巨富の器
巨富の器
第一話 兆の星を呑む夜
胸の奥の血管が一本ずつ焼き切れるような高揚と、底なしの崖っぷちに爪先を投げ出しているような痺れる恐怖が、和俊の喉を締め上げていた。十一月の冷え切った夜気は容赦なく障子の桟を揺らし、着古した紺の丹前の裾から忍び寄ってくるというのに、掌だけは脂汗でじっとりと濡れ、握りしめたマウスの冷たさを忽ち生温かく変えていた。
机の上の大きな液晶画面には、孫正義という男の動向を報じる経済速報の文字が、白い明滅となって浮かび上がっている。ソフトバンクが投じる八兆一千億もの資金、そして世界を覆い尽くそうとする七十五兆円規模のAI構想。兆という途方もない数字の桁が、和俊の網膜に焼きついて離れなかった。
「……八兆に、七十五兆。なんだよこれ、桁が違いすぎて頭が割れそうだ」
和俊は乾いた唇を噛みしめ、低く唸った。
自分の手取りや今月の電気代、ちまちまと積み立てている数万円の投信の残高が、まるで微風で吹き飛ぶ塵芥のように思えてくる。画面の向こうにいる大富豪は、国家予算並みの天文学的な富を両手ですくい上げ、未来という暗闇に向かって一網打尽に投げ打っている。なぜ人はそれほどの富を手に入れながら、安らかな余生に逃げ込まず、命をすり減らすような修羅場に自分から飛び込んでいくのか。その腹の底にあるものが何なのか、凡庸な和俊には恐ろしくて見当もつかなかった。
「和俊、独り言ばかり言ってないで、早く手をお拭き。せっかくの鯖が冷めちまうよ」
襖がからりと開き、香ばしい甘辛い匂いが湯気とともに六畳間に流れ込んできた。
母のかおるこは、藍色の木綿着物の上にかすりの前掛けをきっちりと掛け、年季の入った黒塗りの角盆を抱えて入ってきた。白髪を無駄なく後ろで束ねた佇まいには、長年着物で生きてきた者特有の凛とした落ち着きがある。
「母さん、今ちょっとそれどころじゃないんだって。これ見てみろよ。ソフトバンクの孫さん、何兆円もぶっ込んで勝負してるんだよ。八兆だの七十五兆だのって、想像もつかないだろ」
「兆だの億だの、口先だけで大きな空気を吸い込んでも腹は膨らまないよ。ほら、箸を持ちなさい。湯気が消えたら魚が泣くよ」
母は取り合わず、ちゃぶ台の上に料理を手際よく並べた。
平皿には、飴色に艶めく鯖の味噌煮が鎮座していた。厚切りの身からは濃厚な赤味噌と千切り生姜の鋭い香りがふわりと立ちのぼり、脇に添えられた青紫蘇の爽やかな青さが彩りを添えている。深鉢には、ごぼうと大根、油揚げがたっぷりと入った具だくさんの味噌汁が熱い湯気を立てていた。茶碗によそわれた白米は、炊き上がりにひと匙差した味醂のおかげで、真珠のように一粒一粒が立って光っている。
「ほら、お茶も淹れたよ。ほうじ茶のいい匂い、嗅いでごらん」
母は素焼きの湯呑みを和俊の前に置いた。焙じられた茶葉の香ばしい湯気が、パソコンの青白い光でささくれ立っていた和俊の鼻腔を柔らかく包み込んだ。
「……いただきます」
和俊は丹前の袖をまくり、箸を手に取った。鯖の厚い身に箸を入れると、皮がほろりと裂け、中から脂の乗った白い身が溢れ出た。味噌の煮汁をたっぷりと絡めて口に運ぶ。
舌の上で、生姜の辛みと味噌の甘み、鯖の力強い脂が混ざり合い、熱となって喉を滑り降りていった。噛みしめるたび、冷え切っていた胃の腑がじんわりと温まり、強張っていた肩の力がすっと抜けていく。
「美味いな……やっぱり母さんの鯖味噌は天下一品だよ」
「当たり前さ。魚の臭みを抜くのに、熱湯をくぐらせて冷水で洗うひと手間を惜しまないんだから。お金持ちの頭の中を覗き込んでため息をつく前に、自分の口に入るものの味をちゃんと噛み締めなさいよ」
かおるこは笑いながら、熱い味噌汁の椀を両手で包み、ふうと息を吹きかけてから一口すすった。ごぼうの野太い大地の香りがふわりと立ち上がる。
「でもさ、母さん。不思議でたまらないんだよ。一兆円も持っていたらさ、もう何もしないで、南の島で一生遊んで暮らせるじゃないか。それなのにどうしてあの人たちは、八兆だの七十五兆だのって、さらに巨額の借金を背負ったり命を削ったりして、ギリギリの勝負を続けるんだと思う? 欲が深いからなのかね」
「欲、ねえ」
かおるこは箸を置き、少し目を細めて遠くを見るような顔をした。その瞳には、昔、花街の座敷で幾千幾万の金が飛び交うのを目撃してきた女将の、静かな観察眼が宿っていた。
「昔、お座敷に出ていた頃にもね、大金を掴んで有頂天になる旦那衆がたくさんいたよ。でもね、本当に大物と呼ばれる人たちは、札束を数えてニヤニヤしたり、豪勢な酒を飲んで贅沢に溺れることには、すぐに飽きちまうんだよ」
「飽きる? あんな大金に?」
「そうさ。贅沢なんてものはね、舌が肥えて体が贅肉で重くなれば、あっという間に退屈な毒に変わるんだ。お金そのものが欲しいだけの人は、ある程度貯まったら守りに入って小さく縮こまる。だけど、孫さんみたいな桁外れのお金持ちってのは、お金を『自分の私利私欲を満たす紙切れ』だとは思っていないのさ」
「じゃあ、何だと思ってるんだよ」
「道具だよ。この世の景色を、自分の力で塗り替えるための絵の具であり、筆なんだよ」
母の凛とした言葉が、和俊の胸に鋭く突き刺さった。
「絵の具……」
「そうだよ。目の前にある世の中が退屈で、もっと遠くが見たくてたまらないんだ。AIだか何だか知らないけれど、これから先の人間が生きる未来の形を、誰よりも早く自分の手で彫り上げたいのさ。八兆円も七十五兆円も、自分の懐に入れて抱き枕にして寝るわけじゃないだろ? 全部、未来を切り開くための燃料として火の中に放り込んでいるんだよ。失敗すれば丸裸になるかもしれないのに、そのヒリヒリするような命の賭け場にしか、自分の生きている実感が持てないのさ」
「命の賭け場か……」
和俊は、茶碗の白米を一口頬張った。しっかりとした粒の甘みが口いっぱいに広がる。
孫正義という男が、かつて病に倒れながらも立ち上がり、全財産を失いかけながらも笑って次の手を打っていた姿が脳裏をよぎる。あの男を動かしているのは、金銭欲などというちっぽけなものではなく、まだ見ぬ未来をこの手で手繰り寄せたいという、すさまじい執念と好奇心なのだ。
「お金に魂を飲まれる人はね、通帳の数字が減るのを怖がって、一生ビクビク暮らすことになる。でも、お金を使いこなす人は、数字なんてただのエネルギーだと知っているから、どれだけ集めても、どれだけ手放しても、平然としていられるんだよ。持っている額の大きさじゃない。その器の広さが、凡人と桁外れな人との違いさ」
かおるこはそう言って、ごぼうのきんぴらの小鉢を和俊の方へ押し出した。醤油と胡麻油の香ばしい匂いが立ち上る。
「ほら、よく噛んで食べなさい。あんたがその何兆円の数字を見て胃を痛めても、何一つ世界は変わらないんだから。大きな人の生き方を見て感心するのはいいけれど、あんたはあんたの器で、今夜のご飯を美味しく食べて、明日また真面目に働けばいいんだよ」
「……そうだな。俺が何兆円を心配したって始まらないよな」
和俊は思わず吹き出し、きんぴらを口に放り込んだ。しゃきしゃきとした歯ごたえが、心地よい音を耳の奥に響かせる。
パソコンの画面の中では、相変わらず冷たい電子の数字が並んでいる。けれど、もうそこに圧倒されるような怖さはなかった。遠い世界の怪物が吐き出す炎を恐れるのではなく、自分は自分の手の届く暮らしを、足元から温めていけばいい。
「ごちそうさま。母さん、美味しかったよ」
「お粗末さまでした。さ、お茶のおかわりを淹れておくれ。今夜は風が冷たいから、湯冷めしないうちに布団に入ろうね」
母の柔らかい声が、狭い六畳間をあたたかく満たしていった。




