↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/56

『十七兆円の四パーセント』ブルームバーグ

『十七兆円の四パーセント』


「十七兆二千億円、だってさ」


日曜の午後、陽の差し込む喫茶店の窓際で、達也がスマートフォンの画面を指先で弾きながら言った。


「米ブルームバーグの試算らしいよ。世界屈指の大富豪が持っている個人の総資産。国家予算みたいな額だな。しかも、そのうち毎年四パーセントを慈善事業に回すだけで、何千億って金が動く計算になる」


達也はアイスコーヒーの氷をカラカラと鳴らし、どこか自嘲気味に笑った。


「想像もつかないよな。俺たちの人生なんて、毎月二十数万の給料から家賃と光熱費を引いて、残った数万円をどうやりくりするかで必死なのに。十七兆円もあれば、一生遊んで暮らせるどころか、世界中のどんな贅沢だって思いのままだろうにさ」


向かいの席で、静かに文庫本を閉じた老紳士――達也の伯父である修一が、穏やかな目元を細めた。

修一は若い頃から小さな町工場を営み、決して派手な暮らしはしなかったが、従業員や取引先から深く慕われ、引退した今もゆったりと満ち足りた日々を送っている人だった。


「達也、お前はその大富豪が、毎日キャビアを山盛りに食べて、金の車を乗り回して暮らしていると思うかい?」


「え? まあ……そりゃ、それだけ金があれば何でも買うでしょう」


「案外、そうでもないらしいよ」

修一は白い陶器のカップを口元へ運び、ゆっくりと珈琲の香りを吸い込んだ。


「本当の富豪ほど、身につけるものは質素で、普段の食事もいたって健康的で簡素なものが多い。贅沢をしないんじゃない。『見栄』に使う金が、自分の人生にとって一番無駄だと骨の髄まで知っているからだ」


「見栄、ですか」


「そうさ。他人に『すごい』と思われたくて買う車、誰かに自慢したくて建てる大きな家。そうやって人を押しのけて手に入れた快楽は、手に入れた瞬間から色褪せて、すぐに次の刺激が欲しくなる。満たされることのない乾きだ」


修一は窓の外の通りを見つめた。買い物袋を提げた親子連れが、楽しそうに笑いながら歩いていく。


「十七兆円という数字の凄さはな、どれだけ贅沢ができるかではなくて、『どれだけ多くの人に価値を届けられるか』という器の大きさを表しているんだ。彼らは自分の財布を肥やすことよりも、社会をどう動かし、未来の誰かをどう助けるかという使命に生きている。だからこそ、毎年その四パーセント――莫大な富の果実を、当たり前のように教育や医療、見知らぬ人々の未来のために手放すことができる」


「手放すこと、ですか」


「持っていることに執着しないんだよ。今日の小さな満足や見栄に焦らず、もっと長い時間をかけて、世界に確かな信頼を残そうとする。富というのは、財布の中に溜め込むものじゃない。人への感謝と信頼が形を変えて巡っている、ただの流れに過ぎないんだ」


達也は自分の手元を見た。

今月の使い道、ボーナスで買おうとしていたブランドの時計、同僚に自慢したかった最新の道具。頭の中にあったあれこれが、修一の言葉の前に少しずつ静まっていく。


「達也、本当の豊かさっていうのはな」

修一が温かい声で言った。

「高い車を持つことでも、口座の桁を自慢することでもない。好きな人と笑い合い、安心できる場所で泥のように眠り、自分が誇りを持てる仕事に誠実に汗を流すことだ。そして――『あれが足りない、これが欲しい』と人を羨む代わりに、『もう十分ありがたい』と笑って言える心を持つことさ」


「……もう十分、ありがたい」


「そう。その心を持った人間はな、口座に百万円しかなくても、あるいは手元にわずかな小銭しか残っていなくても、すでにその瞬間に、十七兆円の大富豪と同じくらい豊かなんだよ」


修一は伝票を手に取り、立ち上がった。

「さあ、行こうか。今日は天気がいい。お前さえよければ、あの公園の銀杏並木を少し歩かないかい?」


「……はい、ぜひ」


達也はスマートフォンの画面を伏せた。

遠い海の向こうの巨大な数字は、もうどこか遠い世界の蜃気楼のように思えた。


日差しの中で笑う伯父の背中を追いながら、達也は自分の足元を確かめるように、秋の柔らかな風の中へ一歩を踏み出した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。