鍾睒睒(ジョン・シャンシャン)――「水を売って大富豪になった男」
第一章 「お前の人生は、もう終わりだ」
中国・浙江省杭州。
冷たい雨が、古い家々の屋根を叩いていた。
まだ若かった鍾睒睒は、泥だらけの靴で道を歩いていた。
文化大革命の混乱の中、学校で学ぶ機会を失い、働かなければならなかった。
「おい、鍾!」
建設現場の年配の男が声をかけた。
「何ですか?」
「お前、まだ勉強なんかしているのか?」
「はい。夜に少しだけ」
男は鼻で笑った。
「学校もまともに出ていないくせに、何になるつもりだ?」
鍾は黙っていた。
「世の中は学歴だ。金もない、コネもない。お前みたいな人間が成功できると思うか?」
雨が激しくなった。
鍾は握りしめた手を、ゆっくり開いた。
「分かりません」
「ほらな!」
「でも、一つだけ分かります」
「何だ?」
「今の自分が貧しいからといって、一生貧しいとは限らない」
男は呆れた顔をした。
「夢を見るのは自由だが、腹は膨れないぞ」
「そうですね」
鍾は微笑んだ。
「だから、働きます。そして学びます」
その夜。
薄暗い部屋で、鍾は古い本を開いた。
疲れ切った指先が、ページをめくる。
「いつか……」
小さくつぶやいた。
「いつか、自分の力で人生を変えてみせる」
窓の外では、雨が降り続いていた。
しかし、彼の心の中には、まだ消えていない火があった。
第二章 「金持ちになりたいなら、人を見ろ」
時は流れた。
鍾はさまざまな仕事を経験し、新聞記者としても働いた。
ある日、取材先の小さな商店で、店主に尋ねた。
「商売で一番大切なものは何ですか?」
店主は笑った。
「そんなことも知らないのか。金だよ、金!」
「金ですか?」
「仕入れるにも、店を構えるにも、金がいる」
鍾はうなずいた。
「でも、金があっても客が来なければ、商売は続きませんよね?」
店主は眉をひそめた。
「それはそうだが……」
「なぜ、お客さんはこの店で買うんですか?」
「近いからだろう」
「ほかには?」
「品物がいいからじゃないか?」
「つまり、お客さんには、この店を選ぶ理由がある」
店主は腕を組んだ。
「お前、記者のくせに商売人みたいなことを言うな」
鍾は笑った。
「商売って面白いですね」
店主は首をかしげた。
「何が面白い?」
「人が何を欲しがっているか分かれば、商売の種が見つかる」
店主は鍾をじっと見つめた。
「お前、いつか自分で商売をする気か?」
「ええ」
「何を売る?」
鍾は少し考えた。
「まだ分かりません」
「何だ、決まってないのか!」
「でも、誰もが必要とするものがいいですね」
店主は笑った。
「米か? 塩か? それとも水でも売るか?」
鍾も笑った。
「水……ですか」
その何気ない言葉が、後の人生を予言しているようだった。
第三章 「水なんか売って、誰が買うんだ!」
1996年。
鍾睒睒は、飲料事業に挑戦した。
後に中国を代表する飲料メーカーとなる農夫山泉の始まりだった。
小さな会議室。
机の上には、一本の水のボトルが置かれていた。
仲間の一人が、困惑した顔で言った。
「社長、本当に水を売るんですか?」
「そうだ」
「水ですよ?」
「分かっている」
「水道をひねれば出てくる水に、お金を払う人がいると思いますか?」
鍾はボトルを手に取った。
「君は、毎日何を飲む?」
「お茶です。水も飲みます」
「なぜ飲む?」
「喉が渇くからです」
「そうだ。人間は水なしでは生きられない」
仲間はため息をついた。
「だからこそ、どこにでもあるんです」
鍾は静かに言った。
「どこにでもあるものだからこそ、毎日必要とされる」
「しかし、競争相手が多すぎます!」
「競争があるのは、需要がある証拠でもある」
「勝てる保証は?」
鍾は首を横に振った。
「保証なんてない」
「だったら危険です!」
「危険だから、何もしないのか?」
部屋が静まり返った。
鍾は窓の外を見た。
遠くに山々が連なっていた。
「私が売りたいのは、ただの透明な液体じゃない」
「では、何ですか?」
「安心して飲める、おいしい水だ」
「それだけですか?」
「それだけを、徹底的にやる」
仲間は黙った。
鍾は続けた。
「派手な商品を作る必要はない。毎日の暮らしに欠かせないものを、誰よりも真剣に作ればいい」
その声には、静かな決意があった。
第四章 「値下げすれば、売れると思うな」
事業が成長する一方、競争は厳しかった。
ある日の会議。
営業責任者が、資料を机に置いた。
「社長、大変です!」
「どうした?」
「競合他社が値下げしました。このままでは売上が落ちます!」
「そうか」
「うちも値下げしましょう!」
鍾は資料を見つめた。
「なぜ?」
「安くしないと、客を奪われます!」
「本当にそうか?」
営業責任者は声を荒らげた。
「消費者は安いものを買うんです!」
鍾は立ち上がった。
「では、聞こう」
「はい」
「君が家族に飲ませる水を選ぶとき、値段だけで決めるか?」
「……いいえ」
「何を見る?」
「品質です。安全性も」
「ほかには?」
「信頼できる会社かどうか……」
鍾はうなずいた。
「そうだ。値段は大切だ。しかし、それだけではない」
「では、どうしますか?」
「品質を守る。水源を守る。消費者からの信頼を積み重ねる」
営業責任者は不安そうだった。
「それで勝てますか?」
鍾は答えた。
「必ず勝てるとは言わない」
そして、静かに続けた。
「だが、目先の売上のために信頼を失えば、長く商売を続けることはできない」
窓の外では、夕陽が沈みかけていた。
一本の水を売る。
その単純な仕事の中に、何年もかけて守るべきものがある。
鍾は、それを仲間に伝えたかった。
第五章 「大富豪になって、何が変わった?」
2020年。
農夫山泉は香港証券取引所に上場した。
鍾睒睒の資産は大きく膨らみ、彼は中国屈指の富豪として知られるようになった。
ある夜。
物語の中の鍾は、昔からの友人と食事をしていた。
友人は笑いながら言った。
「おい、鍾! とうとう大富豪じゃないか!」
「そう報じられているな」
「もっと喜べよ!」
「うれしくないわけじゃない」
「だったら、何を買うんだ?」
「何を?」
「豪邸だよ! 高級車だよ! 世界一周旅行だってできるだろ!」
鍾は温かいお茶を一口飲んだ。
「君は、金があれば幸せになれると思うか?」
「当たり前だ!」
「では、金持ちには悩みがないのか?」
友人は黙った。
鍾は続けた。
「金がなければ、生活に苦労する。だから金は大切だ」
「そうだろ?」
「しかし、金が増えれば、責任も増える」
「責任?」
「社員がいる。取引先がいる。商品を買ってくれる人がいる」
友人は鍾の顔を見た。
「お前、昔と変わらないな」
「そうか?」
「ああ。貧乏だった頃も、今も、難しい顔をして考えてばかりだ」
鍾は笑った。
「考えることは、金がなくてもできるからな」
友人は大笑いした。
「世界有数の金持ちが言うと、説得力が違う!」
鍾も笑った。
そして、ふと真剣な顔になった。
「私はね、金持ちになることだけを目標にしていたら、ここまで来られなかったと思う」
「どういう意味だ?」
「目の前の仕事を、どうすればもっと良くできるか。それを考え続けてきたんだ」
「結果として金がついてきた?」
「そういう面もあるだろうな」
窓の外には、華やかな街の灯りが広がっていた。
だが鍾の目には、昔の工事現場の泥道も、同じくらい鮮明に残っていた。
最終章 「貧しい青年への答え」
ある日、若い青年が鍾を訪ねてきた。
青年は緊張した声で尋ねた。
「どうすれば、お金持ちになれますか?」
鍾は椅子に腰かけた。
「君は今、何をしている?」
「小さな会社で働いています」
「仕事は好きか?」
「正直、好きではありません」
「なぜ?」
「給料が安いからです」
鍾はうなずいた。
「では、給料が二倍になれば好きになるか?」
青年は考え込んだ。
「……分かりません」
「そうか」
鍾はテーブルの水を指さした。
「この水を見て、何を思う?」
「ただの水です」
「そうだな。では、これを毎日買ってくれる人が何百万人もいたら?」
青年は目を見開いた。
「大きな商売になります!」
「そうだ」
鍾は微笑んだ。
「世の中には、ありふれているように見えて、大切なものがたくさんある」
「でも、私には才能も、お金もありません」
「私も、若い頃から何でも持っていたわけじゃない」
「では、何から始めればいいですか?」
「人をよく見ることだ」
「人を?」
「何に困っているか。何を欲しがっているか。何を不便に感じているか」
青年は身を乗り出した。
「それが、金持ちになる秘訣ですか?」
鍾は首を横に振った。
「成功の保証はない。だが、人の役に立つことを考えずに、長く続く商売を作るのは難しい」
「……はい!」
「それから、もう一つ」
「何ですか?」
「自分の過去を、未来の限界にするな」
青年の目に、涙が浮かんだ。
「僕は……ずっと、自分には無理だと思っていました」
鍾は静かに答えた。
「無理かどうかは、今ここで決めなくてもいい」
「では?」
「まず、できることを一つやってみるんだ」
青年は深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
外に出ると、青空が広がっていた。
青年は自動販売機で一本の水を買った。
透明なボトルを、太陽の光にかざす。
何の変哲もない水。
けれど、その水が巨大な事業を生み出した。
青年は小さく笑った。
「特別なものを探す前に、目の前の当たり前を見直してみよう」
そして、力強く歩き始めた。
富を築くために、最初から特別なものを持っている必要はない。
人々が毎日必要とするものに目を向け、品質を磨き、信頼を積み重ねる。
失敗や遠回りを経験しても、学び続ける。
そして、お金を手にした後も、そのお金を生み出した仕事の意味を忘れない。
それが、この物語で描いた鍾睒睒の生き方だった。
「水は低いところへ流れる。しかし、人間の志まで低くする必要はない。」
――物語の終わり。




