夫が遺したものは、お金だけではなかった
『お金持ちの生き方、考え方 アイリス・フォントボナ』
夫が遺したものは、お金だけではなかった
アイリス・フォントボナは、夫を亡くして初めて、どれほど大きな屋敷に暮らしていても、人が一人いなくなるだけで家は寒くなるのだと知った。窓の外にはチリの首都サンティアゴの明るい空が広がり、庭の花々も以前と変わらず咲いている。それなのに、夫のアンドロニコが座っていた椅子を見るたび、胸の奥に冷たい風が吹き込むようだった。
二〇〇五年。夫が築いた事業は、鉱山から銀行、飲料、製造業にまで広がっていた。残された財産は途方もなく大きい。しかし、アイリスには、金額の大きさよりも気がかりなことがあった。
家族が、この先も家族でいられるだろうか。
その朝、アイリスは落ち着いた紺色のワンピースに薄い真珠の首飾りを合わせ、食堂へ向かった。長い食卓には、焼きたてのパン、バター、白いチーズ、苺のジャム、温かな紅茶が用意されている。香ばしいパンの匂いに、ほんの少し気持ちが和らいだ。
息子のジャン=ポールが、先に席についていた。
「母さん、眠れた?」
「少しはね。あなたこそ、疲れているでしょう」
「大丈夫だよ。今日は会社のことで話があるんだ」
アイリスは息子の顔を見た。立派な大人になったと思っていても、こうして向かい合うと、幼い頃に食卓で牛乳をこぼした姿が浮かんでくる。
「まずは食べなさい。仕事の話は、そのあとでもできるでしょう」
「母さんは昔からそう言うね」
「お腹が空いていると、難しい話はもっと難しくなるものよ」
ジャン=ポールは笑い、パンにバターを塗った。
しばらくして、家族の事業に関する書類が運ばれてきた。厚い紙の束には、会社の名前と数字が隙間なく並んでいる。アイリスは一枚ずつ目を通した。
「母さん、全部を覚える必要はないよ。鉱山のことは僕たちが責任を持って進める」
「そうね。あなたたちには、それぞれの仕事があるわ」
「心配している?」
「もちろん」
アイリスは書類を置いた。
「でも、会社が大きいから心配なのではないの。そこで働く人たちにも家族がいるでしょう。私たちの判断で、その人たちの暮らしが変わることが怖いのよ」
ジャン=ポールは、すぐには答えなかった。
「父さんも、よく責任の話をしていた」
「ええ。あの人は仕事の話になると、食事が冷めても気づかなかったわ」
「母さんが怒っていたのを覚えているよ」
「怒っていたのではありません。温かいうちに食べてほしかっただけ」
二人は顔を見合わせて笑った。夫の思い出を口にしても、涙ばかりが出るわけではない。そのことが、アイリスには少し嬉しかった。
午後、アイリスは古い写真を整理した。
北部の港町アントファガスタで育った少女時代の写真には、まだ事業家の妻になることなど想像もしていなかった自分がいる。乾いた砂漠の風、強い日差し、海から漂う塩の匂い。故郷の景色を思い出すと、幼い頃の自分がすぐそばにいるようだった。
若い日の夫と並んだ写真もあった。
「あなたは、いつも忙しい人だったわね」
写真に向かって話しかけると、思いがけず笑みがこぼれた。
アンドロニコは鉱業を中心に事業を広げ、やがてチリを代表する企業グループを築いた。二人の間にはパオラ、ジャン=ポール、マリア・ガブリエラが生まれた。夫には前の結婚で生まれた息子たちもおり、家族の歴史は決して単純なものではなかった。
アイリスは写真をそっと戻した。
大きな財産があれば、どんな問題も解決できると思う人がいる。けれど、子どもの熱を心配する夜も、家族の言葉がすれ違う日も、お金が代わりに眠ってくれるわけではなかった。
夕方、娘のパオラが訪ねてきた。
「お母様、お茶をご一緒してもいい?」
「もちろん。ちょうど休もうと思っていたところよ」
居間には焼き菓子と果物が運ばれた。小麦粉とバターで作った素朴な菓子は、表面がさくりと崩れ、中から柔らかな甘さが広がった。
「お母様、今日は少しお顔の色がいいわ」
「そうかしら」
「ええ。昨日より、ずっと」
パオラは紅茶を注ぎながら、母の様子をうかがった。
「お父様のことを考えていたの?」
「ええ。それから、あなたたちのことも」
「私たち?」
「財産を残すというのは、不思議なことね。家族が困らないようにと働いていた人がいなくなって、その財産だけが残るのですもの」
パオラは静かに頷いた。
「でも、お父様が残したのは財産だけではないわ」
「そうね」
「支援してきた学校もあるし、助けられた人たちもいる。これから続けていく仕事だってあるでしょう」
アイリスは娘を見つめた。
「あなたは、それを大切にしたいのね」
「ええ。お父様が始めたことを、ただ昔の思い出にはしたくないの」
「私も同じ気持ちよ」
窓の外では夕日が建物の壁を赤く染めていた。アイリスは冷めかけた紅茶を飲み、少し考えてから口を開いた。
「パオラ。私はね、お金を持っていることと、お金を使えることは違うと思うの」
「どういう意味?」
「使い道を決めるには、何を大切にしたいのか、自分で分かっていなければならないでしょう」
「そうね」
「立派な建物を建てても、そこで誰も学べなければ寂しいわ。病院に設備を贈っても、必要な人が使えなければ意味がない。大切なのは、その先にいる人たちなのだと思うの」
パオラはしばらく黙っていたが、やがて微笑んだ。
「お母様らしい考え方ね」
「そうかしら。私はただ、あなたたちが安心して暮らせる世界であってほしいだけよ」
「私たちだけではなく、ほかの家族にも?」
「ええ。できることには限りがあるけれど」
アイリスは娘の手に触れた。
「限りがあるからこそ、よく考えたいの」
その夜の夕食には、香草を添えて焼いた魚、オリーブ油で和えた野菜、柔らかいじゃがいも、温かなスープが並んだ。アイリスは白いテーブルクロスの上に置かれた皿を眺め、夫がいた頃の賑やかな食卓を思い出していた。
家族が集まれば、仕事の話になることもある。意見が違い、声が大きくなることもあるだろう。けれど、同じ食卓で食事をする時間まで失いたくはなかった。
「母さん、明日の予定は?」
ジャン=ポールが尋ねた。
「午前中は書類を読むつもりよ」
「午後は?」
「あなたたちと、これからのことを話したいわ」
「仕事のこと?」
「仕事も、家族のことも」
アイリスは微笑んだ。
「財産が増えたかどうかだけを話す家族には、なりたくないの」
息子は少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「分かった。時間を空けておくよ」
「ありがとう。それから、明日はあなたの好きな料理を用意しましょう」
「母さん、僕はもう子どもじゃないよ」
「知っているわ。でも、好きなものを食べて嬉しいのは、大人も同じでしょう?」
食卓に笑い声が広がった。
アイリスはその声を聞きながら、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
夫が築いた財産を、これからどう守り、どう次の世代へ渡していくのか。簡単に答えの出る問題ではない。事業には厳しい判断が必要で、家族の考えがいつも一致するとも限らなかった。
それでも、今夜のように顔を合わせて話すことはできる。
アイリスは食後の果物を息子の皿へ分けた。甘く熟した桃の香りが、温かな部屋に広がった。
「ねえ、ジャン=ポール。明日は少し早く帰っていらっしゃい」
「どうして?」
「ゆっくり食事をしたいの。お父様の昔の話も、まだたくさんあるから」
息子は穏やかに笑った。
「いいよ、母さん。僕も聞きたい」
アイリスは頷き、空いている夫の椅子に目を向けた。
寂しさが消えたわけではない。明日もきっと、あの椅子を見るたびに胸が痛むだろう。それでも、夫とともに築いてきた家族の時間は、これからも続いていく。
お金は、失った人を連れ戻してはくれない。けれど、残された人々が新しい日々を築くために役立てることはできる。
アイリスは、夫の椅子を片づけずにおこうと思った。
いつか孫たちがその椅子を指さして、祖父はどんな人だったのかと尋ねたら、財産の額より先に、食卓で笑っていた顔を話してあげたかった。
そのためにも、明日は家族と朝食を取ろう。
そう決めると、アイリスは久しぶりに、翌朝が来ることを少し楽しみに思えた。
※本作は、実在するアイリス・フォントボナを題材にした歴史的事実に基づくフィクションです。夫アンドロニコ・ルクシッチの二〇〇五年の死去、家族の事業継承、鉱業・金融事業、家族による慈善活動などは公開資料に基づきます。一方、本人の心情、家族との会話、服装、食事、具体的な一日の出来事は創作です。




