第五話「餌付け成功、交渉成立」
さすがの信も、これにはすっかり肝を冷やして猛省した。
命の恩人であるはずのエルミニアを、よりにもよって一日のうちに二度までも卒倒させてしまったのだ。さすがに気まずさもひとしおで、今度こそしばらくは大人しくしていようと、彼は殊勝にも自分へ固く言い聞かせた。
ところが、そうやって借りてきた猫のように縮こまっていた矢先、信の腹が、実に間の抜けた音を立てて盛大に「ぐぅ~~~っ」鳴った。
そういえば、この世界へ落とされてからというもの、慌ただしさにまぎれて自分は何ひとつ口にしていない…と信はいまさらのように思い至った。
空腹を自覚したとたん、我慢できないほどの飢えがこみ上げてきて、信はさっそく『限定魔力創造』で湯気の立つカレーライスを一皿錬成し、そこへ冷えたジュースと甘いデザートまで手際よく作り足していった。
ひと口ほおばってみれば、とろりとしたルーの辛さも米の炊き加減も、地球で食べていたものとまるきり同じで、信は久方ぶりの食事にしみじみと舌鼓を打った。何もない空間から、これほど完璧な一皿がぽんと生まれ出てくるのだから、あらためて考えれば恐ろしいスキルだと、信は苦笑まじりにスプーンを進めていく。
ところが、腹はそれなりに満ちたはずなのに、若返った肉体はまだ物足りないと訴えてくる。信は苦笑まじりに、今度はハンバーガーを錬成してかぶりつこうと、大きく口を開けた。
……と、そのとき、背中のあたりにじっとりと突き刺さる視線を感じて、彼はおそるおそる後ろを振り返った。
いつのまに目を覚ましたものか、ベッドソファーの上で半身を起こしたエルミニアが、なんとも恨めしげな目つきで、「じいーーーっ」と信の手もとを見つめていた。
「……のう、お主。さっきから、いったい何をしておるのじゃ? しばらく黙って見ておったが、何もない所から、見たこともない食い物らしきものを、次から次へと出しておったな。……ひとりで食べるとは、ずるいのじゃ」
「あっ、エルミニアさん、起きてたんですか! すみません、良ければ食べます? ハンバーガー、今すぐ錬成しますよ」
「……食べる。食べるのじゃ!」
「よし、それじゃ――錬成!」
信が軽く手をかざすと、彼女の目の前の小卓に、ほかほかと湯気を立てるハンバーガーのセットが、音もなくことりと現れ出た。ポテトの香ばしい匂いまで漂わせるそれを前に、エルミニアはこめかみをぐっと押さえながら、絞り出すように口を開いた。
「……のう、シン。お主が今やってみせたそれは…創造じゃな? 無から有を、そっくり生み出しておる。そうじゃろう?」
「ふぁい、そうです」
信は頬いっぱいにハンバーガーを頬張ったまま、もごもごと、それでいて器用に言葉を返した。
「これ、『限定魔力創造』っていうスキルなんですよ」
その答えを聞いたエルミニアは、天を仰いで、それはもう深々としたため息をついた。
「……はぁー。お主の転移といい、その魔力創造といい、もはや人の身に扱えるスキルの枠を、まるごと超越しておるではないか」
「そうなんですか? あ、ちなみに僕、転移のスキルはもらってないんですけどね」
「なに……? しかしお主は、ついさっき、庭中をあれほど転移しまくっておったではないか」
「あー、正確に言うと、転移“もできる…っていう、『限定時空間操作』のスキルを頂いたんです」
その言葉に、エルミニアは切れ長の目をこれ以上ないほど大きく見開き、手にしていたポテトを、危うく取り落としそうになった。
「じ、時空間操作の…スキルじゃと……? ……もう、めちゃくちゃじゃな、お主は」
半ば呆然としたまま、エルミニアはおそるおそるハンバーガーを手に取り、意を決したように、ひと口だけかじりついてみた。次の瞬間、彼女の紫紺の瞳が、これでもかと大きく見開かれる。
「なっ……なんじゃ、このうまさは……!?」
一度その味を知ってしまうと、もう抑えは効かなかった。あれほど取り澄ましていた最強の魔女が、上品ぶるのもすっかり忘れて、はふはふと夢中でハンバーガーにかぶりついていく。
「よかったら、こっちの照り焼きバーガーも食べます? これもまた、けっこういけますよ」
「た、食べるのじゃ……!」
差し出した端から次々と平らげていくエルミニアの姿を眺めながら、信はひとり、じんわりと胸をあたためていた。理想の相手の口に、故郷の味がこうもぴたりと合うとは、なんとも嬉しい誤算だと、彼は密かに顔をほころばせる。
こうして信は、最強と謳われる魔女の餌付けに、本人も気づかぬうちに、まんまと成功しつつあったのだった。
途中でふと我に返ったエルミニアが、はしたない食べっぷりを見られていたと気づき、口のまわりをソースで汚したまま、ぼっと赤面する一幕もあった。それすらも信の目には微笑ましく映るばかりで、彼はそっとおしぼりまで錬成して、そ知らぬ顔で差し出してやった。
ひととおり腹を満たし、冷たいジュースで喉を潤して、ようやく人心地ついたころ、エルミニアはペットボトル片手に、しみじみとつぶやいた。
「……なんじゃ、この、やたらと甘くてうまい飲み物は」
「気に入りました? 良ければ、いくらでも出しますよ」
目を輝かせる魔女の反応がいちいち可愛らしくて、信はにまにまと…相好を崩していたが、そんな彼の緩んだ空気を断ち切るように、エルミニアはペットボトルをカタンと小卓へ置いた。ふいに、その双眸へ、射抜くような真剣な光が宿る。
「シン。ここらで、正直に洗いざらい話してもらうぞ。お主がいったい、何者なのかをな」
「エルミニアさんになら、いいですよ。包み隠さず、全部お話しします」
そうして信は、ひとつずつ言葉を選びながら、自分のこれまでを静かに語りはじめた。地球という世界に生まれ、かつては妻もあったが、その妻を病で先に見送ってしまったのだと、彼は穏やかに打ち明ける。二人いた娘もそれぞれ嫁いでゆき、気づけば独り身になっていたこと。そんな五十路のある日、暴走してきた車から見知らぬ妊婦をかばって、その身代わりのように命を落としたのだと、信は静かに言葉をつないでいった。
さらに信は、死んだはずの自分がこの世界グラストヘイムの神に第二の生を授けられ、いわば試しの一例としてこの地へ送り込まれたのだと語った。もし自分がうまくやれば、この先、同じような転生者が増えるのかもしれない――そんな見通しまで、彼は隠さずに口にする。
ただし、数々のスキルと引き換えに器がすっかり埋まってしまったせいで、この地で新たな魔法を覚えるのはおそらく難しいだろうと、少しばかりばつが悪そうに付け加えた。
ひととおり信の告白に耳を傾けたエルミニアは、腕を組んだまま、しばらく何かを噛みしめるように黙り込んでいた。愛する者を失い、たったひとりで長い時を過ごしてきたというその述懐は、二千年ものあいだ人里を離れて魔道の深淵を追いつづけてきた彼女自身の孤独と、どこか静かに響き合っていた。
だからこそ、荒唐無稽としか思えないその話を、彼女は頭ごなしに笑い飛ばす気には、どうしてもなれなかったのだ。
「……うむ。異世界からの転生とはな。これほど長く生きてきたワシでも、そんな話は、生まれて初めて耳にするわい」
「にわかには信じがたい。……じゃが、お主が善良で、腹に一物あるような人間でないことだけは、この目でよう分かる。それに妙な話じゃが、お主の話を聞いておるうちに、ワシのなかで、なぜか腑に落ちてしもうた。……ずっと引っかかっておった事実と、符号する点まであるのじゃ」
エルミニアは組んでいた腕をほどくと、探るような、それでいてどこか労わるような口ぶりで、静かに問いを重ねた。
「時にシンよ。お主、置いてきたその世界に、未練はないのか」
「未練はありません。子どもたちもとうに独り立ちしましたし、思い残すことは、もうほとんど……」
そこでいったん言葉を切った信の表情に、ふと、ほろ苦い翳りがよぎった。
「……ただ、後悔なら、ひとつだけあります」
「ほう。それはなんじゃ?」
「好きな人に、ちゃんと言葉を伝えられなかったことです」
信はまっすぐにエルミニアを見つめ、ひと呼吸おいてから、噛みしめるように続けた。
「だから二度目の人生では、好きになった人に――エルミニアさんに、今度こそ、この気持ちをきちんと言葉で伝えたいんです」
「~~~~~~っ!!」
まっすぐすぎる殺し文句をまともに浴びせられて、エルミニアは声にならない呻きを漏らし、耳の先まで真っ赤に染めてうつむいてしまった。しばしのあいだ、気まずくも甘やかな沈黙が、二人のあいだへただよう。
二千年という途方もない時を、恐れられ時には尊敬されてこそ…生きてきた彼女にとって、まっすぐに想いを向けられること自体が、あまりに不慣れな経験だった。胸の奥がしきりにざわめいて落ち着かず、その得体の知れない疼きの正体を確かめるのが、エルミニアはなんだか無性に怖かった。
やがて、火照りをごまかすように咳払いをしたエルミニアが、今度は一転して、その目つきを鋭く引き締めた。
「そ、それで……シンよ。お主はこの世界で、いったいこれからどうするつもりじゃ。何をして生きていく?」
「うーん、そうですね……。神様には好きに生きろって言われてますし、強いて言うなら――」
「言うなら……?」
エルミニアが、なぜかわずかに身を硬くして、続きを待つ。
「エルミニアさんと結婚して、幸せに暮らすこと……ですかね」
その言葉を聞いたとたん、口をつけかけていたジュースを、エルミニアは盛大に噴き出した。
「ぶーーーっ!!」
「わわっ、いきなりどうしたんですか、エルミニアさん」
信はすかさずタオルを一枚錬成すると、飛び散ったしずくを、濡れた小卓ごと手早く拭き取ってやった。
「あ、あ、あれはっ……お主の、冗談ではなかったのか!? い、いや、冗談なのじゃろう……?」
「何を言ってるんですか。僕はそんな軽薄な男じゃありませんよ。いたって本気です」
「な、な、なぜ、よりにもよってワシなんじゃ! 女なら、ほかにいくらでもおろうに……っ」
「でも、エルミニアさんはひとりしか…いないじゃないですか? 僕は、エルミニアさんがいいんです。ほかの誰でもない、エルミニアさんじゃなきゃ嫌なんですよ」
「だ、だ、だ、だから、それはなぜかと訊いておるのじゃーー!」
「エルミニアさんを好きになったからに決まってるじゃないですか。好きになってしまったら、もうどうしようもないでしょう? 愛は――この気持ちだけは、理屈じゃないんです」
「~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」
もはや反論の言葉さえ見つからないのか、エルミニアは声にならない悲鳴をあげ、その場でぎゅっと縮こまって、全身を炎のように赤く染めながら悶えていた。
あまりにいじらしいその様子に、信はさすがに言い過ぎたかと、ふっと声の調子をやわらげた。
「……とはいっても、僕は別に、エルミニアさんを困らせたいわけじゃないんです」
おそるおそる顔を上げたエルミニアと、視線がそっと絡み合う。
「この前は、つい勢いにまかせて口走ってしまいましたけど……あれから、ちゃんと反省したんですよ」
「……反省。いったい、何をじゃ?」
「エルミニアさんの気持ちを、これっぽっちも考えてなかったんです。あなたからすれば、たかが半日ばかり前に知り合った男から、いきなりあんなことを言われて、さぞ面食らったでしょうし、困らせてしまったと思います」
信はそこまで言うと、ゆっくりと、けれど深く頭を下げた。
「言ったこと自体に後悔はありません。でも、あれは…あまりにも性急すぎました。……本当にすみませんでした。エルミニアさん」
深々と下げられた信の頭を、エルミニアは真剣なまなざしで見つめながら、ぽつりと、ひとりごとのようにつぶやいた。
「後悔は、ない……か」
「そこで、考えたんです!」
「……なにをじゃ?」
「まずは僕たち……お互いがどういう人間なのか、もっとゆっくり、時間をかけて知っていきませんか?」
顔を上げた信の目は、先ほどまでとは違う、穏やかで誠実な光をたたえていた。先を急ぐのではなく、今度こそ相手の歩幅に合わせて一歩ずつ距離を縮めていく――前世の苦い後悔を経た信は、そう静かに心へ刻んでいた。
「正直、僕はこのグラストヘイムのことも、魔法や魔獣、魔物に魔王のことだって、まだ右も左も分かりません。だから――エルミニアさん、良ければ僕に、この世界のことを、いろいろ教えてもらえませんか?」
「その代わり、僕は僕で、元いた世界のことをたっぷりお教えしますよ。スキルだって、まだまだ検証したいことが山ほどありますし……それに、美味しいごはんだって、いくらでも用意できます」
『美味しいごはん』という一言に、エルミニアの肩が、あからさまにぴくりと跳ねた。
「……美味しい、ごはん……」
「いかがでしょう? エルミニアさん」
真剣そのものの信の眼差しと、たった今知ってしまった地球の味の誘惑とを前に、エルミニアはしばし目を泳がせて悶えていた。異世界から来たというこの得体の知れない若者は、研究者としての探究心をどうしようもなくかき立ててくるうえ、その手が生み出す食事の魅力ときたら、二千年におよぶ禁欲的な暮らしを根底から揺さぶるほどだった。
むろん、胸の奥で妙に高鳴るこの鼓動のことだけは、断じて認めるわけにはいかない。そう己に固く言い聞かせながら、やがて観念したように、彼女はぷいと顔をそむけたまま口を開いた。
「……わ、わかった。わかったのじゃ! シンが、そこまで言うのなら……し、しばらくのあいだ、ここに置いてやらんこともない。その代わり、ワシの魔道研究も、しっかり手伝ってもらうのじゃ!」
「はい、よろしくお願いします。エルミニアさん!!」
律儀に頭を下げる信のことを、エルミニアは正面から見ることができないまま、火照った顔を隠すように、ぷいとそっぽを向いてしまった。そんな彼女のくるくると変わる百面相を眺めながら、信は胸の内で、しみじみと思う。
(……さっきから、真っ赤になったり悶えたり、百面相で忙しいなあ。まったく、なんなんだこの可愛い生き物は……)
最強と恐れられる魔女の、まだ誰も知らないその素顔に、信はもう、すっかり心を奪われてしまっていた。
世界には魔王がおり、戦があり、政治ごとが刻一刻と動いている。だがそんな大それた事情のいっさいは、この小さな家のなかの、たった二人きりの穏やかな時間の前では、まだ何ひとつ始まってすらいなかった。
二人の物語は、世界の命運などおかまいなしに、ここからようやく、その第一歩を踏み出そうとしているのだった。
第五話 了
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