張一鳴(ジャン・イーミン)――世界を変えた男が、本当に欲しかったもの
第一章 「お前は、一生そのままでいいのか?」
中国・福建省。
雨が降っていた。
古びた窓ガラスを、細い雨粒が何度も叩く。
若き日の張一鳴は、薄暗い部屋でパソコンの画面を見つめていた。
画面には、複雑なプログラムの文字が並んでいる。
「一鳴、まだ起きているの?」
母親の声がした。
「うん。もう少しだけ」
「毎日パソコンばかり。そんなに面白いの?」
一鳴は画面から目を離さず、静かに答えた。
「面白いよ。だって、これで世界を変えられるかもしれないから」
母親は笑った。
「世界を変える? ずいぶん大きな夢ね」
「大きいかな?」
「普通は、いい会社に入って、安定した給料をもらって、家族を養うことを考えるものよ」
一鳴は、ようやく振り返った。
「母さん」
「なあに?」
「どうして、みんな同じ人生を目指すんだろう?」
母親は答えに困った。
「それが幸せだからじゃない?」
「でも、僕には違う気がする」
窓の外で雷が鳴った。
一鳴は再び画面に向かった。
「僕は、お金持ちになりたいだけじゃない」
「じゃあ、何になりたいの?」
少し考えてから、彼は言った。
「世界中の人が、毎日使うものを作りたい」
その声は小さかった。
だが、その言葉の奥には、まだ誰にも見えない未来があった。
第二章 「失敗したら、どうする?」
北京。
冬の冷たい風が、ビルの隙間を吹き抜けていた。
2012年。
張一鳴は、新しい会社を立ち上げようとしていた。
後にByteDanceと呼ばれる企業である。
狭いオフィス。
安い机。
積み重なった資料。
冷めたコーヒー。
仲間の一人が、険しい表情で言った。
「一鳴、本当にやるのか?」
「何を?」
「ニュースを、人間の編集者じゃなく、コンピューターに選ばせるなんて」
「なぜ駄目なんだ?」
「そんなもの、誰が信用する?」
一鳴はホワイトボードに一本の線を引いた。
「今までのインターネットは、人間が情報を探していた」
「それが?」
「これからは違う。情報のほうが、人間を見つけるんだ」
仲間は首を振った。
「意味が分からない」
「例えば、君がサッカー好きなら、サッカーの記事が届く。料理が好きなら、料理の記事が届く」
「それは便利かもしれないが……」
「人によって、見たい世界は違うんだよ」
一鳴の目が輝いた。
「同じ新聞を、全員が読む必要なんてない」
「でも、失敗したら?」
部屋が静まり返った。
一鳴は笑った。
「失敗したら、なぜ失敗したか分かる」
「それだけか?」
「それだけじゃない。次は、もっと賢くなる」
「怖くないのか?」
一鳴は窓の外を見た。
北京の夜空は、灰色だった。
「怖いよ」
彼は小さく答えた。
「でも、何も挑戦せずに十年過ぎるほうが、僕はもっと怖い」
仲間たちは黙った。
そして一人が、ゆっくりと口を開いた。
「分かった。俺もやる」
一鳴は振り返った。
「本当に?」
「ああ。ただし、成功したら飯をおごれよ」
「いいよ」
「高い店だぞ?」
「会社が成功したら、好きなだけ食べよう」
笑い声が、狭いオフィスに響いた。
まだ誰も知らなかった。
その小さな部屋から、世界的な巨大企業が生まれることを。
第三章 「世界中が、君の会社を見ている」
数年後。
スマートフォンの画面には、短い動画が次々と流れていた。
踊る少女。
笑う少年。
料理をする老人。
歌う若者。
世界中の人々が、TikTokに夢中になっていった。
ある夜。
会議室の巨大なモニターに、利用者数の数字が映し出されていた。
社員が興奮した声を上げた。
「すごい! また記録を更新しました!」
別の社員も叫んだ。
「世界中で使われています!」
拍手が起こった。
だが、一鳴だけは静かだった。
「一鳴さん?」
「うん?」
「うれしくないんですか?」
「うれしいよ」
「だったら、もっと喜んでください!」
彼は微笑んだ。
「数字が増えるのは、結果なんだ」
「結果?」
「大切なのは、その数字の向こうに人間がいることだよ」
彼はモニターを指さした。
「一人ひとりに、人生がある。喜びも、悲しみも、孤独もある」
「……はい」
「僕たちのサービスが、誰かの一日を少し楽しくできたなら、それは素晴らしい」
そして、少し声を低くした。
「でも、同時に責任も大きくなる」
社員は黙ってうなずいた。
一鳴は続けた。
「成功したときこそ、自分たちが間違っていないか疑わなければならない」
窓の向こうには、無数のビルの明かりが輝いていた。
彼は思った。
成功とは、頂上に到達することではない。
頂上に立っても、学び続けることなのだ。
第四章 「そんなに金があって、何を買う?」
ある夜のこと。
物語の中の一鳴は、古い友人と小さなレストランにいた。
湯気の立つ料理が、二人の前に並んでいる。
友人はスマートフォンを見ながら、目を丸くした。
「おい、一鳴!」
「どうした?」
「お前、とんでもない資産家になってるじゃないか!」
一鳴は箸を動かした。
「そうらしいね」
「そうらしいね、じゃないだろ!」
友人は身を乗り出した。
「何十億ドルもの資産があるんだぞ!」
「うん」
「高級車は?」
「必要なら買えるね」
「豪邸は?」
「住む場所は必要だね」
「プライベートジェットは?」
「毎日乗るわけじゃないだろう?」
友人は呆れた。
「お前、本当に金持ちなのか?」
一鳴は笑った。
「金持ちって、何だろうね」
「そりゃあ、何でも買える人間だろ」
「何でも?」
「そうだよ!」
一鳴は少し考えた。
「じゃあ、昨日の時間を買い戻せる?」
友人は黙った。
「失った友情は?」
「……難しいな」
「健康は? 信頼は? 心から夢中になれるものは?」
友人はため息をついた。
「お前と話していると、哲学の授業みたいだ」
「ごめん」
「でも、一つだけ聞かせろ」
「何?」
「そんなに金があって、何が一番うれしい?」
一鳴は窓の外を眺めた。
街角では、若者たちがスマートフォンを囲んで笑っている。
「選べることかな」
「選べる?」
「自分の時間を、何に使うか。誰と過ごすか。何を学ぶか」
彼は静かに続けた。
「お金があれば、選択肢は増える。でも、お金が人生の目的になったら、結局お金に支配される」
友人はしばらく黙っていた。
やがて笑った。
「なるほどな。金を持つことと、金に持たれることは違うわけだ」
「そういうことだね」
二人は顔を見合わせて笑った。
テーブルの上では、温かい料理の湯気がゆっくり消えていった。
第五章 「なぜ、トップの座を手放す?」
2021年。
張一鳴はByteDanceのCEOを退く決断をした。
この物語では、その決断の夜を描く。
静かな執務室。
机の上には、一枚の書類が置かれていた。
側近が尋ねた。
「本当に、退くんですか?」
「うん」
「会社は、まだ成長しています」
「そうだね」
「あなたが必要です」
一鳴は椅子から立ち上がった。
「会社に必要なのは、僕という人間じゃない」
「では、何ですか?」
「僕がいなくても成長できる仕組みだよ」
側近は納得できない様子だった。
「普通、成功した創業者は権力を手放したがりません」
「そうかもしれないね」
「あなたは違うんですか?」
一鳴は窓際へ歩いた。
遠くまで広がる北京の街。
車のライトが、川のように流れていた。
「会社を作ったとき、僕は何も持っていなかった」
「はい」
「でも、自由だった。新しいことを学ぶ時間があった」
彼は振り返った。
「会社が大きくなるほど、会議が増え、判断が増え、守るものが増える」
「それが経営者でしょう?」
「そうだね。でも、僕には別の役割があるかもしれない」
「別の役割?」
「もっと学ぶこと。長い未来を考えること。そして、次の世代に任せること」
側近は小さく息を吐いた。
「もったいないと思いませんか?」
一鳴は首を横に振った。
「椅子を守るために、人生があるわけじゃない」
長い沈黙が流れた。
やがて側近は、深く頭を下げた。
「分かりました」
一鳴は静かに微笑んだ。
「ありがとう」
窓の外では、夜明けの光が少しずつ街を染め始めていた。
最終章 「本当の豊かさとは何か」
物語の最後。
一鳴は、若い起業家から質問を受ける。
「どうすれば、あなたのようなお金持ちになれますか?」
一鳴は少し考えた。
「君は、なぜお金持ちになりたいの?」
「自由になりたいからです!」
「何から?」
「嫌な仕事から。将来の不安から。他人に命令される人生から!」
一鳴はうなずいた。
「じゃあ、お金持ちになった後は?」
青年は口を閉じた。
「……考えたことがありません」
「そうか」
一鳴は微笑んだ。
「だったら、まずそこから考えてみるといい」
「でも、お金がなければ何もできません」
「確かに、お金は大切だよ」
彼は続けた。
「だけど、価値を生み出すことを忘れてはいけない」
「価値?」
「誰かの困りごとを解決する。誰かの時間を節約する。誰かの人生を楽しくする」
青年は真剣に聞いていた。
「多くの人に役立つものを作れれば、大きな事業になる可能性がある。でも、必ず成功するわけじゃない」
「それでも挑戦するんですか?」
「君が本当に解決したい問題ならね」
「最後に、もう一つ聞いていいですか?」
「もちろん」
「あなたにとって、本当の豊かさとは何ですか?」
一鳴は空を見上げた。
夕焼けが、街を黄金色に染めていた。
「朝、目が覚めたときにね」
「はい」
「今日も新しいことを学べる。今日も面白いことに挑戦できる。そう思えることかな」
青年は何度も、その言葉を繰り返した。
「新しいことを学べる……面白いことに挑戦できる……」
「そして、もう一つ」
「何ですか?」
「自分の成功だけでなく、周りの人の幸せも考えられること」
風が吹いた。
青年は深く頭を下げた。
「ありがとうございました。僕、明日から頑張ります!」
一鳴は笑った。
「明日から?」
青年は驚いて顔を上げた。
「え?」
「今日からでも、始められるよ」
青年は一瞬きょとんとした。
そして、声を上げて笑った。
「そうですね!」
夕陽が沈んでいく。
新しい夜が訪れる。
そして、世界のどこかでは、また一人の若者がパソコンを開き、まだ存在しない未来を作ろうとしている。
富とは、ただお金を積み上げることではない。
学び続ける自由、挑戦する勇気、そして誰かの役に立つ喜びを持つこと。
それが、この物語で張一鳴という人物を通して描きたかった、豊かな人生の姿だった。




