『一匹狼の湧水(わきみず)』鍾睒睒
浙江省の山間、千島湖の夜明けは、深い藍色から乳白色へと静かに滲むように明けていく。
霧が湖面を這うように広がり、幾重にも重なる山々の輪郭を淡くぼかしていた。
まだ鳥すら鳴き止まぬ午前五時。冷え切った桟橋の先端に、仕立ての良いスーツではなく、くたびれた濃紺の作業着を着た一人の男が立っていた。
手には、赤地に白抜きの文字が入った一本のペットボトル。
男の名は、鍾睒睒。
かつて泥水のような試練を舐め尽くし、ただの「水」を売り広げて中国一の富豪へと登り詰めた男だった。
背後から、革靴が砂利を踏む遠慮がちな足音が近づいてくる。
息を切らしながら歩み寄ってきたのは、香港の投資ファンドから派遣されてきた若きアナリスト、林だった。手元のタブレットには、香港市場の銘柄コード「9633」――農夫山泉の株価チャートと、男の資産額を告げる無機質な数字が並んでいる。
「鍾会長。こんな朝早くから、こんな寒風吹きすさぶ湖畔にいらっしゃるとは……」
林は寒さに首を縮めながら、男の横顔を盗み見た。
鋭い眼光、日焼けした肌、深く刻まれた眉間の皺。数兆円ともいわれる個人資産を動かす『独匹狼(一匹狼)』と渾名される大富豪の姿とは、あまりにかけ離れていた。
「林君と言ったね。……上海からわざわざこんな山奥まで、何をしに来たね」
低く、擦れた声が湖面に吸い込まれていく。鍾睒睒は視線を湖の彼方に据えたまま、手の中のペットボトルのキャップをひねった。キュッ、と小気味よい音が響く。
「会長にお伺いしたいことが山ほどあります。市場は今、会長の資産額が再びアジア首位を窺うと騒ぎ立てています。不動産バブルが弾け、ITの巨人たちが次々と失速する中、なぜあなただけが、たかが一本二元の『ただの水』で、これほどの富を築き、守り続けられるのか。投資家たちはあなたの生き方、その哲学を知りたがっています」
林は一気にまくしたてた。だが、鍾睒睒は口元に微かな笑みを浮かべただけだった。
彼はボトルの水を喉へと流し込み、静かに吐息をついた。
「ただの水、か」
「失礼を承知で申し上げました。しかし、ハイテクでも、莫大な利子を生む金融でもありません。ただの天然水です」
「林君。君は腹が減ったらどうする」
「……食事を摂ります」
「喉が渇いたら?」
「水を飲みます」
「そうだな。どんな富豪も、どんな乞食も、一日何十リットルもの水と数千キロカロリーを消費して生きている。人間が生きるための根源的な欲求、生命の基盤に投資すること以上の手堅いビジネスが、この世にあると思うかね」
鍾睒睒は湖を指差した。
「かつて不動産の連中が何百億もの借金を重ねて摩天楼を建て、ITの寵児たちが架空の数字を弄んで虚飾の城を築いていた頃、私は何をやっていたと思う? 泥だらけになって中国全土の山を歩き回り、水源を探していたのだ。この千島湖も、吉林の白頭山も、新疆の雪山もな。誰もが『純水』という名の、水道水を濾過しただけの工業製品を売り歩いていた時代に、私は笑われながらも水源の利権を買い、自然の湧き水をボトリングする仕組みを作った」
男の瞳の奥に、かつての過酷な歳月の炎が揺らめいた。
「私はかつて大工をやった。新聞記者もやった。海南島に渡ってキノコ栽培もやったが、台風で一夜にして全財産を失ったこともある。金などというものはな、風が吹けば吹き飛ぶ砂粒のようなものだ。だが、この大自然が育む清らかな水だけは、人間が滅びない限り絶対に枯れない価値を持つ」
「しかし会長、世間はあなたを『守銭奴の一匹狼』と呼びます。社交界にも顔を出さず、慈善パーティーで笑顔を振りまくこともない。富豪仲間と群れることもなく、政治的なコネクションとも距離を置いている。なぜそこまで孤独を選ぶのですか」
林の問いに、湖から吹きつける秋風が冷たく応えた。
山々の紅葉が風に揺れ、赤や黄の葉が湖面へと舞い散っていく。
「群れなければ生きられないのは、羊だけだ」
鍾睒睒は冷然と言い放った。その声には、いかなる迷いもなかった。
「金持ちになった途端に、見栄を張り、群れを作り、互いの虚栄心を慰め合う。そんな茶番に使う時間があるなら、工場のラインを一本でも改善し、水源の保全に回した方がよほど実がある。……林君、金とは何だと思う?」
「富……力、自由の象徴でしょうか」
「違うな。金とは、ただの『責任の重さ』であり、自分を試すための『道具』に過ぎんよ」
鍾睒睒は懐から、使い古された黒革の手帳を取り出した。
ページを開くと、そこには各地の生産ラインの稼働率や、研究開発費の数字が細かな文字でびっしりと書き込まれていた。万年筆のインクの染みが、男の執念を物語っている。
「私の資産がどれほど膨らもうと、私の胃袋の大きさは変わらん。一日に食べられる米の量も、眠るベッドの広さも、普通の労働者と何一つ変わらんのだ。豪邸に住み、黄金の時計を巻くことが豊かさだと思うなら、それは貧乏人が夢見る安っぽい成金の妄想だ」
「では、あなたは何のために、その莫大な富を動かしているのですか」
「誇りだ」
鍾睒睒は力強く言った。
「私が売っているのは、農夫山泉の赤いキャップの水だけではない。薬品会社を立ち上げ、自前の技術でワクチンを開発させた。西欧の巨人に頭を下げず、中国人の手で、中国人の命を守る薬を作るためだ。金があるから偉いのではない。その金を使って、どれだけ確かな『実体』を残せるかだ。実体なき虚像を追う者は、いつか必ず自滅する。私が一匹狼でいるのは、誰の顔色もうかがわず、自分の信じる実体だけに全責任を負うためだよ」
その時、遠くの工場から始業を告げる鐘の音が、湖を渡って響いてきた。
太陽が東の山並みを越え、乳白色の霧を金色に染め上げていく。
湖面が、無数の光の粒となって眩く輝き始めた。
鍾睒睒は手元のペットボトルを林に手渡した。
「飲んでみろ」
林は両手でそれを受け取り、ゆっくりと口に含んだ。
舌の上に広がるのは、冷たく、かすかに甘みを含んだ、清らかな山の雫。
何の変哲もない水。だが、喉を通った瞬間、五臓六腑に染み渡るような確かな生命の重みがあった。
「……甘いですね」
「『農夫山泉、ちょっと甘い』――我が社の有名なキャッチコピーだ。だがな、林君。この甘みを知るためには、どれほどの苦汁を舐めなければならなかったか。富とは、泥水を啜り抜いた者だけが知る、ほんのわずかな甘みのようなものだ。それに溺れた奴から、消えていく」
鍾睒睒はそう言うと、背筋を伸ばし、工場の煙突から立ち上る白い蒸気を見つめた。
その背中は、どんな贅沢な毛皮を羽織った貴族よりも巨大で、山のように揺るぎなかった。
「さあ、朝礼の時間だ。君も来るか? 数字の上げ下げで右往左往する東京や香港の連中には見えない、本当の『富の現場』を見せてやる」
「……はい、喜んでご一緒します」
林は深く頭を下げた。
手の中にある、たった一本の水。
それは、世界一気高い孤独を生きる男の、汗と泥と信念が詰まった、重厚な結晶のように思えた。
朝日が昇りきる。
静まり返っていた千島湖が、黄金色の光を浴びて雄大に息づき始めていた。




