青き火を抱く男――曾毓群と八兆円の沈黙
お金持ちの生き方考え方
青き火を抱く男――曾毓群と八兆円の沈黙
どれほど巨万の富を築こうとも、世界というものは常に薄氷のように脆く、恐ろしい。
世界の四割の車を動かす心臓を握り、資産八兆円を超えようと、人の胸の裡にある渇きは消えるものではない。寧徳時代新能源科技(CATL)を率いる曾毓群は、自室の窓辺に立ち、夕闇に沈みゆく福建省寧徳の街を見下ろしながら、骨の髄に染み入るような重圧を噛みしめていた。栄華の頂に立つ者が覚えるのは、高揚などではない。いつ足元の氷が割れ、底知れぬ冷水へと叩き落とされるか分からぬという、張り詰めた孤独と戦慄だった。
身にまとっているのは、糊のきいた濃紺の綿麻シャツに、飾りのない黒いチノパンだった。腕元には高級な金時計ではなく、日々の歩数と睡眠を測る飾り気のない黒い樹脂バンドが巻かれている。贅沢を誇るような仕立て服など、工場で機械の油にまみれ、技術者と夜を徹して議論を交わすこの男の身体にはなじまない。袖口を無造作に二つ折りにして腕を組み、薄い眼鏡の奥の眼光を鋭く尖らせていた。
部屋の空気は、遠くから漂う湿った潮風と、新設されたリチウムイオン電池工場の微かなオゾン臭が混ざり合い、独特の重みを帯びている。
「曾会長、ニューヨークと深センの終値をまとめました。市場はまた、我が社の株価に狂奔しております」
背後から、静かに書類を抱えた側近の陳が声をかけてきた。
手渡された帳票には、目も眩むような数字が並んでいた。世界シェア約四十パーセント。曾毓群個人の推定資産、八兆四千億円相当。並の人間であれば、その一行を見ただけで人生をあがりにして豪遊に走るだろう。だが、曾毓群の視線は氷のように冷たかった。
「紙の上の数字に、魂を奪われるな」
低く、地を這うような福建訛りの声が部屋に落ちた。
「数字など、風が吹けば吹き飛ぶ砂粒にすぎない。市場の連中は、我々が八兆の富を生んだと騒ぎ立てるが、私に見えているのはそんなものではないよ、陳」
「では、会長は何を見ておられるのですか」
「奈落だ。一秒でも技術の歩みを止めれば、背後から突き落とされる奈落の深さだけを見ている」
曾毓群は窓から離れ、無垢材で作られた素朴な長机の前に腰を下ろした。
部屋の片隅に置かれた電磁調理器の上で、素焼きの小鍋がことことと音を立てていた。夕食にと用意されたのは、故郷の寧徳で昔から食べられている素朴な海鮮粥だった。米の形が崩れるまでじっくり煮込まれた白粥に、近海で獲れた小エビと干し貝柱の出汁が溶け込み、青ネギと生姜の香りが湯気とともに立ち上っている。贅を尽くした満漢全席など、曾毓群は一口も求めない。農村の貧しい家庭で育ち、腹を空かせて教科書を貪り読んだ少年の頃の記憶が、今も彼の舌と胃袋を縛りつけていた。
「陳、お前も食べなさい」
「いえ、私は先ほど……」
「いいから椀を取りなさい。空腹の男は、ろくな判断をしないものだ」
そう言って、曾毓群は自ら陶器の蓮華を手に取り、熱い粥をすくって口へ運んだ。
淡い塩気と、貝柱の凝縮された旨味がじんわりと舌の上に広がる。生姜のピリッとした辛味が喉を通り、疲弊した五臓六腑を内側から温めていく。
「旨いな。どんな高級料亭のフカヒレよりも、この粥の方が腹に据わる」
「会長は、昔から食が変わられませんね」
陳が苦笑しながら蓮華を動かすと、曾毓群は細い目をさらに細めて笑った。
「食べるものや着るものを飾り立てたところで、頭の中身は良くならん。八兆円あろうが、人間が一日に食える飯の量は椀に三杯、眠れる場所は畳一枚分だ。それ以上のものを持とうとすれば、人は欲に溺れて目を曇らせる」
「ですが会長、世間はお金持ちの生き方を羨み、あなたの成功哲学を神話のように語りたがります。『賭博の精神』こそが、曾毓群の強さだと」
「賭け、か」
曾毓群の手が、ぴたりと止まった。
オフィスの壁には、かつて彼が掲げた「賭性に照らす(とせいにしょうず)」という書が掛かっている。知力と体力のすべてを注ぎ込み、時代の大きなうねりに己の命を賭けるという意味だ。
「陳、人は私がギャンブルに勝って大金持ちになったと思っている。だがそれは違う。愚か者は運を天に任せて博打を打つが、本当の賭けとは、勝つ確率を九割九分まで技術で積み上げ、残りの一分に全存在を叩きつけることだ。金が欲しいから賭けるのではない。時代を創るために、自らを火の中に投げ込むのだよ」
蓮華を置き、曾毓群は立ち上がった。
歩み寄った棚には、手のひらに乗るほどの小さな円筒形と角型の金属セルが並んでいた。青と銀の鈍い光を放つリチウムイオン電池の試作品である。彼はその冷たい金属の塊を愛おしそうに指先で撫でた。
「この冷たい筒の中に、巨大なエネルギーが眠っている。世界中の車がガソリンを捨て、電気で走る未来が来ると、三十年前に誰が信じた? 誰も信じなかった。だからこそ、命懸けで信じた者だけが今の場所に立っている」
「世界シェア四十パーセント。今や世界の自動車メーカーは、会長の電池がなければ車を作れません」
「だからこそ、恐ろしいのだ」
曾毓群は振り返り、陳を射すくめるように見つめた。その瞳には、驕りなど一片もなく、獲物を狙う野獣のような張り詰めた緊張が宿っていた。
「王座に座った瞬間から、周りはすべて敵になる。アメリカも、欧州も、国内のライバルたちも、どうやって我が社を引きずり降ろすか虎視眈々と狙っているのだ。ナトリウム電池、全固体電池、資源の囲い込み……。昨日までの勝者が、明日には一瞬で敗者になる。それがこの技術の世界だ。八兆円などという数字の幻に酔いしれている暇など、一秒たりともない」
「……」
「私はね、陳。金持ちになりたかったわけではないのだよ。私はただ、この手で世界の景色を変えたかった。埃っぽい寧徳の片隅から、世界を動かす火を灯したかったのだ」
窓の外では、夜の闇を貫いて、巨大な工場の明かりが無数に煌めいていた。昼夜を問わず稼働する自動化ラインの光は、まるで地上に降りた銀河のように果てしなく広がっている。
曾毓群は、冷めかけた粥の椀をもう一度手に取り、残りを一気に胃に流し込んだ。
飾らない食事、飾らない衣服、そして途方もない野心と冷徹な危機感。
真の富者とは、富を消費して悦に浸る者のことではない。巨大な富そのものを燃料にして、さらに先の見えぬ暗闇へと突き進む、終わりのない挑戦者のことなのだ。
「陳、明朝五時に研究所の幹部を全員集めなさい。新型電池の耐久試験のデータを、一から洗い直す」
「はい、承知いたしました」
深く頭を下げて部屋を出ていく陳の背中を見送りながら、曾毓群は静かに窓枠に手を置いた。
夜風がガラスを微かに揺らす。手のひらから伝わる冷たさが、研ぎ澄まされた神経を心地よく引き締めてくれた。男の胸の奥底で、青く鋭い火が、今宵も静かに燃え盛っていた。




