第六話「同居、はじめました」
異世界での朝は、鳥の声とも獣の唸りともつかない遠い響きとともに、思いのほか穏やかに訪れた。結界の膜を透かして届く朝日は、森の底だというのに淡い金色を帯びていて、貸してもらった客間の窓辺をやわらかく染めている。二十歳の体は寝起きから驚くほど軽く、五十路のころに毎朝つきまとっていた腰の重だるさなど、どこを探しても見当たらなかった。
軽く伸びをして廊下へ出た信は、そこで思わず足を止めることになった。昨日はよく見ていなかったものが、朝の光の下では容赦なく暴かれていたからである。
廊下にも居間にも、二千年ぶんの魔道書がところ構わず積み上げられて崩れかけ、その隙間を埋めるようにして、得体の知れない液体を湛えた薬瓶や、用途の見当もつかない金属器具が転がっている。壁際には見たこともない魔獣の剥製が首をかしげたまま埃をかぶっており、極めつけに、床のあちこちには漆黒のローブが脱ぎ散らかされたまま、まるで力尽きた影のようにわだかまっていた。
足の踏み場を探して爪先立ちになりながら、信はぽつりと本音をこぼした。
「……これは俗に言う、ゴミ屋敷系かな?」
ちがう、これは研究者の部屋だと信は自分に言い聞かせてみたものの、床に落ちた靴下らしき布きれを見つけてしまった時点で、その擁護はあっさりと崩れ去った。
どうしたものかと腕を組んで唸っていると、奥の寝室の扉が、きぃと気の抜けた音を立てて開いた。
「……ふぁ……。うぅむ、朝か……」
現れたエルミニアの姿に、信の思考は一瞬で停止した。艶やかな銀の髪は見事なまでにあちこち跳ねて、寝癖の見本市のようになっている。ぶかぶかの部屋着は肩口がずり落ちかけ、褐色の肌があらわになったまま、彼女は眠そうに目をこすりながら、ふらふらと廊下へ出てきた。
すべてが剥がれ落ちた無防備な姿を前にして、信の口は、考えるより先に動いていた。
「朝のエルミニアさん、無防備でかわいいですね。普段の凛とした美しさも…もちろん素敵ですけど、そのギャップに、正直、胸が苦しくなるほどです。銀髪の寝癖すら愛おしい……」
「これが俗に言う…ギャップ萌え……というやつなのか?」
「……え?」
「美人はどんなときでも本当に美人なんだなって、僕は今日、生まれて初めて理解した気がします」
信はそこで、いっそ清々しいほど爽やかに、にっこりと微笑んでみせた。嘘も誇張もなく、ただ見たままを言葉にしただけなのだから、彼にしてみれば天気の話をするのと変わらない。
「び、び、び、び、びじん……?」
二千年を生きて、恐れられることにも敬われることにも慣れていたエルミニアだったが、この手の言葉にだけは、まったく免疫がなかった。声を向けられた意味を理解するのに数秒を要し、理解した次の瞬間には、褐色の肌が耳の先まで真っ赤に染め上がっていく。
(な、なんじゃこやつは……! 朝っぱらから、なにを、なにを言うておるのじゃ!)
胸の内側で心臓が跳ね回り、耳の奥までうるさく鳴り響いて、彼女はもう立っているのがやっとだった。
「う、う、うるさいわいッ!」
照れ隠しに手近なクッションをひっつかんだエルミニアは、それを渾身の力で信の顔面めがけて投げつけた。ぼふん、と気の抜けた音を立ててクッションが命中しても、信はいたって涼しい顔で、それを胸のあたりで受け止めてしまう。
「朝から元気で、なによりです」
「元気ではないわ、恥ずかしいのじゃ……っ!」
真っ赤な顔のまま、エルミニアは自分の言葉に自分で赤面し、慌てて口をつぐんだ。
ひとしきり騒いだあとで、ようやく人心地ついた二人のあいだに、健やかな沈黙が落ちた。そして信の腹が、実に正直な音を立てて鳴る。
「そういえば、朝ごはんはどうしてるんですか。台所、お借りしても?」
「うむ、好きに使うがよい」
その許しを得て台所を覗き込んだ信は、二度目の絶句を味わうことになった。竈らしきものはあるにはあるが、その周囲には調薬用の乳鉢や蒸留器が我が物顔で陣取っており、まともな鍋のひとつも見当たらない。ここはもはや台所ではなく、実験場の延長線上にある何かだった。
「……エルミニアさん。あの、失礼を承知で伺いますけど、ふだんの食事って……」
「料理? 片付け? そんなものは、魔道の深淵にはなんの関係もないからのう!」
胸を張ってみせたエルミニアだったが、その視線はどこかばつが悪そうに泳いでいる。
「いつもは、そこらの魔獣の肉を適当に炙るか、街へ出たときに買いだめた携帯食で済ませておる。食えれば何でも同じじゃろうて……」
美しい口から飛び出した、あまりにも身も蓋もない食生活の告白に、信はしばし天を仰いだ。
(あぁ……これは俗に言う、残念美人というやつか。これは俺が、どうにかしてあげないといけないのかもしれない)
愛する女性が、こんな劣悪な食生活と衛生環境のなかで二千年も過ごしてきたのだと思うと、前世で一人暮らしをしてきた男の胸には、放っておけないという使命感がむくむくと湧き上がってきた。
(……でも、そんなダメなところも人間くさくて、なんだか可愛いんだよなあ。もしエルミニアさんがツッコミどころひとつない完璧超人だったら、逆に俺のほうが引け目を感じて、萎縮していたかもしれない。ある意味助かったのか?)
「いや、あぶないところだったな。ふぅ……ッ」
なぜか?溜息をつき、額の汗をぬぐう仕草をしてから、信は静かに腕まくりをした。
「よし。エルミニアさん、ここは俺に任せてください!「」
「……任せる、とな? 何をする気じゃ、お主」
答える代わりに、信は何もない空間へ手のひらをかざした。
「錬成」
声に応じて空間がわずかに歪み、漂う魔力の粒子が光をまといながら折り重なっていくと、そこには見慣れない道具が次々と現れ出た。柄の長い床用のワイパー、こすれば汚れが嘘のように落ちる白い研磨スポンジ、洗剤の詰まった容器がいくつも並び、締めくくりに、ずんぐりとした筒状の機械が、ことりと軽い音を立てて床へ降り立つ。
「なんじゃ……その、奇っ怪な魔道具は……?」
「掃除機です。ゴミを吸い込む道具ですよ。……いや、待てよ」
スイッチに手をかけたところで、信はふと動きを止めた。この機械は本来、壁のコンセントから電気を取って動くはずで、当然この家に電気などあるはずもない。半信半疑のまま押し込んでみると、掃除機は「ゔぉーん」と実に頼もしい唸り声をあげて、あっさりと稼働しはじめた。
「……動いた。フツーはコンセントにつないで、電力で動くはずなんだけどな。これは、そんなことをしなくても動く。動力は、いったい何なんだ?」
腕を組んでしばらく真剣に唸ってみたものの、信の頭からは、それらしい答えなど何ひとつ出てこなかった。
「まぁ、神様の親切設計で、なんか問題なく動いてるってことで納得しよう!」
あっさりと結論づけた信は、深く考えるのをやめて掃除機を押しはじめた。そのあまりの割り切りのよさに、エルミニアのほうが呆気にとられ、口を半分開けたまま立ち尽くしてしまう。
床を這う筒が唸りを上げて埃を吸い込んでいくたびに、彼女は杖を構えかけては下ろすという妙な仕草を繰り返していた。魔道の理から言えば、動力もなく駆動しつづけるこの機械は、明らかに何かがおかしい。にもかかわらず、それを操る当の本人がまるで気にしていないのだから、追及する気力すら根こそぎ削がれてしまうのだった。
「……のう、シン。それは、危険な代物ではないのじゃろうな?」
「大丈夫ですよ。ゴミを吸うだけの、平和な機械ですから」
そこからの信は、まさに無双というほかなかった。『限定天眼』に意識を通せば、床に散らばった薬瓶のどれが危険な劇物で、どれがただの空瓶かが一目で見分けられ、『アイテムボックス』を開いて危険物だけを片っ端から放り込んでいく。時の止まったその空間なら、劇物が漏れる心配も、反応して爆発する恐れも皆無だった。
重たい魔道書の山は『限定時空間操作』で丸ごと持ち上げて棚へ収め、届かない天井の梁の埃は、その場へ転移して直接ぬぐい取る。積年の油汚れは研磨スポンジがひと撫でで剥ぎ取り、床は水拭きを終えたそばから輝きを取り戻していった。
脱ぎ散らかされたローブの類は洗濯桶へ集められ、地球の洗剤と柔軟剤で洗い上げられて、結界の内側の陽だまりへずらりと干されていく。
半刻もしないうちに、二千年ぶん(?)の混沌は跡形もなく消え失せ、庵のなかは埃ひとつ落ちていない清潔な空間へと生まれ変わっていた。開け放った窓から流れ込む風は、洗い上がった布のふんわりと甘い香りを運んできて、部屋のすみずみまで満たしていく。
「……なんじゃ、この、おひさまのような、よい匂いは」
「柔軟剤ですね。洗濯物がふわふわになって、いい香りがつくんですよ」
自分の家であるはずの場所が、たった半刻で見知らぬ楽園に変わってしまった光景を前にして、エルミニアはこめかみを押さえてよろめいた。この世界の魔法の基礎を築き、体系化した張本人が、目の前の若者の手際にただ脱帽するほかなかったのだ。
(神から授かった力を、こやつは……こともあろうに、掃除に使っとる……なんか違うのじゃ!、絶対に使い方が違うのじゃ!!)
世界中の魔術師が生涯をかけても届かぬ神域の力が、床磨きと洗濯物のために惜しげもなく振るわれている。その事実を前にして、エルミニアは怒るべきか呆れるべきか笑うべきかも分からず、ただ深いため息だけを、長々と吐き出すほかなかった。
やがて信は台所へ戻り、今度は朝食の錬成に取りかかった。湯気を立てる炊きたての白飯、香ばしく焼き上げた鮭の切り身、出汁の香りがふわりと立ちのぼる味噌汁、そして黄金色に巻かれた出汁巻き卵が、小卓の上へ次々と並んでいく。
「どうぞ。日本のごく普通の朝ごはんです」
箸の使い方をぎこちなく教わりながら、エルミニアはまず味噌汁の椀を両手で持ち上げて、おそるおそる口をつけた。次の瞬間、彼女の紫紺の瞳が大きく見開かれる。
「な、なんじゃこれは……美味すぎるじゃろう……」
塩気の奥から立ちのぼる出汁の旨みが、じんわりと体の芯まで染み渡っていくのを、エルミニアは呆然と味わっていた。焼き魚の脂も、卵の甘さも、炊きたての米の香りも、どれもこれもが優しく、あたたかい。二千年という長い長い歳月のなかで、彼女はこれほど手をかけられた食事を、ただの一度も口にしたことがなかったのだ。
「ワシは二千年ものあいだ、いったい何を食べておったのじゃ……」
「エルミニアさん。これからは、食事を粗末に扱わずに、きちんと食べてくださいね。美味しいものを食べるのも、生きる楽しみのひとつにしてほしいんです。俺のいた世界には、『医食同源』なんて考え方があったくらいですから」
「いしょく、どうげん……?」
「病気を治す医療も、日々の食事も、どちらも生命を養って健康を保つために欠かせないもので、その源は同じだ、という考え方です」
「ほう……! お主の世界には、なかなかに深い考え方があるのじゃな」
「これからは、俺が食事を作りますよ。地球には、まだまだ美味しいものが山ほどありますから」
「おおー! それは楽しみじゃ。シン、まかせたのじゃー!」
こうして、最強と恐れられた魔女の胃袋は、朝の一膳であっさりと陥落した。
夢中で箸を進めるエルミニアを眺めながら、信はふと、昨日から胸に引っかかっていた疑問を口にした。
「エルミニアさんほど凄い魔法使いが、どうしてこんな『絶界の骸森』の奥に、たった一人で住んでいるんですか?」
「……なんじゃ、藪から棒に」
「研究の材料を採るのに便利だからって、聞きましたけど……なんとなく、それだけじゃない気がして」
エルミニアの箸が、ぴたりと止まった。彼女は少しのあいだ遠くを見つめてから、淡々と、けれどどこか寂しげに口を開いた。
「ワシの力はな、この世界にとっては、いささか大きすぎるようなのじゃよ。人族の国々はワシを、ワシの力を利用しようとする。戦に駆り出し魔王との戦いを押しつけようともする。魔王側とて同じことじゃ。かつての弟子たちですら、ワシの知識や道具を奪おうと、一部は敵に回る始末でな」
窓の外の光が、彼女の伏せた睫毛に淡い影を落としている。
「誰も彼も、ワシという“個”ではなく、“最強の魔女”という力しか見ておらん。……そんな有象無象の喧騒に付き合うのが煩わしゅうてな、こうして引きこもっておるというわけじゃ」
政治も、戦争も、魔王も、そして弟子との決別さえも、彼女はまるで今朝の天気の話でもするように、あっさりと語ってみせた。だが、そのあまりの平坦さこそが、二千年ぶんの諦めの重さを物語っていた。
その告白を聞いても、信はいっさい怯まなかった。彼はただ、まっすぐにエルミニアの目を見つめて、静かに微笑んだ。
「だったら、もう寂しい思いをすることはありませんよ」
「……なに?」
「これからは俺がここにいて、毎日、『美味しいごはん』を作ります。エルミニアさんが面倒事なんて忘れて、大好きな魔法の研究に思いきり集中できるように、家のことは全部、俺に任せてください」
言葉を切った信は、それから照れもせずに、こう続けた。
「……俺は、あなたにはなるべく笑っていてほしいんです」
その一言が、エルミニアの胸の奥を、これまで誰にも触れられたことのない場所ごと、激しく締めつけた。
彼女に向けられてきた言葉は、いつだって力への畏怖か、打算まみれの追従か、そのどちらかでしかなかった。政治の思惑もなく、力への恐れもなく、ただ“エルミニア自身”に向けられた好意と誠実さというものを、彼女は生まれて初めて浴びていた。
世界が彼女をどう見なそうと関係はなく、この男の言葉こそが、彼女にとっての新しい世界の基準になりつつある――その決定的な一歩が、この朝、静かに踏み出されたのだった。
「……う、うむ」
エルミニアは真っ赤になった顔を隠すように、ぷいとそっぽを向いた。
「それでは……ワシの面倒を、見させてやらんこともない。……明日からも、楽しみに心の準備をしておくぞ、シン」
のじゃ口調をわずかに崩しながら、それでも嬉しさを隠しきれずに緩んでしまう口元を、彼女は手のひらで必死に押さえていた。
世界はどうであれ……二人の同居生活は、こうして本格的に幕を開けたのだった。
もっとも、片付いた家をあらためて見渡すうちに、信の胸にはひとつ、新たな問題意識が芽生えはじめていた。それは、この家には……
第六話 了




