曾毓群(そう・いくぐん)――世界の四割を支える電池王の決断
お金持ちの生き方・考え方
曾毓群――世界の四割を支える電池王の決断
中国の寧徳時代新能源科技(CATL)を率いる曾毓群を主人公にした、史実をもとにした創作小説です。会話や日常の情景、心情は物語として脚色しています。「8.4兆円」「40%」は時点や指標によって変わる数字として扱います。
曾毓群は、目の前の湯飲みから立ち上る白い湯気を眺めながら、少しばかり寂しい気持ちになっていた。人は成功すると、いつの間にか成功した結果ばかりを見られるようになる。どれほど大きな会社を築いたか、いくらの資産を持っているか、世界市場の何割を握っているか。しかし、彼が本当に知ってほしかったのは、その数字にたどり着くまでに何を恐れ、何を信じてきたかということだった。
中国福建省寧徳市の朝は、薄い霧に包まれていた。窓の向こうには灰色の雲が垂れ込め、遠くの道路を走る車の音がかすかに聞こえる。曾は白いシャツに濃紺の上着を羽織り、黒い革靴を履いていた。華美な装飾品はなく、机の上には資料と鉛筆が整然と並んでいる。
「会長、お茶が冷めてしまいます」
秘書が声をかけた。
「ありがとう。考え事をしていた」
「今日の取材では、また資産のことを聞かれるでしょうね」
「そうだろうな」
曾は湯飲みを持ち上げた。温かな茶が喉を通り、ほのかな苦味と甘い余韻が残った。
「人は金額を聞くと安心する。成功を測る物差しが一つで済むからね」
「でも、会長にとって大切なのは、金額ではないんですね」
「金は大切だよ。研究者を雇い、工場を建て、失敗してもやり直すために必要だからね。ただ、金を数えることと、金を生み出す仕組みを作ることは違う」
秘書はその言葉を手帳に書き留めた。
曾は窓の外へ目を向けた。故郷の福建省で育った少年時代、世界の電気自動車を支える会社を自分が率いるなど、想像もしていなかった。だが、学び続ければ、それまで見えなかった道が開けることは信じていた。
若いころ、安定した仕事を続けるか、新しい技術の世界へ踏み出すかという選択に向き合った。失敗すれば、それまで積み上げたものを失うかもしれない。それでも、変化の激しい場所で学ぶことには、安定した場所にとどまるだけでは得られない価値があると感じた。
「会長、昔のご自分に一つだけ助言するとしたら、何とおっしゃいますか?」
秘書の問いに、曾は少し考えた。
「目先の給料だけで仕事を選ぶな、かな」
「給料が高いほうが、よい仕事ではありませんか?」
「もちろん生活は大事だ。でも、十年後に何ができる人間になっているか。それも考えなければならない。若いときに得た技術や経験は、長い間、自分を助けてくれる」
彼の声は静かだったが、そこには迷いがなかった。
午前中、曾は研究施設を訪れた。白い作業着をまとった技術者たちが、電池の試験結果を見つめている。機械の低い唸りと換気装置の風音が室内に満ち、金属と樹脂のかすかな匂いが漂っていた。
「会長、今回の試作品ですが、期待した結果が出ませんでした」
若い技術者が申し訳なさそうに頭を下げた。
「何が問題だった?」
「充電と放電を繰り返すうちに、性能の低下が想定より早く進みました」
「原因はわかっているのか?」
「まだ、はっきりとは……」
技術者の指が資料の端を強く握った。何週間も試験を続けたのだろう。目の下には疲れがにじんでいる。
曾は資料を受け取り、しばらく数字を追った。
「失敗したことを隠さずに報告してくれて、ありがとう」
「……怒らないんですか?」
「怒ったところで電池の性能が上がるわけではないだろう」
技術者が驚いた顔をすると、曾は続けた。
「ただし、原因がわからないまま同じ失敗を繰り返すのは困る。何を変えたのか、どこで結果が違ったのか、一緒に確かめよう」
「はい!」
「電池は小さな部品に見えるかもしれない。でも、これが車を走らせ、電気を蓄え、人々の生活を支える。その責任を忘れないでほしい」
技術者は深くうなずいた。
曾は若者の背中を見送りながら、成功する会社と失敗する会社の違いについて考えていた。優秀な人間が一人いるだけでは、世界規模の事業は育たない。失敗から学べる組織があり、研究を続ける資金があり、技術を製品に変える工場が必要なのだ。
昼食は社員食堂で取ることにした。白い陶器の皿には青菜の炒め物、豚肉と筍の煮込み、湯気の立つ白飯が盛られている。椀には豆腐と海藻の澄んだスープが注がれ、葱の香りが食欲を誘った。
「会長、こちらへどうぞ」
若い社員が慌てて席を空けようとした。
「そのままでいい。一緒に食べよう」
曾は向かいの椅子に腰を下ろした。
「仕事はどうだい?」
「忙しいです。でも、世界中で自分たちの電池が使われると思うと、嬉しくなります」
「そうか。それはいいことだ」
「会長、一つ聞いてもいいですか?」
「何だい?」
「お金持ちになったら、何を買いたいですか?」
曾は箸を止めた。若い社員は質問が失礼だったかと慌てたが、曾は笑った。
「君なら何を買う?」
「大きな家です。それから、いい車も欲しいです」
「いいね。家族が喜ぶなら、立派な目標だ」
「会長は違うんですか?」
「私は、まだ世の中にない技術を実現するための時間が欲しいね」
「時間、ですか?」
「研究には時間がかかる。結果が出ない時期にも、人を雇い続けなければならない。余裕のある資金があれば、目先の利益だけを追わずに済む」
曾は青菜を口に運んだ。油の香りと野菜のほろ苦さが広がる。
「お金があることで、選べる道が増える。それが大きいんだと思う」
社員はしばらく考え込み、やがて笑った。
「僕はまず、家を買います。そのあとで考えます」
「それでいい。自分が何のために働くのか、忘れなければね」
午後、会議室には大きな世界地図が映し出されていた。電気自動車用電池の世界市場で、CATLは四割前後という大きな存在感を持つ企業へ成長していた。会社の価値を円に換算すれば、何兆円という数字が語られることもある。
しかし、曾はその大きさに安心してはいなかった。
「競争相手も研究を続けています」
幹部の一人が報告した。
「価格競争も激しくなっています。利益を守るため、研究費を抑える案もありますが」
曾はすぐには答えなかった。窓の外では雨が降り始め、ガラスを細い水滴が伝っていた。
「研究費を減らせば、今年の数字はよく見えるかもしれない」
「はい」
「では、五年後はどうなる?」
会議室が静まり返った。
「今の技術が、いつまでも一番とは限らない。顧客が求めるものも変わる。安全性、価格、寿命、充電時間。そのどれも、まだ改善できるはずだ」
「では、投資を続けますか?」
「必要な投資は続けよう。ただし、使い道を厳しく見極める。大金を使うことが偉いわけではないからね」
幹部たちは資料を見直し始めた。
曾は心の中で、成功の怖さを感じていた。会社が大きくなるほど、過去の成功にしがみつきたくなる。守るものが増えれば、失敗を恐れる気持ちも強くなる。しかし、変化を拒んだ瞬間から、技術の世界では取り残されてしまう。
夕方、雨は上がっていた。窓の外の工場には明かりがともり、帰宅する社員たちの傘が門の前を行き交っている。
「会長、今日はお疲れさまでした」
秘書が温かい茶を運んできた。
「ありがとう」
「今日も忙しい一日でしたね」
「そうだね。でも、若い研究者の話を聞けてよかった」
「会長は、まだ会社を大きくしたいのですか?」
曾は湯飲みを両手で包んだ。
「大きくすること自体が目的ではないよ。必要とされる技術を作り続けた結果として、会社が成長するのが理想だ」
「世界の四割を占めても、まだ足りないんですね」
「四割という数字は、昨日までの努力を示している。でも、明日も選ばれる保証にはならない」
秘書は静かにうなずいた。
「では、会長にとって、本当の豊かさとは何でしょう?」
曾は少し考え、窓の向こうの明かりを見つめた。
「自分がいなくなったあとにも、人の役に立つものが残ることかもしれないね」
遠くで工場の機械が低く唸っていた。数え切れない人々が働き、小さな電池を一つずつ作り上げている。その一つが、いつか見知らぬ誰かの車を走らせ、家族を乗せて遠い町へ向かうのだろう。
曾は冷めかけた茶を飲み干した。大きな財産を築くことと、豊かな人生を送ることは、必ずしも同じではない。彼にとってお金とは、欲しいものを買い尽くすためのものではなく、まだ実現していない未来へ挑戦するための力だった。
明日もまた、難しい問題が待っている。それでも曾は、不思議と明日が楽しみだった。
第一話 終
史実についての補足
曾毓群が2011年にCATLを創業したことは確認できます。また、2026年1~9月の世界の電気自動車用電池市場におけるCATLのシェアは39.1%で、「約40%」という表現は妥当です。
世界経済フォーラム+1
一方、8.4兆円が曾毓群個人の資産なのか、CATLの企業価値なのかは、今回確認できた資料だけでは確定できません。そのため小説では断定していません。
作中の秘書や社員との会話、食事、曾毓群の心情は創作です。実際に本人が発言した言葉ではありません。




