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『国家の血管を握る男』Gautam Adani

カッチ湾から吹き付ける潮風には、常に乾いた塩と泥の匂いが混じっていた。


灼熱の太陽がグジャラートの荒野を白く焼き焦がす午後、巨大な防波堤の先端に、仕立てのいいリネンシャツの袖を捲り上げた男が立っていた。ゴータム・アダニ。かつてダイヤモンドの選別工として裸電球の下で埃にまみれ、今や10兆円を超える資産を背にインフラ帝国を率いる男である。


黒く太い眉の下、深い皺に刻まれた瞳が、眼前に広がるアラビア海を静かに見据えていた。


「ボス、ムンドラの第4拡張区画、地盤改良の予算が予定より三割跳ね上がっています」


駆け寄ってきた側近の若い役員、ラジェシュが額の汗を拭いながらタブレットを差し出す。息を切らす若者に対し、ゴータムは振り返りもせず、穏やかに海を指差した。


「ラジェシュ。お前の目には、あそこに何が見える?」


「……何が、とおっしゃいますと? 引き潮の泥干潟と、荒涼としたマングローブの茂みですが」


ゴータムは低く、喉を鳴らすように笑った。


「そうだな。普通の人間には、見捨てられた塩の沼地に見える。だが、私には見えるのだよ。世界中の原油を積んだスーパータンカーが並び、石炭船が腹を開け、コンテナを積んだ貨物列車がデリーやパンジャーブへ向けて何キロも連なって走る姿がな」


「しかし、銀行団はリスクを懸念しています。景気循環の波に耐えられないのではないかと」


ラジェシュの言葉に、ゴータムはゆっくりと身体を反転させた。彼の背後に広がるのは、見渡す限りの広大な港湾コンプレックス。クレーンが空を突き刺し、巨大な煙突から蒸気が立ち上っている。かつて誰もが「ただの塩田」と笑い飛ばした場所を、彼は一人でアジア屈指のメガポートへ変貌させたのだ。


「いいか、よく聞きなさい」


ゴータムの声は怒鳴るわけでもなく、静かに、だが鋼のような硬度をもって青年の胸に刺さった。


「富というものはな、金を追いかけて手に入るものじゃない。流行りのアプリを作って、一瞬の泡のように消え去る評価額を競うのは他人に任せておけばいい。人間が生きるために、国家が前へ進むために、絶対に避けられない『骨組み』は何だ?」


「骨組み……」


「電気だ。港だ。道路だ。人間が腹を満たし、夜に明かりをつけ、物資を運ぶことなしに、誰がスマートフォンを弄れるというんだ? 私は国家の血管を造っている。血管を握る者は、景気の波など恐れる必要はない。国家が呼吸を続ける限り、血液は流れ続けるのだから」


「国家の血管……」


ラジェシュは息を呑んだ。ゴータムの語る数字は、いつも数百万ドルではなく数千億ルピー、あるいは兆の単位だ。彼にとって金とは豪遊するための紙切れではなく、大地を削り、海を埋め立て、巨大な発電所を組み上げるための「土砂」に過ぎない。


ふと、ゴータムの表情がふっと緩んだ。瞳に遠い記憶の光が宿る。


「私の親父はな、小さな繊維商だった。兄弟は七人。家屋は狭く、夜は互いの寝返りの音で目が覚めるような暮らしだったよ。十六の時、私はアーメダバードを出てボンベイへ向かった。ポケットには小銭しか入っていなかったが、恐怖はなかった」


「怖くなかったのですか? 頼る当てもなく大都会へ出ていくのが」


「腹が減ることなど、何でもない。一番恐ろしいのは、自分の可能性の限界を他人に決められることだ。ムンバイのザヴェリ・バザールでダイヤモンドの買い付けを手伝っていた時、私は気づいたんだよ。商売の要諦は、品物の輝きじゃない。『情報の非対称性』と『大胆に賭ける勇気』だとね」


ゴータムは懐から銀のシガレットケースを取り出し、潮風に火を遮りながら火をつけた。煙が白く流れ、海へと溶けていく。


「他人が『危ない』と立ち止まる場所こそ、最大の利幅が埋まっている。皆が尻込みして逃げ出す嵐の中に、船を出すのだ。もちろん、船底に穴が空いて沈むかもしれない。だが、嵐を抜けた先にある新大陸を丸ごと手に入れる権利は、波に挑んだ者だけに与えられる」


「ですが会長、世間は時に貴方を批判します。政治との近さ、野心があまりに急進的すぎると」


ラジェシュの恐る恐るの問いかけに、ゴータムは煙を吐き出し、口元に不敵な笑みを浮かべた。


「インドという巨象が目を覚まし、走り出そうとしている。その巨体を支える道路や電力が足りないのだ。批判など風の音と同じだ、ラジェシュ。結果を出せば、批判した者たちも我が社の敷いた港から届いた石炭で灯された明かりの下で夕飯を食べる。文句を言いながら、我が社の送電網でエアコンを回すのだ。インフラを創るとは、他人の生活の一部になるということだよ」


その時、遠くの埠頭から重低音の汽笛が鳴り響いた。巨大なコンテナ船がゆっくりと接岸していく。その巨体を押すタグボートの白い波頭が、西日に照らされて黄金色に輝いていた。


ゴータムは腕時計を見た。時計は高価な宝飾品ではなく、実用的なクロノグラフだった。


「明日はオーストラリアの鉱山プロジェクトの進捗会議だ。夜の便で飛ぶぞ」


「明晩ですか? 会長、今週はまだ四時間しか通しで眠られていないのでは……」


「眠る時間など、死んだ後にいくらでもある」


ゴータムはラジェシュの肩をドンと強く叩いた。その手は分厚く、土を掴んできた男の重みがあった。


「金持ちになる人間と、ただの夢想家の違いを教えてやろうか」


ゴータムは西の空、インド洋の彼方に沈みゆく太陽を見つめながら言った。


「夢想家は、海を見て『いつか豪華客船で旅をしたい』と願う。だが、富を支配する者は、海を見て『ここに港を穿ち、何万隻の船を通すか』を計算し、次の瞬間にはショベルカーを発注している。考えるんじゃない、現実をねじ伏せるのだ」


太陽が水平線に沈み、ムンドラの港に無数のサーチライトが一斉に点灯した。荒涼としたかつての干潟が、一瞬にして光り輝く巨大都市へと変貌する。


その光の洪水の中に立つゴータム・アダニの影は、どこまでも長く、大地を呑み込むように伸びていた。



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