『十億人の声をつなぐ、小さな一歩』――馬化騰(マー・ホアテン)とTencentの物語――
お金持ちの生き方・考え方\
『十億人の声をつなぐ、小さな一歩』
――馬化騰とTencentの物語――
深圳の夜は、雨に濡れていた。
高層ビルの窓に無数の光が映り込み、道路を走る車のヘッドライトが、黒い川のようなアスファルトを白く照らしている。
Tencentのオフィスでは、まだ数人の技術者がパソコンに向かっていた。
「馬さん、もう午前一時ですよ」
若い社員の陳が、冷めたコーヒーを片手に声をかけた。
「そろそろ帰りませんか?」
馬化騰は画面から目を離さなかった。
「陳君、この数字を見てくれ」
「数字ですか?」
「今日、私たちのサービスを使った人の数だ」
陳は画面を覗き込んだ。
「すごいですね。これだけの利用者がいれば、広告収入も相当なものになります」
馬化騰は静かに首を振った。
「私が見ているのは、売上ではないよ」
「えっ?」
「この数字の向こうにいる、人間のことだ」
陳は不思議そうな顔をした。
「人間……ですか?」
「そうだ。家族と離れて暮らす父親。遠くの学校へ通う娘。初めてスマートフォンを手にした老人。彼らが誰かに言葉を届けようとしている」
馬化騰は窓の外を見つめた。
「私たちが作っているのは、単なるソフトウェアではない。人と人との距離を縮める道具なんだ」
陳は黙っていた。
雨粒が窓硝子を伝い、街の灯りを細く歪ませた。
「でも、馬さん」
「何だい?」
「会社を大きくするには、やっぱり利益が必要でしょう?」
「もちろんだ」
馬化騰は微笑んだ。
「利益がなければ、会社は続かない。社員にも給料を払えない。新しい技術も開発できない」
「だったら、利益が一番大切なのでは?」
「いや」
彼は静かに答えた。
「利益は、事業を続けるための力だ。だが、何のために事業を続けるのか。それを忘れてはいけない」
* * *
物語は、Tencentがまだ小さな会社だった頃へと遡る。
深圳の古びた事務所。
天井の蛍光灯は時折ちらつき、机の上には書類と電子部品が積み重なっていた。
外では建設工事の音が響き、窓を開ければ蒸し暑い風が吹き込んでくる。
「馬さん! またサーバーが重くなっています!」
「利用者が増えたのか?」
「はい! でも、このままでは維持費が払えません!」
若い技術者が頭を抱えた。
「利用者が増えるほど、お金がなくなるなんて!」
別の社員がため息をついた。
「もう無料サービスをやめましょう。料金を取ればいいんです」
馬化騰は黙って画面を見つめた。
そこには、次々と届く利用者のメッセージが表示されていた。
『遠くにいる友人と、久しぶりに話せました』
『離れて暮らす弟と連絡が取れました』
『毎晩、家族と話すのが楽しみです』
馬化騰は椅子に深く腰掛けた。
「……みんな、どう思う?」
「何がですか?」
「人は、なぜ私たちのサービスを使うんだろう?」
社員たちは顔を見合わせた。
「便利だからでしょう」
「無料だからですよ」
「新しいからじゃないですか?」
馬化騰は頷いた。
「どれも間違っていない。だが、もっと根本的な理由があると思う」
「それは?」
「誰かとつながりたいからだ」
部屋が静かになった。
「人は一人では生きられない。嬉しいことがあれば伝えたい。悲しいことがあれば聞いてほしい。遠く離れていても、誰かの声を感じたい」
馬化騰は画面を指さした。
「その願いを支えるサービスを、簡単に手放していいのだろうか」
「でも、資金が……」
「分かっている」
彼は立ち上がった。
「だから、考えよう。どうすれば利用者の役に立ちながら、会社も続けられるのか」
「そんな都合のいい方法があるんでしょうか?」
「今は分からない」
馬化騰は笑った。
「分からないから、私たちが探すんだ」
* * *
年月が流れた。
Tencentは成長し、オンラインゲーム、デジタル決済、そしてWeChatなど、人々の日常に深く関わるサービスを展開する巨大企業となった。
ある秋の日。
深圳の本社を訪れた若い起業家が、馬化騰に質問した。
「どうすれば、あなたのようなお金持ちになれますか?」
会議室の大きな窓からは、青い海と高層ビル群が見渡せた。
若者は目を輝かせていた。
「私は三十歳までに大金持ちになりたいんです。高級車に乗って、大きな家を建てて、誰からも成功者だと認められたい」
馬化騰は静かに話を聞いていた。
「それで、君は何を作りたいんだい?」
「えっ?」
「どんな会社を作りたい?」
「それは……儲かる会社です」
「何を売る?」
「今なら人工知能でしょうか。流行っていますし」
「誰の、どんな問題を解決する?」
若者は口を閉じた。
馬化騰は机の上のスマートフォンを手に取った。
「君は、この端末を毎日使うだろう?」
「はい」
「なぜ使う?」
「便利だからです」
「そう。では、その便利さが突然なくなったら?」
「困りますね」
「誰が困る?」
「……利用者です」
馬化騰は頷いた。
「そこから考えるんだ」
「そこから?」
「お金を得る方法より先に、人が何に困っているのかを知る。人が何を必要としているのかを考える」
若者は眉を寄せた。
「でも、それではお金持ちになるまで時間がかかりませんか?」
「かもしれないね」
「そんなに待てません」
馬化騰は窓の外へ視線を移した。
「君は木を育てたことがあるかい?」
「木ですか?」
「種を植えた翌日に、実を収穫しようとする人はいないだろう」
「それは、そうですが」
「事業も似ている。根を張り、枝を伸ばし、雨の日も風の日も育て続ける。実がなる前に掘り返してしまえば、何も残らない」
若者は黙って考え込んだ。
「……つまり、我慢しろということですか?」
「我慢だけではないよ」
馬化騰は微笑んだ。
「育てるものに価値があるか、毎日確かめることだ」
* * *
その日の夕方。
若者は、馬化騰とともに社員食堂を訪れた。
「ここで食事をするんですか?」
「そうだよ」
「もっと豪華なレストランに行くのかと思いました」
「君は、豪華な料理が好きかい?」
「もちろんです!」
「私も、おいしいものは好きだ」
馬化騰は笑った。
「でも、今日の君との話には、ここで十分だろう?」
二人は窓際の席に座った。
食堂には社員たちの笑い声が響き、湯気の立つ料理の香りが漂っていた。
若者は箸を置き、ためらいがちに尋ねた。
「馬さん。お金持ちになって、一番よかったことは何ですか?」
馬化騰は少し考えた。
「……選択肢が増えたことかな」
「選択肢?」
「新しい技術に投資できる。失敗するかもしれない挑戦にも資金を使える。優秀な人材と一緒に、大きな仕事ができる」
「高級車や豪邸ではないんですか?」
「それらを喜ぶ人もいるだろう。悪いことではないよ」
馬化騰は水を一口飲んだ。
「ただ、財産が増えれば、考えなければならないことも増える」
「どういうことです?」
「一つの判断が、多くの社員や利用者に影響するからだ」
若者は驚いたように目を見開いた。
「お金持ちになれば、何でも自由にできると思っていました」
「自由には責任が伴う」
馬化騰は穏やかに答えた。
「大きな力を持つほど、使い方を間違えてはいけないんだ」
食堂の窓から、夕陽が差し込んだ。
若者はしばらく黙っていた。
そして、小さな声で言った。
「……僕は、成功した自分の姿ばかり考えていました」
「それに気づけたなら、いい出発点だ」
「でも、まだ何を作りたいのか分かりません」
「焦らなくていい」
馬化騰は笑った。
「まずは、身近な人が何に困っているか、聞いてみるといい」
「そんな小さなことからですか?」
「大きな事業も、最初は小さな問題への気づきから始まることがある」
* * *
数か月後。
若者から一通のメールが届いた。
『馬さん。
あの日、教えていただいたことを考え続けました。
私は故郷の祖母に電話をかけました。
祖母はスマートフォンの操作が難しく、家族との連絡に苦労していました。
そこで私は、高齢者でも簡単に使える連絡サービスを作り始めました。
まだ利用者は少なく、利益も出ていません。
でも昨日、あるおばあさんから「孫の顔を毎日見られるようになった」と言われました。
その言葉が、何より嬉しかったです。
今は、お金持ちになることより、このサービスをもっとよくしたいと思っています』
馬化騰はメールを読み終え、静かに微笑んだ。
窓の外には、深圳の夜景が広がっていた。
無数の窓に灯りがともり、その一つ一つに、誰かの暮らしがあった。
馬化騰は返信を書いた。
『その喜びを忘れないでください。
ただし、利用者のためという思いだけでは事業は続きません。
費用を管理し、収益を確保し、仲間が安心して働ける会社を作ることも大切です。
人の役に立つことと、事業を成り立たせること。
その両方を考え続けてください。
そして、利用者の声を聞くことを忘れずに。』
送信ボタンを押すと、馬化騰は椅子にもたれた。
遠くで船の汽笛が響いた。
かつて、小さな事務所で仲間たちと未来を語り合った夜を思い出す。
資金が足りず、眠れなかった日々。
サービスが止まり、頭を抱えた夜。
利用者から届いた、たった一通の感謝の言葉。
それらが積み重なり、今の会社につながっていた。
彼は窓の外に目を向けた。
街の灯りは、夜の海に浮かぶ星のように輝いていた。
お金は、人生の可能性を広げる。
だが、お金そのものが、人生の目的とは限らない。
何を作るのか。
誰の役に立つのか。
得た力を、どのように使うのか。
その問いに向き合い続けることが、富を持つ人間に求められる姿勢なのかもしれない。
机の上のスマートフォンが、小さく震えた。
新しいメッセージだった。
馬化騰は画面を開き、静かに微笑んだ。
今日も世界のどこかで、誰かが誰かへ言葉を届けている。
そして、その小さなつながりの向こうに、まだ見ぬ未来が広がっていた。
――おしまい。
この物語では、馬化騰氏が共同創業したTencentの事業を背景に、富を築くための考え方として「利用者の課題を見つけること」「長期的に事業を育てること」「利益と社会的価値を両立させること」「富に伴う責任を自覚すること」を描きました。
なお、ご提示の資産額53.8(十億米ドル単位と解釈)・約8.61兆円は時点によって変動する参考値として扱い、物語内では固定の数字を使っていません。




