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世界がどうであれ、夫婦のイチャイチャが常に優先されます。転生先で口説いた美女は最強の魔女でした。  作者: 1009
第一章「絶界の骸森のめぐりあい」

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第七話「結界の楽園、建てました」

 同居を始めて数日が過ぎるころには、信の胸のうちで、ひとつの確信がすっかり固まっていた。


 この家は、あまりにも仕事場と生活の場が混ざりすぎている。居間の卓には調薬中の器具が居座り、寝室の枕元にまで魔道書が積み上がり、食事をする場所のすぐ隣で得体の知れない液体がぐつぐつと煮えているのだから、落ち着いて暮らせるはずもなかった。仕事の領域が生活の領域をじわじわと侵食していく光景を眺めるたびに、信のなかの整理整頓を尊ぶ心が、静かに悲鳴をあげていた。


(……これは、分けるべきだ。仕事場と暮らす場所を…きっちり)


 そしてもうひとつ、彼にはどうしても看過できない問題があった。


 「この家には風呂がない!!」


 念のためエルミニアに確認してみたところ、そもそもグラストヘイムには湯に浸かるという文化そのものが存在せず、体を清めるのはもっぱら水浴びか濡れ布で拭う程度なのだと判明して、信はその場に膝をつきそうになった。湯船に肩まで沈んで一日の疲れを溶かすというあの至福を知らないまま、この世界の人々は生涯を終えていくのだという。


「無理だ。俺には耐えられない。……これは日本人としての、もう性分サガとしか言いようがない」


 どうせ手を入れるのなら、いっそ家ごと建て替えてしまえないだろうか?と信は考えた。せっかく神から規格外の力をもらったのだから、地球でも一生縁のなかったであろう、プールと露天風呂つきの大豪邸に住んでやりたい。もちろん、エルミニアの仕事場はきっちり別棟にしたうえで。


 とはいえ、ここは彼女の家であり、二千年を過ごしてきた場所でもあるのだから、勝手に手をつけていいはずがなかった。ならばまず、許可を取り付けるところから始めよう――そう腹をくくった元営業マンは、実に周到な一計を案じることにした。


 その日から、信は毎日欠かさず、地球の料理を日替わりで食卓へ並べはじめた。


 初日は湯気の立つカレーライスで、香辛料の複雑な香りにエルミニアが目を丸くし、二日目は色鮮やかな握り寿司で、生魚を口にする文化のない彼女がおそるおそる箸を伸ばしては、その旨みに絶句した。三日目には濃厚な豚骨ラーメンをすすらせ、四日目には甘く冷たい菓子の数々を並べてみせる。


 とりわけ甘味の破壊力は凄まじく、口へ運んだ途端にとろけて消える生菓子を前にして、彼女は「なんじゃ、この口の中で溶ける雲のようなものは……」と、ほとんど涙目になっていた。二千年ものあいだ携帯食と炙り肉で生きてきた舌にとって、地球の食文化はもはや暴力に等しかったのだ。


 最強と謳われた魔女の防衛線は、たった四日であっけなく決壊した。


「シン、今日はなんじゃ! 次はいったい、何を作るのじゃ!」


 朝からそわそわと厨房を覗き込み、催促してくるようになったエルミニアの姿には、もはや伝説の面影などかけらもなかった。頬をふくらませて夢中で麺をすする彼女を、信はしみじみと眺めながら、いつもの調子で本音を漏らす。


「美味しそうに食べるエルミニアさんが、世界で一番かわいいですよ」

「くっ、比較対象がおかしいのじゃ!」


 早口でそう言い返したものの、エルミニアの耳の先はすっかり赤く染まっていて、返す言葉の勢いとは裏腹に、彼女の箸はそわそわと宙をさまよっていた。


 餌付けが完全に定着したと見極めたところで、信はいよいよ本題を切り出した。


「エルミニアさん、ちょっとご相談があるんですが」

「うむ、なんじゃ。腹が満ちておる今なら、たいていのことは聞いてやるぞ」


 その言葉を待っていたとばかりに、信は営業時代の表情を引っぱり出した。


「今よりもっと快適に、研究に打ち込める環境を作りませんか。前にも関心していたでしょう、いい仕事をしたければ、いい環境が要る…と」

「……む。それは、確かにそうじゃのう」

「心も体もしっかり休まる家があれば、頭も冴えて、いい発想が浮かびますよ。仕事場と生活の場をきっちり分ければ、危険な実験も気兼ねなくできます」


 実験中の爆発で寝床の本が焦げた話も、調薬の煙で夕食が薬臭くなった話も、この数日で信はしっかり見聞きしていた。だからこそ彼は、押しつけがましくならないよう、あくまで彼女の利益として利点を並べていく。これが売れる営業のやり方だと、前世で嫌というほど叩き込まれてきたのだ。


「……それに、今よりもっと美味しいごはんが食べられますよ!」


 理屈のうえでは何ひとつ反論の余地がなく、エルミニアは腕を組んだまま唸っていたが、最後の一言を聞いた瞬間、その肩があからさまにびくりと跳ねた。


「わ、分かった、分かったのじゃ! シンの好きにすればよいのじゃ!!」

 勢いよく頷いてから、彼女ははっと我に返ったように付け加える。


「……けど、今の家はどうするのじゃ。ワシは、壊したくはないぞ」

「安心してください。エルミニアさんの想いの詰まった家を、僕だって壊したくありません。『アイテムボックス』のなかへ、時間停止をかけて、大切に保管しておきますよ」

「まぁ、のう。……それならば、構わぬか」

「近いうちに引っ越しますから、荷物をまとめておいてくださいね」

「うむ、分かったのじゃ! 楽しみにしているのじゃ」


 軽やかな足取りで奥へ引っ込んでいくエルミニアの背中を見送りながら、信はニヤリ…と口の端を持ち上げた。


「……計画どおーり!!」


 荷物の整理を終えた日、信は思い出の詰まった庵に時間停止を付与し、そっくりそのまま『アイテムボックス』へ収めた。長年暮らした家が忽然と消えた跡地を、エルミニアはどこか寂しげに見つめていたが、信はその横顔にやわらかく声をかける。


「いつでも取り出せますから、安心してください」

「……うむ。分かっておる」


 だだっ広く開けた更地の中央に立った信は、地面へ両手を添えて目を閉じると、頭のなかにある理想の邸宅を、細部まで丹念に思い描いていった。


「――錬成!!」


 その瞬間、足元の大地から光の脈が幾筋も走り抜け、大気に漂う魔力が渦を巻いて凝縮していった。地面がせり上がり、白亜の柱が伸び上がり、硝子の壁が編み上がっていく。木材が組まれ、床が張られ、屋根が葺かれ、水が満たされていくという建築のすべての工程が、逆再生の映像のような滑らかさで、ほんの数十秒のうちに完了してしまう。


 光がおさまったあとに、それはあった。


 外は未開の魔境、しかし内側は地球すら超える極上の楽園――信が心血を注いで思い描いた大邸宅、名を『結界の楽園プライベート・エデン』が、骸森の底に忽然と姿を現していた。屋敷の全体は幾重もの結界にやわらかく包まれ、その膜の外では相変わらず頂点捕食者たちが徘徊しているというのに、内側の芝生は朝露を含んで穏やかに輝いている。


 中央にそびえる母屋は、地球の最高級ホテルすら霞ませるほどの優美さで、一階の大リビングは天井まで届く硝子張りの吹き抜けになっており、森の緑と空の色をたっぷりと室内へ招き入れている。開放的なその構造は、どこにいてもたがいの気配を感じ取れるようにという、信のささやかな企みの産物でもあった。リビングの奥には磨き上げられた石の天板が伸びる巨大なシステムキッチンが据えられ、壁一面の食料棚は『アイテムボックス』と空間ごと接続されていて、新鮮な地球の食材をいつでも取り出せる仕組みになっている。


 母屋の二階には、大きな窓から森と星空を一望できる主寝室が据えられていて、そこには身を横たえた者を残らず堕落させるであろう、途方もなく大きな寝台が鎮座していた。寝室に直結した内風呂は磨き抜かれた大理石造りで、湯を叩きつける打たせ湯も、肌を潤す霧のような蒸し風呂も、地球の高級旅館さながらに揃っている。もっとも、そちらの豪奢な浴室については、いずれ二人で使う日が来ればいい、と信は密やかに考えているにすぎなかった。


 母屋から少し離れた場所には、エルミニア専用の魔法研究所が塔のように屹立していた。頑丈な時空間の結界で完全に隔離されたその別棟でなら、どれほど危険な禁忌の実験に手を出そうと、魔力が暴走して大爆発を起こそうと、母屋には振動ひとつ音ひとつ届かない。それでいて、研究に疲れ果てた彼女がすぐ食卓へ戻ってこられるようにと、母屋の廊下へ直通する転移の扉まで設えてあった。


 母屋の裏手には、いまはまだ無人の棟がひっそりと控えていた。近いうちに屋敷を切り盛りする者たちを迎えるための場所で、彼らが主人の目に触れず動けるよう、邸内には使用人専用の裏動線まで張りめぐらせてある。二人きりの時間を何者にも邪魔させないというのが、この屋敷を貫くただひとつの思想だった。


 さらに、うっかり者の魔女のためにと、信は屋敷の随所へ念入りな仕掛けを施していた。仮に彼女が魔法を暴発させて家具を砕こうと、鍋のスープを床にぶちまけようと、『限定時空間操作』が働いて、ものの一秒で何事もなかったかのように元通りになるのだ。


 そして水回りこそ、信が最も情熱を注いだ聖域だった。


 リビングからそのまま裸足で歩み出られるインフィニティ・プールは、水面の縁が森の景色と溶け合うように設計されていて、結界越しに骸森の幻想的な原生林と、その上へ広がる満天の星空を、遮るもののない大パノラマで見渡すことができる。水は常に清らかな純水に保たれ、夜には水底の光が青くゆらめいて、水面へ夢のような模様を描き出した。


 総檜造りの大浴場は、日本の高級温泉旅館をそっくり写し取ったような造りで、木肌の香りが湯気とともに立ちのぼって、深く息を吸い込むだけで肩の力が抜けていく。そこから続く岩造りの露天風呂に至っては、地球の名湯の成分と効能を日替わりで再現できるという、もはや反則としか言いようのない代物だった。


 湯船の縁に腰を下ろし、湯気の向こうに広がる森と星空を眺めながら、信は心の底から満ち足りたため息をついた。


「あー……最高だ。やっぱり日本人に、風呂は欠かせないよなあ。まったく異世界っぽくないけど、これだけはどうしても譲れなかった」


 彼はそこで湯から手を持ち上げると、天へ向かって恭しく合掌した。


「しかし神様も、よいスキルをくれたもんだ。ありがとうございます、神様! これからも自分たちの欲望のため、快適のために、どんどん使わせていただきますからね!」


 もっとも、風呂だけは当面のあいだ男湯と女湯にきっちり分けてある。同居人としての節度は守るのが、彼なりの誠実さというものだった。


 一方、完成した邸宅を目の当たりにしたエルミニアは、口を開けたまま石像のように固まっていた。


「なんじゃ、この家は――――っ!?」

 ようやく絞り出された第一声は、悲鳴に近かった。


「スキルを、こ、こんなことに使うのは……なんか違うのじゃ! 絶対に違うのじゃ!!」


 神域の力とは本来、世界の理を解き明かし、あるいは災厄を退けるために振るわれるべきものではないのか。それを、この男は湯を沸かすためと、うまい飯を作るためだけに惜しげもなく注ぎ込んでいる。抗議の声をあげてはみたものの、目の前の光景があまりに…あまりの心地よさそうで、彼女の言葉はどんどん尻すぼみになっていった。


(……しかし、じゃ)

 磨き抜かれた床に、ふかふかの寝台に、ボタンひとつで湯が満ちる浴室。そのすべてを見渡しながら、エルミニアはしみじみと考え込んでいた。


(シンのおった地球という世界。魔法も魔獣も物語の中だけの絵空事じゃと言うておったが……この家ひとつを取ってみても、おそろしく文化と技術の水準が高い世界だったことが伺えるわい。その点ばかりは、このグラストヘイムなど、遠く及ばぬのじゃろうな……)


 そして日が落ちたころ、彼女はいよいよ、生まれて初めての湯というものに浸かることになった。


 肩まで沈み込んだ瞬間、二千年ぶんの凝りと疲れが、湯の中へするすると溶け出していくような錯覚に襲われて、エルミニアの喉から意味をなさない声が漏れた。岩を叩く湯の音と、立ちのぼる湯気の向こうに揺れる星々があまりに心地よくて、彼女はそのまま溶けてしまいそうだった。


 水を浴びて汚れを落とすという行為と、湯に身を沈めて時間そのものを味わうという行為が、これほどまでに別物だとは思ってもみなかった。体の芯からじんわりと熱がほどけていくにつれ、常に張りつめていた警戒も、研究のことばかり考えていた頭も、何もかもが心地よく緩んでいく。この世界の誰ひとりとして知らない悦楽を、自分だけが独り占めしているのだという事実に、彼女はうっとりと目を細めた。


「……はぅ……」


 湯気の向こうから漏れ聞こえるその恍惚としたため息を、廊下で聞いてしまった信は、なんとも言えない気分で天井を仰いだ。喜んでもらえたのなら何よりだと思う一方で、あの声を聞きつづけるのは、精神衛生上いささかよろしくない。


「……襲いたい、襲ってしまいたい。ここで俺のもう一つのスキル『絶倫』が唸りを上げてしまいそうだ。しかし、今はダメだ…まだ駄目だ」


「理性を保て、呼吸を整えろ、我慢しろ俺、耐えろおれー、負けるなオレーー」

 ひとり…必死に見悶えている信の姿がそこにあった。


 ようやく湯から上がってきたエルミニアは、褐色の頬をほんのりと桜色に上気させ、しっとりと濡れた銀髪をタオルで押さえながら、ふらふらとリビングへ現れた。ゆるく着崩した浴衣の襟元から立ちのぼる湯の香りが、その一歩ごとに甘くたなびいていく。


 その姿を目にした信は、例によって、思ったままを迷わず口にした。


「これぞ!まことの…湯上り美人だ!!。サイコーです、エルミニアさん……」

「……っ!」


 言い返そうと開きかけた口が、そのまま行き場をなくして閉じられた。何か気の利いた反論を、と焦ってみても、頭の芯は湯にとろけたままで、何ひとつ浮かんでこない。ただ心臓だけが早鐘のように鳴り響き、エルミニアは真っ赤な顔でうつむいたまま、ぷい…と視線を逸らすことしかできなかった。


 その夜、真新しい寝台に横たわったエルミニアは、天井を見上げながら、湧き上がる想いを持てあましていた。


 ふかふかの寝具の感触も、指ひとつで適温になる湯も、この世のものとは思えない料理の数々も、そのすべてが「彼女のために」用意されたものだった。力を恐れられ、道具として利用されつづけてきた二千年のなかで、これほどまでに自分自身を甘やかしてくれる存在など、ただの一度も現れたことがなかったのだ。


(……もう、この暮らしを知ってしまうと、シンのおらぬ世界など、考えられ――)


 そこまで思考が滑り落ちたところで、エルミニアは弾かれたように首を振った。


「あ、危ういところじゃった……! 危うく、絆されるところじゃったぞ!」


 両手で頬をぱちんと叩き、彼女は必死に自分へ言い聞かせた。まだ認めるわけにはいかない、断じて認めてなるものか…と。だがそう抗えば抗うほど、湯上がりに投げかけられた何気ない一言が耳の奥で何度も繰り返され、胸の奥のやわらかい部分が、じわじわと甘く侵食されていくのを、彼女はもう止められそうになかった。


 二千年を生きた最強の魔女は、その自覚のないまま、静かに、そして着実に堕とされつつあった。


 第七話 了

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