第三話「一目惚れ、いたしました」
薄闇にわだかまる森の只中にあって、その一角だけは、異質なほど穏やかな光をたたえていた。家をぐるりとドーム状に囲うようにして張られた虹色の光の幕は、近くで見るといっそう精緻で、シャボン玉の薄膜のように繊細な輝きを放っている。見る角度をわずかにずらすだけで、その色あいは淡い紫から緑へ、緑から金へと、とめどなく移ろっていった。
「まんまファンタジー世界だ……! ねえ、魔女さん、このキラキラした膜みたいなの、ひょっとして結界ってやつですか?」
「うむ。ワシが許した者しか、その中には一歩も入れんぞ」
「え、それって益々すごいじゃないですか! こんな結界を張れるなんて、そんじょそこらの魔法使いには、絶対に無理ですよね?」
興奮を隠しもしない信の問いかけに、魔女は帽子のつばの下で、まんざらでもなさそうに口の端を持ち上げた。
「まぁ…のう。この階級の結界を張れる者となると、世界広しといえども、ワシくらいのものじゃろうな」
「うわぁ、もう完全に大魔法使い様じゃないですかー! いやほんと、凄すぎますよ…魔女さん」
両手をぶんぶんと振りながら大喜びする信を前に、魔女はどこか調子を狂わされたように、ふいと視線を泳がせた。
「……そうかのう。そんなに手放しで喜ばれたのは、正直、初めてじゃ。なんというか、こう……照れるのう」
長い年月を恐れられ、遠巻きにされてこそきたものの、こんなふうにまっすぐな好意を向けられた覚えなど、魔女にはほとんどなかった。信の無邪気な喜びようは、彼女の胸の奥の、ふだんは決して触れられることのない場所を、くすぐったくあたためていく。
「さぁ、こっちじゃ」
魔女は結界の手前で信に向き直ると、聞き取れないほど低い声で短い呪文を紡ぎ、その指先から溢れた淡い光が、すうっと信の胸へ吸い込まれていった。
「うむ、これでよし」
「……えっと、今のは?」
「この結界を出入りするための、鍵の魔法をお主にかけた。これでお主も、今日から好きなときに通り抜けられるはずじゃ」
「そ、そんなことまで……。ありがとうございます!」
礼を言う信の手を引くようにして、魔女がためらいなく光の幕へ踏み込んでいく。幕は静かな水面のように波打って二人を迎え入れ、くぐり抜けた信の肌を、ひやりと涼しい空気がやわらかく撫でていった。
結界の内側は、外の張りつめた空気が嘘のように和らいでいた。よく手入れされた庭先には、見たこともない形の草花や、淡く発光する茸めいたものが、そこかしこに植わっている。信はおっかなびっくり、それでいて好奇心を抑えきれずに、あちこちへ視線を走らせながら、魔女に導かれて家の中へと足を踏み入れた。
「それじゃワシは、ちょっと荷物を置いてくるでな。そのへんにでも座って、待っておってくれ」
そう言い残して魔女が奥の部屋へ消えると、信はすすめられた木の椅子に腰を下ろし、あらためて家の中をぐるりと見渡した。
天井まで届く古びた本棚には、革表紙の分厚い魔道書がぎっしりと詰め込まれている。その隙間を埋めるように、色とりどりの液体を湛えた硝子瓶や、用途の見当もつかない金属の器具が、所狭しと並んでいた。壁際の暖炉ではとろ火が静かに揺れ、天井から吊るされた無数の乾いた薬草が、部屋じゅうにほのかな苦みのある香りを漂わせている。そのどれもが、信にとっては生まれて初めて目にするものばかりだった。
「……本当に、異世界に来ちゃったんだな」
見慣れない品々に囲まれて、ようやく今になって、信の胸にはじわじわと確かな実感が滲みはじめた。
「今さらだけど……ここからは、まったくの別世界だ。何が起きたって、おかしくない」
わけもなく背筋が伸びてしまい、信は落ち着かない気分で、ごくりと唾を呑み込んだ。
「いやー、待たせてすまなんだ。思いのほか、荷物が多くてのう」
その声に何気なく顔を上げた信は、次の瞬間、雷に打たれたように全身を硬直させた。
部屋に戻ってきたのは、あの大きなとんがり帽子も、体の線を覆い隠すぶかぶかの魔女服も脱ぎ捨てた、まるで別人のような女性だった。ゆったりとした家着に身を包んではいるものの、その薄い布地は、しなやかな体の曲線をかえって際立たせている。
背はすらりと高く、手足はモデルのように長く伸びやかで、腰は細くくびれているのに、胸もとは服の上からでもはっきりと分かるほど豊かに実っている。宵闇を溶かし込んだような滑らかな褐色の肌に、背の中ほどまで流れ落ちる艶やかな銀の髪が匂い立つように映えていて、そのコントラストだけで、思わず息を呑むほどに美しい。
切れ長の双眸は深い紫紺の宝石のように澄んで底光りし、すっと通った鼻筋も、わずかに濡れた紅い唇も、まるで名工が丹精込めて彫り上げた彫像のように整っている。そして何よりも、その銀髪のあいだからは、笹の葉のように長くとがった耳がのぞいていた。
それは紛れもなく、信が焦がれてやまなかったエルフという種族の…動かぬ証にほかならない。
信はしばらくのあいだ、口を半開きにしたまま、身じろぎひとつできずに固まっていた。だが、つい先ほど魔物の幻覚にまんまと騙されたばかりの記憶がよみがえると、彼はおもむろに自分の頬を指でつまみ上げた。力任せに引っぱったり、両手でぺちぺちと叩いたりして、これが夢まぼろしの類ではないのだと、必死に確かめようとしているのだ。
そんな信の奇行を目の当たりにして、魔女はけげんそうに眉をひそめた。
「……なんじゃ? 一体どうしたというのじゃ、お主」
次の瞬間、信の両目からは、堰を切ったように大粒の涙が滝となってあふれ出した。
いたのだ……
神に願ったとおり――いや、それ以上に理想を体現した“エロフなエルフの…絶世の美女”が、今まさに手を伸ばせば届くほど間近に、こうして立っている!! その事実が信の胸を、震えるほどの感動でいっぱいに満たしていった。
「美しい…」
全身をわなわなと震わせ、感極まった様子で天を仰ぐ信の姿に、魔女はますます面食らうばかりだった。
「……エロフなエルフさんが、今、目の前に……っ」
「神様ーーーっ! ありがとうございますーーーっ! ほんの一瞬でも、あなたを疑ってしまって、本当にすみませんでしたーーーーっ!」
「あなたはちゃんと、約束を守ってくださったんですね……! 疑った僕が馬鹿でした、ごめんなさいーーーーーっ!」
なぜか天井の、そのはるか向こうにいるはずの神へと信が声を張り上げるものだから、魔女はぽかんと口を開けたまま、しばし言葉を失っていた。
「い、いきなりどうしたんじゃ、お主……。さっきから、いったい何を謝っておるのじゃ?」
その戸惑いきった声で、信ははっと…我に返った。ごしごしと乱暴に目もとを拭い、乱れた襟もとを正すと、彼はさっきまでの取り乱しようが嘘のように、きりりと表情を引き締める。
「……はっ。し、失礼いたしました。はじめまして、美しきお嬢さん。私は、あの絶界の骸森で魔物に食べられかけていたところを、心優しい魔女様に助けていただいた者でして……名を『シン』と申します。しばらくのあいだ、こちらでご厄介になるかもしれません。どうか、以後お見知りおきを」
言い終えるやいなや、信は腰から上をきっちり九十度に折り曲げ、それはもう惚れ惚れするほど見事なお辞儀をしてみせた。
あまりに丁寧なその挨拶を、魔女はぽかんとした顔で眺めていたが、やがて我に返ると、心底あきれたように口を開いた。
「……はじめまして、じゃと? お主、一体なにを言うておる。その魔物からお主を助けたのは、ほかでもない、このワシではないか。まさか、助けられたことすら、もう忘れてしもうたのか?」
「……はい?」
「そういえば、まだ名乗っておらなんだな。ワシは『エルミニア・クラウエル』。世間ではなにやら、深淵の魔女だの、破滅の魔女だのと、大仰な名で呼ばれておる。ま、以後よろしく頼むぞ、小僧」
「えっ……」
「……んっ?」
しんと静まり返った部屋の中で、信とエルミニアは、たがいの顔をまじまじと見つめ合った。信の頭の中では、目の前の絶世の美女と、森で会ったあのとんがり帽子の魔女とが、時間をかけてゆっくりと、一本の線に結びついていった。そして……
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーっ!???」
信は盛大に驚いた。
「うわっ、ちょ、いきなり大声を出すでない! 耳がどうにかなるじゃろうが……。まったく、何をそんなに驚いておるのじゃ、お主は」
耳を両手でふさいだエルミニアに向かって、信はわなわなと震える人差し指を、まっすぐに突きつけた。
「えっ、えっ、えっ……ま、まさか、あなたが……森で、俺を助けてくれた、あの魔女さん……なんですか!?」
「さっきから、そうじゃと言うておろうが。この期に及んで、まだ疑うのか?」
「お、俺はてっきり……皺だらけのお婆ちゃん魔女だとばかり……」
「まぁ、老婆といえば老婆じゃろうな。なにせワシ、これでも二千年以上は生きておるからのう」
その…あまりに規格外の告白を前に、信の脳内にあった常識という常識は、そっくり処理落ちを起こした。
「ヤッ……ク…………デカルチャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!」
「……なんじゃ、さっきからうるさいのう。何をそう、ひとりでぎゃあぎゃあ騒いでおるのじゃ、お主は」
あまりの奇声の連続に、さすがのエルミニアも、こめかみを軽く押さえて眉をひそめた。
(……こやつを家に連れてきたのは、もしや、とんだ失敗じゃったかのう)
彼女がそんな後悔をちらりと胸によぎらせた、まさにその時のことだった。
それまでの騒がしさが嘘のように、信はすっと真顔になった。驚くエルミニアの手をそっと両手で包み込むと、真剣そのものの眼差しで、彼女の顔へぐいと自分の顔を近づけていく。
いきなり距離を詰められたエルミニアは、二千年を生きてなお経験したことのない類の動揺に、かあっと頬を赤らめてうろたえた。
「なっ、な、なんじゃ……? お、お主、近い、近いぞ……っ」
「魔女さん……いや、たしか、エルミニアさん、といいましたね」
「そ、そうじゃが……って、近い、近い、近すぎるぞ、お主……っ!」
「エルミニアさん…」
「な、なんじゃ……」
その名を呼んだきり、信の言葉が一瞬だけ途切れた。喉もとまでせり上がってきた想いを口にするべきかどうか――ためらいが、ほんのわずかに彼の胸をよぎる。だがその逡巡の裏側から、忘れたくても忘れられない、あの日の光景が音もなく立ちのぼってきた。
脳裏によみがえったのは、病室のベッドで痩せ細っていった妻の最期のまなざしだった。
「言ってくれないと、分からないじゃない。あなたはいつもそうだった……」と涙ながらに告げて背を向けた、あの細い肩を信は今もありありと覚えている……
言わなくても伝わるはずだと高をくくり、感謝も愛おしさも何ひとつ言葉にしないまま、信は取り返しのつかない後悔だけを抱えて、前世を終えてしまったのだ。
(……もう二度と、あんな思いはしたくない。しなくてすむように、俺は生き直すと決めたんだ!!)
好きな人にこそ、想いは隠さずまっすぐ言葉にして伝える――それこそが、二度目の生を歩むと決めたときに信が自分自身と交わした…たったひとつの約束だった。
たとえどれほど不格好でも、相手を面食らわせてしまうとしても、伝えないまま大切なものを失うくらいなら、みっともなく叫んだほうがよほどましだと、今の信は心の底から思う。
二千年を生きる魔女を前に信は静かに、しかし揺るぎなく覚悟を決めた。
震えそうになる声を腹の底から押し出すようにして、彼はまっすぐに、エルミニアの深い紫紺の瞳を見つめ返す。
「僕は、あなたに――一目惚れしてしまいました!!!」
「……は、はい……?」
「どうか僕と……」
「結婚してください……!!!」
「け、け、け、けっ……けっこん…………っ!?」
顔を真っ赤に染め上げ、口をぱくぱくと動かすことしかできないエルミニアと、その正面で微塵も揺るがぬ真剣な眼差しを注ぎつづける信。
出会ってわずか半日で飛び出したこの求婚の言葉こそが、二千年以上を魔道研究に捧げて生きてきた最強の魔女の運命を、静かに…そして決定的に狂わせていく引き金となるのだった。
第三話 了




