静かなる巨峰と銅の祈り アイリス・フォンボルナ
静かなる巨峰と銅の祈り
サンティアゴの街並みを見下ろす高台の屋敷に吹きつけるアンデスの風は、いつだって刃物のように研ぎ澄まされていて、アイリスの細い首筋を容赦なく撫で上げた。窓ガラスの向こうに連なる雪嶺の稜線を見つめるたび、胸の奥底に巣食った重たい鉛がじわりと熱を帯びる。夫アンドロニコが逝ってから、世界中の目がこの屋敷に、そして残された莫大な数字へと注がれていた。二百億ドル。桁すら実感を伴わないその紙の上の富が、彼女にとっては時に、一歩足を踏み外せば谷底へと滑落する氷壁のように思えてならなかった。
「母上、ロンドン市場での銅の先物価格がまた跳ね上がりました。アントファガスタの株価も過去最高を更新しています」
背後から掛けられた長男の落ち着いた声に、アイリスは静かに振り返った。仕立ての良い濃紺のスーツを身にまとった息子は、若き日の夫によく似た力強い眼差しをしている。しかし、その瞳の奥には、世界経済の荒波を一手に背負い込んでいる者特有の張り詰めた疲労が滲んでいた。
「数字の踊りに心を奪われてはなりませんよ。私たちが扱っているのは、冷たい帳簿の記号ではなく、北部の荒野で大地を掘り返している何千人もの男たちの汗と命なのですから」
アイリスは、身にまとった漆黒のカシミアのショールをそっと指先で引き寄せた。宝石一つ飾らない質素な装いは、華美な社交界を嫌った彼女の信条そのものだった。光を浴びれば影が濃くなる。富を見せびらかせば、群がるのは誠意ではなく欲望の亡者ばかりだ。夫が遺した巨大な帝国を守り抜くために必要なのは、威張り散らす権力ではなく、沈黙という名の堅牢な鎧だと、彼女は痛いほど知っていた。
「わかっております。ですが、メディアがまた母上の動向を探ろうと躍起になっていますよ。『チリの謎めいた女帝』などと書き立てて、インタビューを取ろうと血眼です」
「放っておきなさい。語るべきことはすべて、私たちが動かす船と、掘り出す鉱石と、生み出す雇用が語ってくれます。人の口の端に上るために富があるわけではありません」
アイリスの穏やかな声には、どんな屈強な男をも沈黙させる凛とした重みがあった。彼女は執務机の脇に置かれた素朴な銀の盆へと手を伸ばした。
「それより、少し体を休めなさい。お前も朝から何も口にしていないでしょう」
盆の上には、チリの家庭で古くから親しまれているエンパナーダが温かい湯気を立てていた。こんがりと狐色に焼き上げられた厚めの小麦生地。その割れ目から立ち上るのは、刻んだ牛肉と玉ねぎをじっくり炒めた香ばしい脂の匂いと、クミンのほのかな刺激臭だった。
「これは……マリアが焼いたのですか?」
「ええ。昔、あなたの父さんと北部のアタカマ砂漠へ出向いた時、現地の工夫たちの妻が焼いてくれた味と同じよ。あの乾ききった赤い大地で食べたこの味が、私の原点なのです」
アイリスは小皿を取り、自ら焼きたてのパイを息子の前に置いた。息子が一口かじると、サクッとした心地よい音とともに、閉じ込められていた肉汁と煮詰まった玉ねぎの甘みがじゅわりと広がった。ゆで卵と黒オリーブの素朴な塩気が、濃厚な旨味を引き締めている。
「……美味しいですね。街の高級レストランの料理よりも、ずっと五臓六腑に染み渡ります」
息子の強張っていた肩から、すっと力が抜けていくのを、アイリスは見逃さなかった。
「そうでしょう。金というものはね、どれほど積み上げても飢えを癒やすことはできないの。大切なのは、その富を使って、誰がこの温かなパンを口にできているかを見届けること。私たちはただ、神から預かった巨大な富の管理人をしているに過ぎないのよ」
アイリスは、自らも小さくちぎった生地を口に運んだ。噛みしめるたびに広がる素朴な大地の恵み。アタカマの吹き荒れる砂塵の中、赤茶けた巨大な岩山と格闘していた若き日の夫の背中が脳裏に蘇る。あの頃の夫の手は、泥と油にまみれ、いつも節くれ立っていた。あの温もりと痛みを忘れてしまえば、人は富に食い殺されてしまう。
「母上、今年のテレトンへの寄付についてですが……」
息子が控えめに切り出した。国内の障害を持つ子どもたちのリハビリを支える、年に一度の大規模な慈善チャリティ番組。巨額の支援金を投じるその場こそ、普段は決して公に姿を現さないアイリスが、自らの足で向かう唯一の舞台だった。
「例年通り、いや、今年はさらに上乗せして用意しなさい。あの子たちの足元に確かな義足を届けること、母親たちの涙を少しでも拭うこと。それ以上に生きる金の使い道など、この世のどこにもありません」
「ですが、一部の心ない者たちは、あれを売名だの税金対策だのと騒ぎ立てます」
息子の悔しげな言葉に、アイリスはふっと薄い唇をほころばせた。
「言わせておけばよいのです。貧しい子が立ち上がり、笑う姿を見れば、雑音など風にかき消されます。富を持つ者の真の品性とは、贅沢な宮殿に住むことではなく、どれだけ他者の痛みに寄り添い、どれだけ深い責任を背負えるかにあるのですから」
アイリスは立ち上がり、静かな足取りで大きなガラス窓へと歩み寄った。夕暮れの光が、アンデスの白雪を淡い薔薇色に染め上げていく。
銅を掘り出す男たちの荒れた手。病に苦しむ子を抱きしめる母親の震える肩。そして、遠く海を越えて届いた、炎に包まれるノートルダム大聖堂の祈り。己の手の中にある富は、すべてそうした世界中の悲しみや営みと見えない糸で結ばれている。
「傲慢になってはなりません。私たちは常に、大地の恵みに生かされている哀れな人間に過ぎないのだから」
自らに言い聞かせるように呟いたアイリスの横顔は、夕闇の中でどこまでも静謐だった。手首には、夫が昔、最初の鉱山が当たった時に贈ってくれた、飾り気のない銀の細い腕輪だけが鈍く光っている。冷たい富の重圧に押し潰されることなく、ただ真っ直ぐに命を見つめ続けるその背中には、富豪という言葉では到底測りきれない、一人の母としての、そして大地に根ざした一人の人間の揺るぎない覚悟が宿っていた。




