『億万長者は、値札の裏側を見る』
『億万長者は、値札の裏側を見る』
――ディーター・シュワルツに学ぶ、お金持ちの生き方と考え方――
※ドイツの実業家ディーター・シュワルツとシュワルツ・グループを題材にした創作小説です。会話や出来事はフィクションであり、本人の実際の発言ではありません。
十月二十八日。
ドイツ南西部、ネッカーズルム。
秋の朝霧が街を包み、街路樹の黄色い葉が石畳を滑っていた。
冷たい風が頬を刺す。
そんな朝、一人の日本人青年が、小さなスーパーマーケットの前で立ち尽くしていた。
「ここが……世界有数の大富豪を生んだ場所なのか?」
青年の名は、佐藤健一。三十二歳。
東京で小さな食品会社を経営していたが、事業は赤字続き。借金は膨らみ、従業員の給料を払うのも苦しくなっていた。
「金持ちになる秘訣を聞きに来たのに……」
健一はため息をついた。
彼が会いたい人物。
それは、ドイツの小売業大手シュワルツ・グループを築き上げた実業家、ディーター・シュワルツだった。
LidlやKauflandを展開する巨大企業グループ。
その成功を支えた人物は、派手な富豪生活を見せびらかすことで知られる人ではない。
「億万長者なら、大豪邸に住んで、高級車を何台も並べていると思っていたのに……」
健一がつぶやいた瞬間、背後から声がした。
「君は、お金持ちになりたいのかね?」
振り向くと、灰色のコートを着た老人が立っていた。
穏やかな目。
飾り気のない服装。
手には、ごく普通の買い物袋。
「はい! ものすごく!」
「なぜ?」
「えっ?」
「なぜ、お金持ちになりたい?」
「それは……いい車に乗って、立派な家に住んで、好きなものを買って……」
老人は少し笑った。
「それで、君の会社は儲かるのかね?」
「……いいえ」
「従業員は幸せになるのかね?」
「……わかりません」
「では、まず買い物をしよう」
「買い物?」
「金持ちの考え方を知りたいなら、スーパーほど面白い教室はない」
老人はゆっくり歩き始めた。
*
第一章 金持ちは、一ユーロを笑わない
店内には焼きたてのパンの香りが漂っていた。
棚には牛乳、チーズ、野菜、果物が整然と並ぶ。
老人は一袋のじゃがいもを手に取った。
「君なら、これをいくらで売る?」
「そうですね。仕入れ値に利益をたっぷり乗せます」
「なぜ?」
「儲けたいからです!」
「では、客が高いと思って買わなかったら?」
「値下げします」
「値下げしても売れなかったら?」
「広告を出します!」
「広告費は?」
「……かかります」
「その費用は誰が払う?」
「……結局、お客さんです」
老人はうなずいた。
「商売とは、客の財布からできるだけ多くのお金を奪う競争ではない」
「じゃあ、何です?」
「客が喜んで何度も来てくれる仕組みをつくることだ」
健一は黙り込んだ。
老人は続けた。
「一人のお客さんから一度だけ大きく儲けることと、何万人ものお客さんに毎週来てもらうこと。君はどちらを選ぶ?」
「……後者です」
「なぜ?」
「長く続くから」
「そうだ。目先の利益だけでなく、十年後も選ばれる理由を考えるんだ」
健一は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「僕は……今月の売上ばかり考えていました」
「経営者は今月の支払いも守らなければならない。だが、それだけでは未来を失う」
*
第二章 節約とケチは違う
店を出ると、霧が晴れ、秋の日差しが建物の壁を黄金色に染めていた。
老人は小さなベンチに腰を下ろした。
「君は、金持ちほど金を使うと思っているようだね」
「違うんですか?」
「金を使うことと、価値を生むことは別だよ」
「でも、お金があれば贅沢したいでしょう?」
「贅沢が悪いわけではない。問題は、その支出にどんな意味があるかだ」
「意味?」
「例えば、百万円の時計を買う。君にとって、それは何を生む?」
「自信です!」
「時計がなければ自信を持てないのかね?」
「うっ……」
「では、百万円を使って、従業員が楽になる機械を買ったら?」
「作業時間が減ります」
「品質は?」
「安定するかもしれません」
「従業員は?」
「喜ぶと思います」
「その結果、客も喜ぶなら?」
「売上につながる!」
老人は静かに笑った。
「節約とは、何も使わないことではない。大切でないものへの支出を抑え、大切なものに資源を回すことだ」
健一は自分の腕時計を見た。
事業が苦しくなる直前、見栄で買った高級時計だった。
「これ……売ろうかな」
「必要ならね」
「実は、会社の冷蔵設備が古くて……」
「それは従業員が困るだろう」
「はい。毎日、温度管理に苦労しています」
「君の時計より、冷蔵庫のほうが働き者かもしれないな」
「痛いところを突きますね!」
二人は声を立てて笑った。
*
第三章 金持ちは、時間を味方にする
午後になると、二人は川沿いの遊歩道を歩いた。
ネッカー川の水面に秋空が映り、落ち葉がゆっくり流れていく。
「君の会社は何年目だね?」
「五年目です」
「五年か。立派に続けてきたじゃないか」
「でも赤字です。失敗ですよ」
「失敗から何を学んだ?」
「……たくさんあります」
「例えば?」
「売れそうだと思って商品を増やしすぎました」
「それで?」
「在庫が増えて、廃棄も増えました」
「ほかには?」
「他社の成功を見て、真似ばかりしました」
「自分の強みは?」
「考えていませんでした」
老人は立ち止まった。
「君は、木を育てたことがあるかね?」
「祖父の家に林檎の木がありました」
「植えた翌日に実がなったか?」
「まさか!」
「では、毎日掘り返して、根が伸びたか確かめたか?」
「そんなことをしたら枯れますよ!」
「経営も似ている」
老人の声は穏やかだった。
「方針を変えるべきときはある。だが、昨日決めたことを今日疑い、明日には別の流行を追う。そんなことを続ければ、根が張る暇もない」
「僕、そのままです……」
「急ぐことと、焦ることは違うんだよ」
健一は川面を見つめた。
自分はいつから、成功を急ぎすぎるようになったのだろう。
*
第四章 お金は、目的ではなく道具
夕暮れが近づいた。
秋の日は驚くほど短い。
老人は健一を、街の教育施設が見える場所へ案内した。
「企業が大きくなれば、利益をどう使うかという責任も大きくなる」
「自分のためだけじゃないんですね」
「自分の生活を守ることも大切だ。だが、それだけでは大きな事業を動かす理由として寂しいと思わないかね?」
「確かに……」
「若い人が学べる場所。新しい技術を生み出せる環境。次の世代が挑戦できる社会。そういうものに資金を使う道もある」
健一は顔を上げた。
「シュワルツ・グループの成功は、そういう地域への投資にもつながっているんですね」
「事業が生み出した富を、未来にどう残すか。それは考える価値のある問いだ」
「僕には、まだ寄付する余裕なんてありません」
「寄付だけが社会への貢献ではないよ」
「えっ?」
「約束どおりに給料を払う。取引先に誠実でいる。良い商品を適正な価格で届ける。そうしたことも、立派な責任だ」
健一の目が潤んだ。
「僕……社員に申し訳なくて」
「何が?」
「僕の判断が悪くて、みんな苦労しているんです」
「なら、まず現実を正確に見なさい。必要なら助けを求め、事業を立て直す方法を考える。責任とは、一人で苦しむことではない」
「……はい」
秋風が、二人の間を静かに通り過ぎた。
*
第五章 本当の豊かさ
街灯がともり始めたころ、健一は老人に尋ねた。
「最後に、一つだけ聞いていいですか?」
「何だね?」
「大金持ちになれば、不安は消えますか?」
老人はすぐには答えなかった。
遠くで教会の鐘が鳴った。
「お金が解決してくれる問題は多い。生活の不安、選択肢の少なさ、突然の出費。そうした負担を軽くできる」
「じゃあ、やっぱりお金は大切ですね」
「もちろんだ。しかし、金が増えれば責任も増える。失う不安が生まれることもある」
「……なるほど」
「君は何のために会社を始めた?」
健一は目を閉じた。
五年前の小さな事務所。
初めて商品が売れた日の喜び。
従業員と食べた安い弁当。
お客さんから届いた、手書きの感謝の手紙。
「……おいしいものを、手頃な値段で届けたかったんです」
「それは、いい出発点だ」
「でも途中から、売上の数字ばかり見ていました」
「数字は必要だ。数字から逃げてはいけない。しかし、数字の向こうにいる人間まで忘れてはいけない」
健一は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。日本に帰ったら、まず社員と話します」
「何を話す?」
「会社の現状です。隠さずに。そして、何を残し、何をやめるか、みんなで考えます」
「いいね」
「それから、商品の種類を見直します。お客さんに本当に必要とされているものを大事にします」
「うん」
「高級車は……しばらく我慢します!」
老人は吹き出した。
「しばらく、なのかね?」
「一生とは言い切れません!」
「正直でよろしい!」
二人は笑った。
*
終章 帰国の日
翌朝。
健一は空港へ向かう列車の窓から、霧に包まれたドイツの田園を眺めていた。
赤茶色の屋根。
黄色く色づいた森。
遠くまで続く畑。
ポケットには、昨夜ノートに書いた五つの言葉があった。
「見栄より価値。浪費より投資。焦りより継続。独占より信頼。そして、利益の先に人を見る。」
健一は小さく笑った。
「よし。まずは会社を潰さないことだ」
そのとき、スマートフォンが鳴った。
社員の田中からだった。
「社長! 今どこですか!」
「ドイツだよ。今から帰る!」
「大変なんです!」
「どうした!」
「社長が買った高級コーヒーマシン、また故障しました!」
「何だって!」
「修理代、八万円です!」
健一は天井を仰いだ。
あの老人の言葉が耳によみがえる。
――大切でないものへの支出を抑え、大切なものに資源を回す。
「田中君!」
「はい!」
「その機械、もう修理しなくていい!」
「えっ! 社長、コーヒー大好きでしょう!」
「これからはインスタントだ!」
「本当ですか!」
「ただし!」
「ただし?」
「社員の給料を立て直して、会社が黒字になったら……」
「なったら?」
「みんなで、おいしいコーヒーを飲もう!」
電話の向こうで、田中が笑った。
「社長、それなら僕、頑張れます!」
健一も笑った。
列車は朝霧を抜け、柔らかな陽光の中を走り始めた。
彼はまだ金持ちではなかった。
借金も残っていた。
明日からの仕事は、決して楽ではないだろう。
けれど、昨日までとは違っていた。
お金を追いかけるだけだった男が、お金を何のために使うのか、ようやく考え始めたのだ。
そして健一は、窓に映る自分の顔に向かってつぶやいた。
「世界一のお金持ちになれなくてもいい。世界一、社員から『給料日が楽しみだ』と言われる社長になろう」
少し考えて、付け加えた。
「……もちろん、給料日以外も楽しんでもらいたいけどな」
車窓の向こうで、黄金色の葉が風に舞った。
秋のドイツは、今日も静かに美しかった。
本当の豊かさとは、持っているお金の大きさだけではなく、そのお金で何を守り、何を育て、どんな未来をつくるかにある。
健一の新しい商売は、ここから始まる。
――完――




