『アルゴリズムの静寂、あるいは北京の夜風』
北京の北西、中関村(Zhongguancun)の夜は、眠ることを知らない。
秋の冷え切った空気を切り裂くように、そびえ立つ高層ガラス張りのオフィスビル群が青白い光を放ち、眼下にはテールランプの赤い河が果てしなく伸びていた。
そのビルの一角。ByteDance(字節跳動)本社、誰もいなくなったフロアのガラス窓の前に、張一鳴は立っていた。
無地のグレーのパーカーに、履き古したジーンズ。首には社員証のストラップがぶら下がっている。世界で最も利用されるアプリ――TikTokと抖音(Douyin)を生み出し、数百億ドルもの資産を持つと謳われる男の風貌は、深夜のコード修正に追われる新人のプログラマーと何ひとつ変わらなかった。
彼の手元には、白い陶器のマグカップ。中身は高級なワインでもプーアル茶でもなく、ただの白湯だった。
「一鳴、まだここにいたのか」
背後からスリッパを引きずるような足音が響いた。創業初期からの盟友であり、ハードウェア部門と技術統括を担う梁が、くしゃくしゃになった紙コップを手に歩み寄ってきた。
「見ろよ、このダッシュボード」
梁は手元のタブレットを向け、赤い歓喜の色を宿した目で言った。画面には、世界地図の上に無数の光が爆発するように明滅し、リアルタイムのDAU(日間アクティブユーザー数)が天文学的な数字を刻み続けていた。
「北米のトラフィックがまた過去最高を更新した。東南アジアも欧州も完全に制圧したぞ。……おい、一鳴。Forbesがまた新しい長者番付の試算を出したらしい。お前の個人資産、今や中国のトップ3、いや、上場すれば世界でも五指に入るってさ。実感はあるか?」
一鳴は静かに視線を向けた。その瞳は、深海の水面のように波立たず、澄んでいた。
彼はマグカップの縁に唇をつけ、温かい白湯を一口啜った。
「実感?……ないよ。梁、数字はただのスコアボードだ」
「スコアボード? 何兆円もの金が『ただの数字』かよ。普通の人間なら、外灘に超高級マンションを買って、プライベートジェットでモナコへ飛んで、シャンパンの泡に溺れるところだぞ」
「だから、それは『他人の欲望』を消費しているだけだ」
一鳴の声は低く、平熱を保っていた。
「お金持ちの生き方には、二種類ある。ひとつは、金を使って自分の虚栄心や承認欲求を満たす生き方。もうひとつは、金を『世界をより効率的に動かすための計算資源』と見なす生き方だ。僕は後者でいたい。シャンパンの味を覚えることより、レコメンデーション・エンジンの精度を〇・〇一パーセント改善する方が、僕にとってはるかに刺激的だよ」
梁は呆れたように肩をすくめ、窓辺のヘリに腰掛けた。
「お前は昔からそうだ。大学の寮で、中古の粗末なサーバーを前にしていた頃と何も変わらない。感情の起伏というものが欠落してるんじゃないかと疑いたくなるよ」
「感情がないわけじゃない」
一鳴は窓の外を見つめ直した。
ガラスに映る街の光。何千万人もの若者が、今この瞬間も、地下鉄の中で、ベッドの中で、トイレの中で、指先ひとつで画面を縦にスワイプしている。十五秒のダンス、笑い、料理、涙、猫の鳴き声。人間の欲望と退屈のすべてを、彼らが組んだアルゴリズムが学習し、先回りし、最適化して配給し続けている。
「ただね、僕は『感情のノイズ』を極限まで減らしたいんだ」
一鳴の指先が、窓ガラスの冷たい表面に触れた。
「人は怒り、焦り、見栄、恐怖によって判断を誤る。『同級生があんな車を買ったから自分も欲しい』『ライバル企業が派手な買収をしたから対抗したい』……世の中の失敗のほとんどは、そうした自我の暴走から生まれる。延迟满足(ディレイド・グラティフィケーション――即時的な快楽の遅延)。これこそが、僕の思考のすべての基礎だ」
「即座に満足しないこと、か」
「そう。目先の快楽や小さな成功に飛びつかない。短期的な利益や虚栄心のためにリソースを使わず、十年後、二十年後の構造的な本質にだけ、すべての資本と時間を注ぎ込む。……梁、多くの人はお金持ちになりたいと言うけれど、彼らが本当に求めているのは『お金』じゃないんだ。『散財する快楽』を求めているんだよ。だが、真の富とは、散財することではなく、選択の自由を持ち続けることだ」
秋風が建物の外壁を叩き、かすかな振動が足元を伝った。
梁は手元のタブレットの画面を消し、真剣な眼差しで一鳴を見た。
「だが一鳴、外の世界はお前のその『合理的な静寂』を許してくれないぞ。ワシントンからの圧力、欧州の規制、国内の独占禁止の調査……世界中がお前の作ったこの怪物を解体しようと牙を剥いている。アメリカの公聴会で、周受資(Shou Zi Chew)が矢面に立たされた時、お前は何を思った? 怒りや悔しさは湧かなかったのか?」
一鳴の眉が、わずかにピクリと動いた。
その瞬間だけ、彼の瞳の奥に、凍てつくような鋭い火花が散った。
「悔しくないはずがないだろう」
その声には、先ほどまでの穏やかさとは違う、鋼のような重みがあった。
「僕たちはただ、情報の流動性を最大化し、誰もが自己表現できる舞台を作ろうとしただけだ。国境も、言語も、文化の壁も、アルゴリズムの力でフラットに繋ぎ合わせられると信じていた。……だが、世界の現実は違った。世界は僕たちが思っていたよりもずっと分断され、イデオロギーとナショナリズムという巨大な非合理に支配されていた」
一鳴はマグカップを机に置いた。
コトン、と小さな乾いた音が、広いフロアに響いた。
「けれどね、梁。そこで怒りに任せて相手を罵倒したり、ナショナリズムの波に乗って被害者ぶったりすれば、それは企業の死を意味する。チェスの盤上で相手が理不尽な手を打ってきた時、盤をひっくり返して怒鳴るプレイヤーは二流だ。一流の人間は、どんなに不利な局面でも、ルールが歪められた盤面を見つめ、次の一手として最も損失の少ない、最も勝率の高い手を淡々と計算するんだ」
「それが……お前がCEOの座を退いた理由か?」
梁の問いに、部屋の空気が張り詰めた。
世界中が驚愕した、張一鳴の突然の退任。絶頂期にあった男が、なぜ権力の座を手放したのか。
一鳴はふっと息を抜き、口元に微かな笑みを浮かべた。
それは、重荷を降ろした安堵の笑みでも、敗北の諦念でもなかった。数学の難問を解く糸口を見出した時のような、知的な輝きを帯びた笑みだった。
「僕がCEOの椅子に座り続けている限り、僕という個人の存在が、巨大すぎる『攻撃の的』になる。それに、日々の細かな経営判断、人事、会議、政治的な綱引き……そうした日常業務に忙殺されていると、本当に重要な『未来の構造』が見えなくなるんだ」
一鳴は歩き出し、本棚の前に立った。
そこにはプログラミングの専門書だけでなく、脳科学、生物学、歴史、哲学の書物が整然と並んでいた。
「お金持ちになるだけなら、ビジネスを拡大し続ければいい。でも、僕の命の時間は限られている。僕の人生の目的は、会社の規模を誇ることでも、資産額のランキングを競うことでもない。『人間とは何か、知能とは何か、世界はどう動いているのか』を、もっと深く理解することだ」
一鳴は一冊のノートを手に取った。
そこには、手書きでびっしりと数式や思考の断片が記されていた。
「これからの十年間で、AIは人間の知性を完全に超える。教育、医療、生命科学、言語の壁……すべての領域で、これまでの人類の常識が塗り替えられる。僕はその最前線で、ただの経営者ではなく、一人の思索者として、次の変革の種を蒔きたいんだ。資本があるからこそ、失敗を恐れずに基礎科学に投資できる。目先の四半期決算に左右されず、二十年先のブレークスルーに賭けることができる。それこそが、富を持つ者が果たすべき最も知的な冒険じゃないか?」
梁は黙って一鳴を見つめ、やがて深く息を吐き出した。
「……やっぱり、お前には敵わないな。みんながお前の富や権力を見て羨ましがっている間に、お前はもう次の百年の地図を描いてるんだからな」
「地図なんて大層なものじゃないよ」
一鳴はノートを閉じ、パーカーのポケットに両手を突っ込んだ。
「ただ、風が吹く方向を見ているだけだ」
「帰るのか?」
「ああ。今日はもう十分考えた。散歩でもしながら、少し頭を冷やすよ」
二人は並んでエレベーターホールへ向かった。
深夜の社屋を出ると、北京特有の乾いた冷たい秋風が、二人の頬を強く叩いた。街路樹のプラタナスの枯れ葉が、カサカサとアスファルトの上を舞っていく。
「一鳴、車を呼ぶか?」
梁がスマートフォンを取り出そうとした。
「いいよ、歩く」
一鳴は首を振り、夜の闇へと足を踏み出した。
「歩く? ここからお前の家まで、小一時間はかかるぞ」
「考え事をするには、ちょうどいい距離だ」
一鳴は振り返り、軽く右手を挙げた。
「じゃあな、梁。明日も良いコードを」
その背中は、何億人もの生活を塗り替えた巨万の富豪というよりも、ただ夜の散歩を楽しむ学生のように軽やかだった。
きらびやかな摩天楼の影を縫うように、質素なパーカーを着た男が歩いていく。
高級車列のクラクションも、富への執着も、権力の重圧も、彼を縛ることはできない。
真の豊かさとは、贅沢を極めることではなく、何ものにも囚われぬ澄んだ思考を保ち、自らの意志で静かに未来を選び取ること――。
街灯が落とす長い影を連れながら、張一鳴の足取りは、冷たい夜風の中をどこまでも淀みなく、確かなリズムで続いていた。




