『期待値の神殿』ジェフ・ヤス
ペンシルベニア州バラ・シンウィド。フィラデルフィアの喧騒から少し離れたこの街の静けさの中に、サスケハナ・インターナショナル・グループ(SIG)の本社は聳え立っていた。
フロアの片隅、巨大なガラス張りのエグゼクティブルームには、ウォール街の派手な成金趣味を思わせる調度品は一つもない。あるのは何十画面ものモニター、書棚に押し込められた確率統計の学術書、そして擦り切れたフェルト張りの小さなテーブルだった。
ジェフ・ヤスは、椅子の背もたれに深く体重を預け、冷めた紙コップのブラックコーヒーに口をつけた。
六十七歳。だがその双眸は、半世紀前のブルックリンの街角で、あるいはラスベガスのポーカーテーブルで、カードの裏側を見透かそうとしていた若きギャンブラーの時のまま、鋭く澄み切っている。
「ヤスさん、先月のオプション取引のポートフォリオレビューです。それから……例のプライベート・エクイティ部門からの進捗報告も」
入ってきたのは、トレーディングチームを統括する若きクオンツ、デヴィッドだった。手元のタブレットを胸に抱え、緊張の面持ちで立ち尽くしている。
「デヴィッド、座れよ。立ったままじゃ良い思考は巡らない」
ヤスは気さくに手を振り、テーブルの向かいのパイプ椅子を指した。数十億ドル、いや、数百億ドルの資産を動かす男とは思えないほど、着ているポロシャツはシンプルで、飾り気がない。
「資産評価額の最新推計が出ました。メディアの試算では、あなたの個人資産は今や数百億ドル――世界でも指折りの富豪リストにあなたの名が躍っていますよ。フォーブスもブルームバーグも、連日大騒ぎです」
デヴィッドがどこか興奮混じりに告げた。しかし、ヤスは眉ひとつ動かさず、むしろ退屈そうに目を細めただけだった。
「数字か。……デヴィッド、お前はラスベガスのカジノで、チップの山を積み上げた男が一番偉いと思うか?」
「え? それは、勝っているという意味では……」
「違うな」
ヤスはテーブルに置かれたトランプのデッキを指先で滑らかに弄び始めた。乾いたカードの擦れ合う音が、静かな部屋に小気味よく響く。
「偉いのは『チップを多く持っている奴』じゃない。『期待値がプラスの賭けを、淡々と、恐れずに、統計的に正しく打ち続けられる奴』だ。勝敗なんてものは、ただの確率の収束に過ぎない。数字の大小に一喜一憂する人間は、次のハンドで必ず破滅する」
「ですが、市場は今、ボラティリティの嵐です。誰もが恐怖に震えていますよ。なのにあなたは、TikTokの親会社であるバイトダンスへの初期投資を含め、なぜそこまで巨大なリスクを平然と背負い続けられるんですか?」
デヴィッドの問いに、ヤスはふっと口元を緩めた。その笑みには、狂気と極限の理性が同居した、勝負師特有の深い色があった。
「リスクだと? お前たちが見ているのは『不確実性への恐怖』だ。私が見ているのは『価格と確率の歪み』だけだ」
ヤスはデッキからカードを四枚、裏向きのままテーブルに放った。
「ポーカーでも競馬でも、オプション市場でも本質はすべて同じだ。オッズが十倍の馬がいる。世間の大半は『来っこない』と笑う。だが、徹底的なデータ分析と論理から弾き出した真の勝率が十五パーセントだったとしたらどうする?」
「……期待値は、一・五。プラス五十パーセントの賭けになります」
「そうだ。なら、全財産を失わない範囲で、その賭けを無限回繰り返すだけだ。世間はそれを『無謀なギャンブル』と呼ぶ。だが私に言わせれば、期待値がマイナスの宝くじを買い、インフレで目減りする現金を銀行に眠らせている大衆の生き方こそ、最悪のギャンブルだ」
ヤスは身を乗り出し、澄んだ青い目でデヴィッドを射抜いた。
「金持ちになる人間と、そうでない人間の決定的な違いを知りたいか?」
「……教えてください」
「考え方のOSが違うのさ。凡人は『結果』で過去を裁く。『損をしたから間違っていた』『儲かったから正しかった』とな。だが、それは思考停止だ。ポーカーの世界では、完璧なプレイをしてもリバーの一枚で負けることがある。逆に、無謀な初心者がラッキーでポットをさらうこともある」
ヤスは人差し指でテーブルをトン、と叩いた。
「結果に惑わされるな。『正しい決定をしたか』だけを問え。期待値がプラスなら、たとえ今日十連敗しようが、明日も同じベットをする。感情を殺し、エゴを削ぎ落とし、確率の神に身を委ねる。――それが、サスケハナをここまで押し上げた唯一の鉄則だ」
夕暮れが迫り、窓の外のフィラデルフィアの空が、群青から鈍い茜色へとグラデーションを描いていた。オフィスビルのガラスに反射する夕陽が、ヤスの彫りの深い横顔を鋭く照らし出す。
「ですが、ヤスさん」デヴィッドは息を呑みながら言った。「感情を完全に捨て去ることなんて、人間にできるんでしょうか。勝てば嬉しいし、失えば痛い。あなたは……怖くないのですか?」
「怖いさ」
ヤスはあっさりと認めた。その意外な返答に、デヴィッドは目を丸くした。
「若い頃、競馬のトラックで仲間と全財産を賭けていた時代を思い出すよ。夜風が骨まで染みるような寒さの中、オッズ板の数字の動きをノートに書き留めながら、手の震えが止まらなかった。負ければ明日の飯代さえない。だがな、デヴィッド。その恐怖こそが最高の教師なんだ」
ヤスは立ち上がり、ガラス窓の前に立った。眼下には、家路を急ぐ車たちのテールランプの赤い光の川が流れている。
「恐怖を感じた時、人間には二つの道がある。感情に支配されてカードを投げるか、それとも冷徹に計算機を叩き直すかだ。私は後者を選び続けた。私にとって金とは、贅沢なヨットや豪邸を買うための紙切れじゃない」
彼は窓ガラスに映る自分の瞳を見つめた。
「金とは、自らの知性と自由を証明するための『スコア』であり、次に訪れるもっと面白いゲームに参加するための『入場チケット』だ。市場という世界最大のパズルを解き明かすための道具に過ぎない。だから、守りに入った瞬間に人は退化する。富を抱きしめて死ぬ老兵になるつもりはないよ」
室内の空気が、ピンと張り詰める。
単なる億万長者の講釈ではない。半世紀にわたり、世界の知性たちが鎬を削る金融市場という名の修羅場を、確率という一本の研ぎ澄まされた刃だけで切り拓いてきた男の、剥き出しの哲学だった。
ヤスは振り返り、テーブルの上のカードを鮮やかな手付きで一つにまとめた。
「さて、講義は終わりだ。デヴィッド、さっきのディールだが、お前が持ってきたシミュレーション、ボラティリティの織り込みが甘いぞ。過去の平均値に頼りすぎている」
「あ……はい、標準偏差の二倍で計算していましたが……」
「ブラックスワンを前提にしろ。市場が最もパニックを起こした時、人間はどう動くか。非合理の極限にこそ、最大の歪みが生まれる。そこを突くんだ。もう一度モデルを組み直してこい」
「わかりました! すぐやり直します」
デヴィッドは深く頭を下げ、部屋を飛び出していった。その足取りには、先ほどまでの迷いはなく、未知のゲームに挑む興奮が宿っていた。
静寂が戻った部屋で、ヤスは再び椅子に腰掛けた。
机の上のモニターでは、世界中の市場データがチカチカと緑と赤の光を明滅させている。世界が動いている。何億人もの欲望と恐怖が、デジタルな数字となってうねりを上げている。
ヤスは手元のカードを一枚めくった。
スペードのエース。
「生きることは、ベットすることだ」
誰に聞かせるでもなく、彼は小さく呟き、満足げに微笑んだ。
窓の外には、深い夜が広がっている。ゲームは、まだ始まったばかりだった。




