メキシコの電話王――カルロス・スリム、十九兆八千億円の帳簿
メキシコの電話王――カルロス・スリム、十九兆八千億円の帳簿
一九八二年二月、メキシコシティの朝は乾いていた。カルロス・スリムは灰色の背広に濃紺のネクタイを締め、食卓に置かれた黒豆と卵をゆっくり口へ運んでいた。窓辺の鉢では赤いゼラニウムが揺れ、台所から焼いたトルティーヤの匂いが流れてくる。新聞には通貨ペソの下落と、国外へ資金を移す企業家の記事が並んでいたが、彼はコーヒーカップの縁を親指でなぞりながら、値下がりした会社の一覧を帳面へ書き写した。
「みんな、メキシコは終わりだと言っています」
向かいに座った社員が、冷めかけた卵をフォークで割った。黄身が白い皿へ流れ出しても、彼は口へ運ぼうとしなかった。カルロスは新聞を四つ折りにし、使い込んだ革の鞄へ入れた。
「国が消えるわけではない。人は明日も食べ、働き、電話を使う」
「ですが、株価は下がり続けています」
「値札と価値は同じではないよ。雨の日に傘を捨てる人が多ければ、私は拾って修理する」
その日、彼が訪れた事務所には、煙草の煙と古い紙の匂いがこもっていた。机の端には砂糖をまぶした菓子パンが一つ残り、扇風機が帳簿のページを勝手にめくっている。カルロスは値下がりした企業の資料を並べ、工場、店舗、土地、借入金を一つずつ確かめた。世間が騒いでいるときほど数字を静かに見る必要があると考え、鉛筆を握り直した。
「この会社を買います」
「赤字ですよ。倉庫には売れ残った商品まで積まれています」
「倉庫がある。販売網もある。働き方を直せば、商品は動く」
「失敗したらどうしますか」
「そのときは、何を見落としたかを帳面に残す。損を隠す人間は、同じ穴へ二度落ちるからね」
カルロスは景気の悪い時期にも、安くなった企業の株を買い続けた。ただ買って待つのではなく、会社へ足を運び、余分な経費を削り、現場の責任者と話した。昼食には屋台のタコスを選び、赤いサルサをかけすぎて水を二杯飲むこともあった。莫大な資金を動かす日にも、胸ポケットには父から教わった収支帳の書き方を記した小さな紙が入っていた。
「会長、もう少し立派な店で食事をなさってはどうですか」
「この店のタコスは温かい。立派な皿に載せても、冷めていたらうまくないよ」
「そういう意味ではありません」
「分かっている。だが、お金は椅子の革を厚くするためではなく、次の仕事を作るために使いたい」
一九九〇年、メキシコ政府は国営電話会社テルメックスを民営化することにした。当時の電話は、申し込んでも開通まで何年も待たされることがあり、地方には電話線さえ届いていない町が残っていた。テルメックスの建物では、古い交換機が熱を持ち、油と埃の混じった匂いを放っていた。視察に訪れたカルロスは、薄茶色の作業服を着た技師が昼食の豆スープを急いですする姿を見ながら、壁いっぱいに張られた通信網の地図へ近づいた。
「この赤い印は何ですか」
「電話を引けていない地域です。山間部は工事費が高すぎます」
技師はパンで皿の底をぬぐい、指についた油を布で拭いた。地図には赤い印が、乾いた大地に咲くポインセチアのように広がっていた。カルロスは一本の線を指先でたどり、電話を待っている家庭や商店の数を尋ねた。
「何十万世帯になるか、正確には分かりません」
「ならば、まず数えるところから始めよう。電話を欲しがる人がいるなら、そこには市場がある」
「利益が出るまで何年かかるでしょう」
「何年かかるかではない。十年後も必要とされるかを考えるんだ」
カルロス率いる企業グループは、外国企業と手を組んでテルメックスの買収に参加した。入札を控えた夜、会議室の机には鉛筆の削りかす、飲み残したコーヒー、固くなったチーズ入りパンが散らばっていた。社員たちは数字を何度も計算し直し、窓の外では季節外れの雨がガラスを細かくたたいていた。カルロスは袖口をまくり、巨大な電話会社を立て直すための投資額を読み上げた。
「交換機をデジタル化し、光ファイバーを敷き、地方の回線を増やす」
「買収だけでも大金です。そのうえ設備投資まで続ければ、資金がもちません」
「電話機を売る会社を買うのではない。人と人が話せる時間を作る会社を買うんだ」
「競争相手も黙ってはいません」
「それでいい。競争相手がいるから、こちらも歩みを止めずに済む」
買収後、テルメックスの工事は各地で進められた。作業員たちは強い日差しの下でケーブルを運び、山間の町では乾いた土が靴の中まで入り込んだ。カルロスも現場へ出向き、白いシャツの襟を汗で濡らしながら、開通を待つ住民の話を聞いた。広場では紫色のジャカランダが咲き、屋台から焼きトウモロコシとライムの匂いが漂っていた。
「電話があれば、町を出た娘と話せます」
年配の女性は、花柄のエプロンで手を拭いてから、新しく設置された電話機に触れた。受話器を持つ指には、小麦粉が白く残っていた。カルロスは技師へ視線を向け、開通予定日を確かめた。
「来週には使えます」
「来週ではなく、何曜日ですか」
「水曜日です」
「では、水曜日に娘さんへ電話できます」
女性は戸棚から包みを出し、カルロスたちへシナモンの香る菓子を渡した。
「お金持ちには安いお菓子でしょうけれど、持っていってください」
「安いものではありません。私たちはまだ、あなたに電話を届けていないのですから」
固定電話の次に、携帯電話の時代がやってきた。カルロスはアメリカ・モビルを育て、通信事業をメキシコから中南米へ広げていった。市場で大きな割合を占めるようになると、テルセルの名は都市にも農村にも浸透し、一時は国内携帯市場の半分を大きく超える利用者を抱えた。事業が強くなるほど批判も増え、会議室には「支配的だ」「料金が高い」と書かれた新聞が積まれた。
「市場の五十二パーセントを握っていると報じられています」
若い幹部が新聞を机へ置いた。昼食の鶏肉料理は冷え、表面の脂が白く固まっていた。カルロスは記事を読み終えると、窓辺に置かれた黄色いマリーゴールドの枯れた花を一本摘んだ。
「数字が大きければ、責任も大きくなる」
「反論を出しますか」
「必要な誤りは訂正する。しかし、利用者の不満まで記事のせいにはできない」
「では、何をなさいますか」
「回線がつながらない町を調べる。会議室で評判を守るより、外で電話をつなぐほうが先だ」
やがて、カルロス・スリムの資産は十九兆八千億円規模と数えられるほど膨らんだ。世界有数の富豪と呼ばれても、彼は長年使ってきた家で暮らし、豪華な服を次々と買うことには関心を示さなかった。朝食には果物とパンを食べ、紙の帳面を開く習慣を残した。庭では白いブーゲンビリアが塀を覆い、孫たちの靴についた土が廊下へ点々と落ちていた。
「おじいちゃんには、十九兆円もあるの?」
孫が蜂蜜を塗ったパンを持ったまま尋ねた。テーブルには食べこぼしが散り、カルロスの新聞にも小さな指の跡がついた。彼は汚れた紙を捨てず、端を折ってから孫へ見せた。
「ここに書かれているのは、私の財布に入っている現金ではないよ。会社や株の値段を全部足した数字だ」
「じゃあ、十九兆円で何を買うの?」
「会社を動かし、仕事を作り、病院や学校を支える」
「大きなおもちゃは買わないの?」
「君たちが遊びに来れば、家の中には十分すぎるほどおもちゃが増える」
午後、カルロスは美術館建設の資料と、医療や教育を支援する財団の報告書を読んだ。机の引き出しには、父から小遣いの記録を命じられた少年時代の帳面が保管されていた。そこには鉛筆で、菓子や飲み物に使った金額まで細かく記されている。十九兆八千億円という数字の始まりが、わずかな硬貨を数えたこの帳面にあると考え、彼は古びた表紙を静かに撫でた。
「会長、明日の予定です。銀行との会談が午前九時、通信部門の報告が十一時、午後は財団の病院をご視察いただきます」
秘書が新しい予定表を差し出した。カルロスは受け取る前に、古い帳面を引き出しへ戻した。窓の外から車の警笛が聞こえ、階下では夕食用のトルティーヤを焼く香ばしい匂いが広がっていた。
「病院を最初にしよう」
「銀行との会談を変更するのですか」
「銀行は待てる。治療を待っている人は、待たせてはいけない」
翌朝、カルロスはいつもの灰色の背広を着て、病院へ向かった。玄関脇の花壇にはオレンジ色のマリーゴールドが咲き、清掃員が水をまいたばかりの石畳から湿った土の匂いが立っていた。待合室には携帯電話を握る母親がおり、遠方の家族へ子どもの診察結果を伝えていた。カルロスはその声を聞きながら、若い日に眺めた通信網の赤い印を思い出した。
「先生は大丈夫だと言ってくれました。今夜には帰れるそうです」
母親の声が、小さな電話機を通って遠くの町へ届いていく。カルロスは足を止めたが、自分が誰であるかは告げなかった。十九兆八千億円という数字より、受話器の向こうから漏れた安堵の声のほうが、彼にははっきり聞こえていた。
「次の視察場所へ参りましょうか」
秘書が腕時計を確認した。カルロスは母親と子どもが病院を出ていくまで待ち、それから歩き出した。
「行こう。まだ電話の届いていない場所がある」




