声の大きな億万長者と、声の小さな青年
声の大きな億万長者と、声の小さな青年
スティーブ・バルマーは、鏡の前で青いネクタイを締め直し、白いシャツの襟へ指を入れて左右へ動かした。窓の外ではシアトルの細い雨が庭の芝生をぬらし、寝室の椅子には昨日脱いだ灰色のスウェットパンツが裏返しのまま掛かっている。台所へ下りると、妻のコニーが焼いたベーグルの香りと、濃いコーヒーの苦い匂いが漂っていた。彼はクリームチーズを厚く塗り、机に置いた資料を読みながら大きな口でかじった。
「スティーブ、今日は何人の鼓膜を破る予定なの?」
「鼓膜を破ったことなどないよ」
「あなたがマイクを持つと、食器棚のグラスが震えるわ」
コニーは紺色の部屋着の袖をまくり、流し台に残っていた昨夜のスープ皿を洗い始めた。スティーブは笑いながらコーヒーを飲んだが、熱すぎて舌を押さえ、慌てて冷蔵庫から牛乳を出した。かつてマイクロソフトの最高経営責任者として何万人もの社員を率いたころ、彼は舞台を走り回り、汗だくになって会社への情熱を叫んだ。声を出せば人の心は動くと信じており、黙っている時間は、電源の切れたコンピューターと同じだと思っていた。
「今日は学生向けの講演だったわね」
「ああ。失敗から何を学んだか話す」
「あなたが失敗を話すの?」
「私は失敗の専門家でもある。成功した金持ちは、そこを忘れると嫌な老人になるからね」
講演会場には、大学生や若い起業家が三百人ほど集まっていた。スティーブは濃紺のスーツに赤いネクタイを締め、舞台袖で紙コップの水を一気に飲んだが、勢いが強すぎて胸元へ数滴こぼした。スタッフの若い女性がティッシュを差し出すと、彼はネクタイを押さえながら、昼食に用意された七面鳥のサンドイッチが少し乾いていたという本筋に関係のない話を始めた。女性は時計を見たあと、それでも口元を緩めた。
「バルマーさん、開始まであと一分です」
「一分あれば、サンドイッチの改善案を三つ話せる」
「講演の中では話さないでくださいね」
「それは約束できないな」
舞台へ出たスティーブは両手を高く上げ、客席の隅まで届く声で挨拶した。天井の照明が額を照らし、数分もたたないうちに白いシャツの背中へ汗がにじんだ。彼はマイクロソフトに入社したころの話、ビル・ゲイツと何度も意見をぶつけた話、経営者として判断を誤った話を、椅子へ座ることなく語り続けた。客席の学生たちは笑ったり、ノートへ書き込んだり、携帯電話で彼の姿を撮影したりしていた。
「会社を動かすものは何だと思う?」
「お金!」
前列の学生が答えると、スティーブは腹を抱えて笑った。
「大切だ。お金がなければ、給料も家賃も、会議室に置くまずいクッキーも買えない。だが、それだけでは人は走らない!」
彼の声が大きくなるたび、舞台脇に置かれた紙コップの水面がわずかに揺れた。スティーブは拳を握り、情熱、粘り強さ、仲間への信頼という言葉を次々に並べた。やがて質問の時間になり、会場のあちこちから手が上がったが、最後列に座る黒いパーカー姿の青年だけは、手を胸の高さまで上げては下ろしていた。スティーブはその動きを見つけ、照明のまぶしさに目を細めた。
「そこの君、質問があるのかい?」
青年は立ち上がったものの、手にしたマイクを口元へ近づけても声がほとんど聞こえなかった。会場の後ろでは空調設備が低く唸り、誰かが落としたペンの音さえ大きく響いた。スティーブは反射的に「もっと大きな声で」と言いかけたが、青年の指がパーカーのひもを何度も巻きつけているのを見て、口を閉じた。彼は舞台から下り、客席の間を歩いて青年のそばまで行った。
「ここで聞かせてくれるかい?」
「人前で話すのが苦手なんです」
「私にも苦手なことは山ほどあるよ。小声で話すことも、その一つだ」
周囲から笑いが起きると、青年はパーカーのひもから指を離した。彼の名はイーサンといい、大学を休学しながら一人で教育用ソフトを作っていたが、投資家へ説明するたびに途中で言葉が出なくなるという。机に向かっているときは何時間でも作業できるのに、人の前へ出ると、自分の作ったものまで役に立たないように思えてくるらしい。スティーブは腕を組み、すぐに励ましの言葉を返そうとしたが、イーサンがまだ話し終えていないことに気づいた。
「父からも、そんな声では誰にも届かないと言われました」
「それで、声を大きくしたいのか?」
「分かりません。大きな声を出せる人になりたいのではなく、作ったものを必要な人に届けたいんです」
スティーブは返事をせず、イーサンの隣にある空席へ腰を下ろした。舞台の上では彼のために用意された革張りの椅子が照明を浴びており、客席では三百人が次の言葉を待っている。けれど、声の大きさと伝える力は同じものだと決めつけていた自分の考えが、少し乱暴だったのではないかと思った。彼は膝の上で太い指を組み、イーサンの顔をのぞき込んだ。
「君のソフトは、誰のために作った?」
「読み書きが苦手な子どもたちです。文章を音声と絵に変えて、授業についていきやすくします」
「どうして、それを作ろうと思った?」
「妹が文字を読むのに苦労していたからです。宿題をしているうちに、消しゴムのかすで机が真っ白になっていました」
その話を聞いたスティーブの頭には、立派な事業計画書よりも、消しゴムのかすが積もった子どもの机が鮮明に浮かんだ。講演の前に食べた乾いたサンドイッチ、胸元へこぼした水、朝の椅子に掛けたままのスウェットパンツまで思い出し、人間の暮らしは数字だけでは説明できないのだと改めて考えた。彼はイーサンからマイクを借りると、いつもの半分ほどの声で客席へ語りかけた。
「みんな、今の話は聞こえたか?」
「聞こえました!」
「彼は叫ばなかった。それでも、私は今日いちばん大切な話を聞いた」
講演終了後、スティーブは控室でイーサンのソフトを見せてもらった。テーブルには食べかけのチョコレートクッキー、ぬるくなったコーヒー、使用済みの紙ナプキンが散らばり、ソファの背には誰かのベージュ色のコートが置き忘れられていた。イーサンの古いノートパソコンは起動すると低い音を立て、画面の右下にはひびが入っていた。それでもソフトが文章を読み上げ、内容に合った絵を表示すると、スティーブは眼鏡を外して画面へ顔を近づけた。
「これは君一人で作ったのか?」
「はい。でも、まだ不具合が多くて」
「不具合のないソフトなど見たことがない。もし見つけたら、博物館へ寄贈したほうがいい」
「投資してくれるんですか?」
イーサンが身を乗り出すと、スティーブはクッキーへ伸ばしかけた手を止めた。金を出すと言えば簡単だが、それだけでは朝に語った「嫌な金持ち」に一歩近づく気がした。彼はまず利用者となる学校で試験運用し、教師や子どもの意見を聞き、それから必要な資金を一緒に計算しようと提案した。イーサンは唇を結び、画面の傷を親指でなぞった。
「すぐに小切手をくれると思いました」
「私も昔なら、すぐに答えを出しただろう」
「今は違うんですか?」
「今日は、話すより先に聞く練習をしている」
数か月後、イーサンのソフトは三つの学校で使われるようになった。スティーブが教室を訪ねると、黄色いトレーナーを着た少女が、給食のトマトソースを袖につけたまま画面に向かっていた。教室には鉛筆の木の匂いと給食後の牛乳の匂いが残り、窓際には乾ききっていない図工作品が洗濯物のように並べて吊るされていた。少女はソフトが読み上げた物語を最後まで聞くと、隣に座るイーサンへ小さな声で話しかけた。
「今度は一人で読んでみる」
「急がなくていいよ」
「でも、やってみたい」
スティーブは思わず大声で「すばらしい」と叫びそうになり、両手で自分の口を押さえた。少女が振り返ると、彼は濃い青色のセーターの胸元へ手を当て、今度は教室にちょうどよい声量で同じ言葉を繰り返した。イーサンは肩を揺らして笑い、少女は何がおかしいのか分からないまま鉛筆を握った。スティーブは小さな椅子へ窮屈そうに座り、少女が最初の一文を読み始めるのを待った。
「昔々、声の、とても大きな男がいました」
「それは私の話かな?」
「まだ途中だから、静かにしてください」
教室に笑い声が広がったが、スティーブは言われたとおり口を閉じた。窓の外では細い雨が校庭の遊具をぬらし、廊下からは給食の食器を重ねる音が聞こえていた。彼は膝の上に置いた大きな手を動かさず、少女がつかえながら一語ずつ読む声に耳を傾けた。かつて何万人もの前で叫んだ男は、その日、小さな声を最後まで聞くことが、どれほど大きな仕事であるかを知った。




