単ではないだろう。でも、考えることまでは奪われないからね」


「そんなに仕事が好きなのか」


「仕事というより、未来を考えることが好きなんだ」


 社員は夕日に染まった街を眺めた。


「僕は、まず家族が安心して暮らせるだけの金が欲しい」


「それも立派な夢じゃないか」


「社長の夢に比べたら、小さいよ」


「そんなことはない」


 孫は穏やかに答えた。


「夢の大きさは、人と比べるものじゃない。君が大切にしたいものを守れるなら、それは十分に価値がある」


 若い社員は、うれしそうに笑った。


「ありがとう。少し気が楽になった」


「それならよかった」


 孫は再び窓の外を見た。街には明かりがともり始め、帰宅を急ぐ人々の姿が小さく見えた。あの一つ一つの明かりの下に、誰かの生活があり、誰かの願いがある。


 金持ちになることは、人生の終着点ではない。金を得たあと、何を大切にし、何に使い、誰のために働くのか。その問いは、財産が増えるほど重くなるのかもしれなかった。


「さて、明日も忙しくなるな」


 孫は上着を整え、机に残った資料を手に取った。


 少年のころ、まだ何者でもなかった自分が思い描いた未来は、ずいぶん遠くまで広がった。それでも、夢の先にはまだ知らない世界がある。


 孫はその世界を見たいと思った。成功の喜びも、失敗の痛みも知ったうえで、もう一度挑戦したかった。


 東京の夜景を背に、孫正義は静かに笑った。


(第一話 終)


この物語は、孫正義の生い立ち、ソフトバンク創業、情報技術への投資など、公に知られている歩みをもとにした創作小説。会話、食事、会議の場面、心情は創作であり、本人の実際の発言を再現したものではない。「8.1兆円」「75%」は対象や時点が特定できないため、確定した個人資産や保有比率としては扱っていない。



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