『大地を握る男』ヘルマン・ラレア・モタ・ベラスコ
メキシコシティの夜は、乾いた埃と排気ガスの匂いに包まれている。しかし、ポランコ地区の高級住宅街を囲む巨大な石壁の内側だけは別世界だった。手入れの行き届いたジャカランダの木々が夜風に揺れ、紫色の花びらを青白い大理石の敷石に落としている。
厚い防弾ガラスに守られた書斎の奥で、ヘルマン・ラレア・モタ・ベラスコは革張りの重厚な椅子に身を沈めていた。
メディアは彼を「亡霊」と呼ぶ。顔写真すら滅多に出回らないメキシコ屈指の富豪、巨大コングロマリット「グルポ・メヒコ」を統べる男。
テーブルの上には、カナネアの巨大銅鉱山の拡張計画書と、大統領府からの非公式な通告書が並んでいた。
ドアが静かにノックされ、長年仕えてきた副社長のエドゥアルドが姿を現した。
「ドン・ヘルマン。内務省からの使者が帰りました。例の国有鉄道の路線接収に関する件……補償金の提示額は、我々の要求の三分の一にも達していません」
エドゥアルドの声には焦りが滲んでいた。国家権力が牙を剥き、私企業のリニア(路線)を奪い取ろうとしているのだ。普通の実業家なら青ざめて憤慨する局面だった。
だが、ヘルマンは手元のクリスタルグラスを静かに揺らすだけだった。琥珀色のテキーラが琥珀の光を散らす。
「怒っているのか、エドゥアルド」
ヘルマンの声はひどく低く、穏やかだった。だがその響きには、鉱山の底から響く地鳴りのような重みがあった。
「怒らないわけにはいきません! 大統領はメディアを使って我々を『強欲な資本家』と叩き、大衆を煽っています。このままではブランドイメージが――」
「イメージ?」
ヘルマンは口元に微かな笑みを浮かべ、ゆっくりと首を横に振った。
「エドゥアルド、お前はまだ紙の上の数字と、大衆の気まぐれな拍手を信じているのか」
ヘルマンは立ち上がり、巨大な窓辺へと歩み寄った。眼下には、光の絨毯のように広がるメキシコシティの夜景。しかし彼の視線はその美しさを捉えてはいなかった。彼が見ているのは、もっと深く、暗い地面の底だ。
「大衆が朝起きて夜眠るまで、何に触れていると思う? 電気を運ぶ電線、走る列車、ビルの骨組み、水道のパイプ……そのすべてに銅が使われている。そしてその銅は、誰がどこから掘り出している?」
「それは……我が社の鉱山ですが」
「そうだ。人間が文明という名の呼吸を続ける限り、土を掘り返し、大地から金属を奪い取る我々を無視することはできない。大統領が何人代わろうと、革命が起きようと、大地の下にある富の法則は変わらんのだよ」
ヘルマンは振り返り、鋭い双眸で部下を射抜いた。
「政治家は言葉を売る。大衆は幻想を買う。だが、我々が売っているのは『現実』そのものだ。現実を握る者が、なぜ幻影の批判に耳を傾ける必要がある?」
エドゥアルドは息を呑んだ。
この男の頭の中にあるのは、目先の数四半期の決算などではない。数十年、あるいは世紀を超える単位での「富の支配」だった。
「では、大統領府への返答はどうなさいますか。これ以上の対立は、他の鉱業権の更新にも影を落としかねません」
「譲歩する気はない」
ヘルマンは冷徹に言い放った。感情の欠片もない、平坦な宣告だった。
「だが、正面から殴り合う必要もない。彼らが欲しいのは『民衆に対する勝利のポーズ』だ。ならば、路線の一部をくれてやればいい。その代わり、港湾への優先接続権と、ソノラ州の新規採掘エリアの認可を裏で手に入れろ」
「……表で負けて見せ、裏で急所を握る、と」
「富とは、見せびらかすための宝石ではない。見えないところで他人の首根っこを押さえるための梃子だ。私がなぜ公の場に出ないか分かるか?」
ヘルマンはデスクに戻り、ペンを指先で弄んだ。
「名声などという安っぽい毒に酔えば、人は隙を見せる。メディアに笑顔を振りまき、慈善事業で拍手を浴びたがる成金どもを見ろ。彼らは風向きが変われば一瞬で引きずり降ろされる。だが、影の中にいる者は、誰も引きずり降ろすことができない」
「『存在しない富豪』……それが、あなたの強さの源泉ですね」
「富を維持する唯一の道は、大地のように沈黙し、大地のように貪欲であることだ。エドゥアルド、明日の朝一番で鉄道事業の担当役員を集めろ。政府との交渉のシナリオは私が書き直す」
「承知いたしました」
エドゥアルドが深く一礼し、踵を返そうとした時、ヘルマンが再び声をかけた。
「それから、もう一つ」
「はい?」
「カナネアの抗議デモはどうなっている」
「先週から労働組合が賃上げを求めてゲートを封鎖していますが……食料が尽きかけているようです。警察を介入させますか?」
ヘルマンは短く息を吐き、静かに首を振った。その瞳には、憐憫も憎しみもなく、ただ冷徹な観察者としての光だけが宿っていた。
「警察を呼べば火に油を注ぐ。放っておけ。腹が減れば、人間は必ず現実を思い出す。空腹の叫び声より、家族に食わせるパンの重さのほうが勝るのだ。彼らが膝を折るのを待て。折れた後に、少しばかりの手当を上乗せしてやれば、彼らは以前よりも忠実にツルハシを振るうようになる」
「……残酷なまでの合理性ですね」
エドゥアルドが思わず漏らした言葉に、ヘルマンはフッと鼻を鳴らした。
「残酷? 違うな。これが自然の摂理だ。岩を砕かなければ銅は出ず、泥水を飲まなければ生き残れない。私はただ、人間という生き物の生態を誰よりも理解しているに過ぎん」
エドゥアルドが退室し、書斎には再び絶対的な静寂が戻った。
ヘルマンは一人、デスクの引き出しから小さな塊を取り出した。それは加工されていない、赤褐色に鈍く光る生の銅鉱石だった。ざらりとした冷たい感触が、老いた手のひらに伝わる。
父から受け継ぎ、何倍にも膨らませてきた帝国。
人々は彼を強欲と罵り、冷血と恐れ、あるいはその巨万の富を羨望する。
だがヘルマンにとって、金とは贅沢をするための紙切れではなかった。自分という存在を、この過酷で不確実な世界において絶対的な「岩盤」として固定するための、唯一の鎧だった。
窓の外では、夜明け前の冷たい風が吹き抜け、メキシコの大地を揺らしていた。
ヘルマン・ラレアは鉱石を強く握り締め、暗闇の向こうを見つめ続けた。太陽が昇れば、また何万人もの人間が、彼の敷いたレールの上を走り、彼の掘り出した金属に囲まれて一日を始めるのだ。彼がその顔を知られることもなく、彼らの生きる世界そのものを支配しながら。




