『銅の大地に、黄金の心を』 ――富とは、持つことではなく、未来を選ぶ力である
『銅の大地に、黄金の心を』
――富とは、持つことではなく、未来を選ぶ力である
お金持ちの生き方・考え方を描く短編小説
※メキシコの大手鉱業企業グルポ・メヒコと、実業家ヘルマン・ラレア・モタ・ベラスコから着想を得たフィクションです。人物の会話や出来事は創作であり、実際の発言や行動を再現したものではありません。
メキシコシティの朝は、黄金色の光に包まれていた。
高層ビルの窓から、遠くの山並みが薄い霧の向こうに浮かんでいる。
午前六時三十分。
世界有数の鉱業企業グルポ・メヒコを率いる実業家、ヘルマン・ラレア・モタ・ベラスコをモデルにした男、エルネスト・ラミレスは、執務室で一杯のブラックコーヒーを飲んでいた。
七十二歳。
彼が支配する企業群の価値は、数兆円規模に達する。
しかし、机の上には豪華な装飾品も、金の置物もなかった。
置かれていたのは、古びた銅の塊だった。
「会長、どうしてそんな石を大切にしているんですか?」
若い秘書のディエゴが尋ねた。
「石ではない。銅だ」
「ですが、会長なら純金の置物でも何でも買えるでしょう?」
エルネストは静かに笑った。
「ディエゴ。金は人を飾る。しかし、銅は社会を動かす」
「社会を?」
「電線、自動車、鉄道、発電設備。人々の暮らしを支えるものには銅が使われている。私は宝石を集めるより、社会が必要とするものを作りたい」
「でも、会長はお金持ちになりたかったんでしょう?」
「もちろんだ」
老人は窓の外を見つめた。
「だが、金持ちになることと、金持ちであり続けることは違う」
「どう違うんです?」
「前者には運が必要なこともある。後者には、判断と忍耐が必要だ」
午前九時。
役員会議室には緊張が漂っていた。
巨大なスクリーンには、銅価格の推移と新規鉱山開発の計画が映し出されている。
「会長、今こそ投資を拡大すべきです!」
財務担当役員のカルロスが声を張り上げた。
「世界の銅需要は今後も伸びると予想されています。ここで積極的に動けば、競争相手を引き離せます!」
「借入金はいくら増える?」
「約二十億ドルです」
「最悪の場合は?」
「……銅価格が大幅に下落すれば、利益が圧迫されます」
「それだけか?」
エルネストの声が低くなった。
「従業員は? 地域社会は? 資金繰りが悪化したとき、誰が苦しむ?」
カルロスは言葉を失った。
「会長、しかし、投資しなければ成長できません」
「私は投資を否定していない」
エルネストは机を指で軽く叩いた。
「私は、失敗したときに誰が代償を払うのかを聞いている」
会議室が静まり返った。
「いいか。大金を持つ者ほど、失敗を自分だけの問題だと思ってはいけない」
「では、どう判断なさいますか?」
「投資を三段階に分ける。第一段階の結果を確認してから次へ進む」
「それでは時間がかかります!」
「時間がかかることと、間違っていることは同じではない」
エルネストは資料を閉じた。
「市場は明日もある。しかし、一度失った信用は、明日には戻らない」
昼過ぎ。
エルネストは北部の鉱山を訪れていた。
乾いた風が赤茶けた大地を吹き抜け、巨大な採掘機が低い音を響かせている。
現場責任者のマルティンが駆け寄ってきた。
「会長! わざわざお越しいただくなんて!」
「現場を見なければ、数字の意味が分からないからな」
「こちらへどうぞ」
歩いていると、一人の若い作業員が声をかけてきた。
「あの、会長!」
周囲の人間が驚いた。
「ホセ、失礼だぞ!」
「構わん。何だ?」
青年は拳を握りしめていた。
「俺たちは毎日、危険な場所で働いています。会社は大きな利益を出しているのに、現場の設備は古いままです。どうしてですか?」
空気が凍りついた。
マルティンが慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません! この者には厳しく注意を――」
「必要ない」
エルネストは青年に向き直った。
「名前は?」
「ホセ・ガルシアです」
「ホセ。君の指摘は事実か?」
「はい!」
「ならば、私が知らなかったことが問題だ」
エルネストは責任者を見た。
「設備更新の報告書を、今日中に私のところへ送ってくれ」
「承知しました」
ホセは驚いたように尋ねた。
「……怒らないんですか?」
「なぜ怒る?」
「会長に文句を言ったから」
エルネストは微笑んだ。
「ホセ。私が聞きたいのは、私を喜ばせる言葉ではない。会社を良くする言葉だ」
「でも、俺みたいなただの作業員が……」
「ただの作業員?」
老人は首を振った。
「君がいなければ、銅は地面の下に眠ったままだ。君の仕事があるから会社が存在する」
ホセの目が潤んだ。
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い。設備が改善されて初めて、私の言葉に意味が生まれる」
夕方、鉱山の近くにある小さな食堂へ入った。
壁には古い家族写真が飾られ、厨房から焼いたトルティーヤの香りが漂ってくる。
「会長、こんな店でよろしいんですか?」
ディエゴが心配そうに尋ねた。
「腹が減ったときに食べる料理は、どこでもうまい」
「でも、もっと高級なレストランへ行けますよ」
「高い料理が、必ずしもうまいとは限らん」
エルネストは笑った。
そこへ、食堂の主人が近づいてきた。
「お客さん、今日は豆の煮込みがおすすめだよ」
「それを頼もう」
主人は老人の顔をじっと見た。
「……あんた、どこかで見たことがあるな」
「よくある顔だ」
「そうかい?」
主人は肩をすくめて厨房へ戻った。
ディエゴが小声で笑った。
「会長だと気づいていませんね」
「そのほうがいい」
「どうしてです?」
「肩書きを知らない人間がどう接するか。それを見るのは面白い」
「会長は、特別扱いされたいと思わないんですか?」
「必要な場面では肩書きを使う。しかし、食事をするときまで使う必要はない」
料理が運ばれてきた。
エルネストは熱い豆を一口食べ、満足そうにうなずいた。
「うまい」
ディエゴは不思議そうに尋ねた。
「会長。お金があれば、何でも買えると思っていました」
「多くのものは買える」
「幸せも?」
エルネストはスプーンを置いた。
「幸せになるための時間や環境を整えることはできる。だが、誰かが心から笑ってくれるかどうかは、金だけでは決められない」
夜八時。
メキシコシティの邸宅に戻ると、孫娘のルシアが待っていた。
「おじいちゃん!」
「おお、ルシア!」
十歳の少女が老人に飛びついた。
「ねえ、おじいちゃん。学校でね、将来何になりたいかって聞かれたの」
「何と答えた?」
「お金持ち!」
エルネストは声を上げて笑った。
「それは面白い。なぜだ?」
「欲しいものを全部買えるから!」
「例えば?」
「大きなお家! きれいなドレス! 世界中のお菓子!」
「なるほど」
「おじいちゃんは、どうしてお金持ちになったの?」
老人は少し考えた。
「私の場合は、事業を大きくすることに夢中だったからだな」
「お金が好きだったの?」
「嫌いではない」
「じゃあ、一番大切なものはお金?」
「いいや」
「何?」
エルネストは孫娘の手を握った。
「自分の判断に責任を持つことだ」
「責任?」
「例えば、ルシアが友達とお店を始めたとする」
「うん!」
「お店がうまくいったら、利益をどうする?」
「お菓子をいっぱい買う!」
「それもいい。だが、明日のお店のために残すお金も必要だ」
「どうして?」
「明日もお菓子を作る材料がいるからだよ」
「じゃあ、全部使っちゃダメなんだ」
「そういうことだ」
ルシアはしばらく考え込んだ。
「ねえ、おじいちゃん」
「何だい?」
「お金持ちって、お金を使わない人なの?」
「違う。何に使うかを考える人だ」
「じゃあ、私、お菓子屋さんを作る!」
「ほう」
「お金をためて、もっと大きなお菓子屋さんにするの!」
「いい考えだ」
「それでね、売れ残ったお菓子は、食べたい人にあげるの!」
エルネストは目を細めた。
「……それは、私より立派な経営者になるかもしれないな」
午後十時。
邸宅の庭には、静かな月明かりが落ちていた。
エルネストは一人、テラスの椅子に座っていた。
ディエゴが最後の書類を持ってきた。
「会長、今日の鉱山の設備について、報告が届きました」
「どうだった?」
「一部の安全設備が更新予定より遅れていました」
「原因は?」
「予算配分の問題です」
「そうか……」
エルネストは深く息を吐いた。
「利益を追うことは大切だ。しかし、数字だけを見ていると、人間の顔が見えなくなる」
「明日、対策会議を開きますか?」
「そうしてくれ」
ディエゴはうなずき、少し迷ってから尋ねた。
「会長。一つだけ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「これだけの財産を築いて、まだ働き続ける理由は何ですか?」
老人は夜空を見上げた。
「私は昔、金持ちになれば自由になれると思っていた」
「違ったんですか?」
「自由にはなった。だが、同時に責任も増えた」
「後悔していますか?」
「いや」
エルネストはゆっくり首を振った。
「ただ、若いころには分からなかったことがある」
「何でしょう?」
「財産は、自分一人の力で生まれるものではないということだ」
庭木が風に揺れた。
「従業員が働き、顧客が商品を買い、取引先が約束を守る。社会が安定しているから事業ができる。そういう多くの人間の力が重なって、初めて富が生まれる」
「なるほど……」
「だから、富を持つ者は、自分がどこから来たのかを忘れてはいけない」
ディエゴは静かにうなずいた。
「会長。私もいつか、お金持ちになりたいです」
「いいじゃないか」
「でも、何から始めればいいのか分かりません」
エルネストは笑った。
「まず、自分が何を生み出せるか考えることだ」
「何を生み出せるか?」
「誰かの役に立つ技術でも、商品でも、仕組みでもいい。価値を生み、それを継続させることを考えなさい」
「それで、お金がついてくる?」
「必ずとは言えない。世の中には運もあるし、不公平もある」
「そうなんですね」
「だが、少なくとも、他人の財布ばかり見ていても、自分の仕事は育たない」
ディエゴは笑った。
「厳しいですね」
「現実は、もっと厳しいよ」
深夜。
エルネストは執務室に戻り、机の上の銅の塊を手に取った。
ざらついた表面。
重い手触り。
それは、何十年も前に父から渡されたものだった。
『エルネスト。これを覚えておけ』
若き日の父の声がよみがえる。
『銅は、掘り出しただけでは大した価値にならない。運び、精錬し、必要な場所へ届けて、初めて役に立つ』
『じゃあ、お金も同じ?』
『そうだ。持っているだけでは、人生の意味にはならない』
老人は目を閉じた。
あれから長い年月が過ぎた。
数え切れない契約。
成功した投資。
判断を誤った事業。
失った友人。
家族と過ごせなかった時間。
財産は増えた。
しかし、過ぎ去った時間は戻らなかった。
「父さん……」
エルネストは小さくつぶやいた。
「私は、うまく生きられたんでしょうか」
答える者はいない。
窓の外には、眠らない大都市の灯が広がっている。
その光の一つひとつの下で、誰かが働き、誰かが愛し、誰かが明日の生活を心配している。
エルネストは銅の塊を机に戻した。
そして、翌日の予定表に一行を書き加えた。
『鉱山の安全対策を最優先で確認する』
その下に、もう一行。
『午後五時、ルシアのお菓子作りを手伝う』
老人は満足そうに笑った。
「……明日も、忙しくなりそうだ」
月明かりが、古い銅の表面を鈍く照らしていた。
それは金のように華やかではなかった。
けれど、長い年月を生き抜いてきた大地の色をしていた。
富とは、どれほど多くを所有したかだけでは測れない。何を育て、何を守り、次の世代に何を残すか。
エルネストはようやく、その問いの重さを理解し始めていた。
メキシコシティの夜が、静かに更けていった。
――完――




