『十七兆円の四パーセント』ブルームバーグ
『十七兆円の四パーセント』
「十七兆二千億円、だってさ」
日曜の午後、陽の差し込む喫茶店の窓際で、達也がスマートフォンの画面を指先で弾きながら言った。
「米ブルームバーグの試算らしいよ。世界屈指の大富豪が持っている個人の総資産。国家予算みたいな額だな。しかも、そのうち毎年四パーセントを慈善事業に回すだけで、何千億って金が動く計算になる」
達也はアイスコーヒーの氷をカラカラと鳴らし、どこか自嘲気味に笑った。
「想像もつかないよな。俺たちの人生なんて、毎月二十数万の給料から家賃と光熱費を引いて、残った数万円をどうやりくりするかで必死なのに。十七兆円もあれば、一生遊んで暮らせるどころか、世界中のどんな贅沢だって思いのままだろうにさ」
向かいの席で、静かに文庫本を閉じた老紳士――達也の伯父である修一が、穏やかな目元を細めた。
修一は若い頃から小さな町工場を営み、決して派手な暮らしはしなかったが、従業員や取引先から深く慕われ、引退した今もゆったりと満ち足りた日々を送っている人だった。
「達也、お前はその大富豪が、毎日キャビアを山盛りに食べて、金の車を乗り回して暮らしていると思うかい?」
「え? まあ……そりゃ、それだけ金があれば何でも買うでしょう」
「案外、そうでもないらしいよ」
修一は白い陶器のカップを口元へ運び、ゆっくりと珈琲の香りを吸い込んだ。
「本当の富豪ほど、身につけるものは質素で、普段の食事もいたって健康的で簡素なものが多い。贅沢をしないんじゃない。『見栄』に使う金が、自分の人生にとって一番無駄だと骨の髄まで知っているからだ」
「見栄、ですか」
「そうさ。他人に『すごい』と思われたくて買う車、誰かに自慢したくて建てる大きな家。そうやって人を押しのけて手に入れた快楽は、手に入れた瞬間から色褪せて、すぐに次の刺激が欲しくなる。満たされることのない乾きだ」
修一は窓の外の通りを見つめた。買い物袋を提げた親子連れが、楽しそうに笑いながら歩いていく。
「十七兆円という数字の凄さはな、どれだけ贅沢ができるかではなくて、『どれだけ多くの人に価値を届けられるか』という器の大きさを表しているんだ。彼らは自分の財布を肥やすことよりも、社会をどう動かし、未来の誰かをどう助けるかという使命に生きている。だからこそ、毎年その四パーセント――莫大な富の果実を、当たり前のように教育や医療、見知らぬ人々の未来のために手放すことができる」
「手放すこと、ですか」
「持っていることに執着しないんだよ。今日の小さな満足や見栄に焦らず、もっと長い時間をかけて、世界に確かな信頼を残そうとする。富というのは、財布の中に溜め込むものじゃない。人への感謝と信頼が形を変えて巡っている、ただの流れに過ぎないんだ」
達也は自分の手元を見た。
今月の使い道、ボーナスで買おうとしていたブランドの時計、同僚に自慢したかった最新の道具。頭の中にあったあれこれが、修一の言葉の前に少しずつ静まっていく。
「達也、本当の豊かさっていうのはな」
修一が温かい声で言った。
「高い車を持つことでも、口座の桁を自慢することでもない。好きな人と笑い合い、安心できる場所で泥のように眠り、自分が誇りを持てる仕事に誠実に汗を流すことだ。そして――『あれが足りない、これが欲しい』と人を羨む代わりに、『もう十分ありがたい』と笑って言える心を持つことさ」
「……もう十分、ありがたい」
「そう。その心を持った人間はな、口座に百万円しかなくても、あるいは手元にわずかな小銭しか残っていなくても、すでにその瞬間に、十七兆円の大富豪と同じくらい豊かなんだよ」
修一は伝票を手に取り、立ち上がった。
「さあ、行こうか。今日は天気がいい。お前さえよければ、あの公園の銀杏並木を少し歩かないかい?」
「……はい、ぜひ」
達也はスマートフォンの画面を伏せた。
遠い海の向こうの巨大な数字は、もうどこか遠い世界の蜃気楼のように思えた。
日差しの中で笑う伯父の背中を追いながら、達也は自分の足元を確かめるように、秋の柔らかな風の中へ一歩を踏み出した。




