『星を仰ぐ水――八兆円の沈黙』
深センの十一月は、まだ微かに湿り気を含んだ熱帯の夜風が残っている。
南山区のスカイラインを切り裂くように聳え立つテンセント・ビルディング。その最上階、ガラス張りの役員執務室からは、無数の高層ビルが放つLEDの幾何学模様が、地上に降りた天の川のように見渡せた。
部屋の明かりは落とされ、天体望遠鏡のシルエットが窓辺に黒ぐろと浮かんでいる。
ソファーの前に置かれた硝子のローテーブルには、冷え切ったプーアル茶の入った白磁の茶杯が二つ。
片方の前には、仕立ての良いスーツを身にまとった三十代後半の投資部門責任者、林が、タブレット端末を膝に乗せて緊張した面持ちで座っていた。
「ポニー……。今期のポートフォリオの再編案です。フィンテックとゲームセグメントからのキャッシュフローは過去最高を更新しました。純資産の推計は五百三十八億ドル――日本円にして八兆六千億円を超えています。名実ともに、あなたが世界を動かす頂点にいる」
林の声には、数字の巨大さに圧倒された熱と、どこか神を称えるような崇拝が混ざっていた。
だが、窓辺に立つ小柄な男――ポニー・マー(馬化騰)は、振り返りもしなかった。
金属フレームの眼鏡を指先で押し上げ、彼は口径の太い屈折望遠鏡の接眼レンズを覗き込んでいる。着ているのは、仕立て服ではなく、飾り気のないチャコールグレーのポロシャツと綿のパンツ。八兆円を超える富をその双肩に背負う男とは到底思えない、まるで大学の研究室に籠もる天文学者のような佇まいだった。
「林。今夜の空は、少し靄がかかっているな。プレアデス星団の散光星雲が、いつもより淡い」
静かで、かすれたような囁きだった。
「……ポニー?」
「八兆円か」
ポニーは接眼レンズから目を離し、ゆっくりと振り返った。その瞳は、底知れぬ深海の湖のように澄んでいて、感情の波風がまるで見当たらない。
「林、君はその八兆という数字を、本当に『富』だと思っているのかい?」
「富以外の何物でもないでしょう! 国家の年間予算にも匹敵する規模です。テンセントが指を鳴らせば、世界の映画産業も、欧州のゲームスタジオも、東南アジアのインフラも一夜にして塗り替えられる。これ以上の力、これ以上の生き方がありますか」
林の熱弁を、ポニーは静かに微笑みながら受け流した。
彼は歩み寄り、冷めた茶杯を手に取ると、一口だけ喉を潤した。茶葉の渋みが、乾いた唇に広がる。
「昔、まだ私が深セン大学の学生だった頃、父に買ってもらった小さな天体望遠鏡があった。七百元くらいだったかな。当時の我が家にとっては大金だったよ。夜明けまで屋根にへばりついて、ハレー彗星を探した。見つかったのは、白くぼやけた小さな染みのような光の点だけだった」
ポニーは窓の外、眼下に広がる街の光を指差した。
「あのビルの谷間を走る車のテールランプを見てごらん。一本一本はただの光の筋だが、集まると血液のように流れている。WeChat(微信)も、QQも、ゲームも、決済も同じだ。十億を超える人間が、朝起きて、誰かにメッセージを送り、朝食の包子を買い、電車に乗り、夜にゲームで友と笑い合う。その日々の『呼吸の摩擦』から零れ落ちた雫が、たまたま私の口座という名のダムに溜まっているだけだよ」
「ダム……ですか」
「そうだ。ダムの水は、ダムの所有者のものか? 違うだろう。空から降り注ぎ、山を巡り、海へ帰る循環の一瞬を預かっているに過ぎない。八兆円という数字は、私の偉大さの証明ではないよ。十億の魂の呼吸を、システムとして滞りなく循環させろという、気の遠くなるような『義務の重さ』の単位だ」
ポニーの声には、自慢も誇大妄想もなかった。ただ、巨大な重力波に晒され続ける観測者のような、冷徹な孤独が滲んでいた。
林は息を呑んだ。
シリコンバレーの派手なCEOたち――専用ジェットで飛び回り、豪邸を買い漁り、SNSで世界中を煽って歓声を浴びるような富豪たちとは、あまりにも人種が違いすぎる。
「ですが、ポニー。あなたはその気になれば、世界中のどんな快楽も、どんな贅沢も手に入れられる。それなのに、なぜ今も深夜までコードのバグをチェックし、プロダクトのフォントのピクセル単位のズレに目を光らせているんですか? もう、十分に勝ち抜いたはずです」
ポニーは窓辺に戻り、ガラスに額を近づけた。
夜景の反射の中に、五十代を迎えた自分の顔が重なっている。かつて『サメ』と呼ばれ、冷酷なコピーキャットと罵られ、生き残るためにあらゆる競合を飲み込んできた激動の三十年が、その目尻の小じわに刻まれていた。
「林。本当の金持ちの生き方とは、何かを手に入れることではない。『見えざる水』になることだ」
「水……?」
「老子の言葉にあるだろう。『上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る』と。……金や権力を誇示して風上に立てば、必ず嵐に巻き込まれて吹き飛ばされる。富を誇る者は、富によって滅びるんだ。だが、水はどうだ? あらゆる隙間に入り込み、人々の喉を潤し、大地を潤しながら、最も低い場所へと静かに流れていく。誰も水そのものを意識しない。けれど、水が止まれば人は死ぬ」
ポニーの瞳が、ふと鋭い光を宿した。
「WeChatの画面を開くとき、人々はポニー・マーの顔を思い浮かべるかい? スーパーでQRコードをかざすとき、八兆円の男に感謝する人間がいるかい? いないだろう。それでいいんだ。完全に空気となり、水となり、人々の日常のインフラとして溶け込むこと。私というエゴを消せば消すほど、システムは永遠に近づく。それが、私の考える『究極の富の形』だ」
部屋の換気口から、かすかな冷気の音が聞こえる。
深センの街の喧騒は、百階を超えるこの高さには届かない。真空のような静寂の中で、ポニーの言葉だけが、重い真実となって林の胸を打った。
「……エゴを消す、ですか。しかし、それは恐ろしく孤独な道ではありませんか」
林が絞り出すように尋ねると、ポニーはふっと柔らかく目を細めた。少年のような無邪気さが、その表情に一瞬だけ蘇る。
「孤独だよ。宇宙の観測者と同じだ。暗闇の中で、何億光年も離れた星の瞬きを一人で待つようなものだ。……だがね、林。退屈ではないよ」
ポニーは再び、望遠鏡の鏡筒に手を添えた。
「宇宙の広大さに比べれば、地球の全人類の資産をかき集めたところで、塵芥にも満たない。アンドロメダ銀河の片隅から見れば、私の八兆円も、露店の親父が稼ぐ十元も、同じ重さの陽子の集まりだ。そう思えば、傲慢になる暇なんてないだろう? 私たちはただ、自分が生きているこの短い時間のあいだに、人間という不器用な星々をどうやって結びつけるか、その星図を描いているだけなんだ」
カタ、と金属の微動ハンドルを回す音がした。
ポニーは再びレンズに片目を押し当て、夜空の彼方へと意識を沈めていく。
「林。明日の朝一番で、基礎科学の研究基金への追加拠出の書類を作ってくれ。量子コンピューティングと、深宇宙探査のチームへだ」
「……リターンは、望めない分野ですが」
「リターンなら、もう十分に預かっているさ。十億人の日常からね。今度はそれを、次の百年の人類の知性に返す番だ。……急ぎなさい。夜が明けてしまう」
「……承知しました」
林は深く一礼し、音を立てずに執務室を辞した。
重い防音扉が閉まり、再び部屋には、ポニー・マーただ一人が残された。
眼下に広がるメガシティの輝きと、頭上に広がる冷徹な漆黒の天穹。
八兆円の富を背負いながら、最も簡素な衣服を纏い、ただ星の光を追い続ける男の背中は、まるで宇宙の孤独を一身に引き受ける羅針盤のようだった。
窓硝子の向こうで、遠い天球の星が一つ、青白く瞬いていた。




