第二話「絶界の骸森と、とんがり帽子の魔女」
まばゆい光の奔流がふっと途切れると、信は湿った土と青くさい草の匂いを鼻先に感じながら、見知らぬ地面の上へ静かに立っていた。
まず彼がしたのは、自分の両手をまじまじと見つめることだった。しわの寄っていたはずの手の甲はなめらかに張りつめていて、握って開いてを繰り返すたびに、若い筋がしなやかに動くのが見てとれた。
おそるおそる腰をひねってみても、長年つきまとってきたあの鈍い痛みはどこにも見当たらず、肩を大きく回しても、鉛のように重かったこりが嘘のように消え失せている。
(……嘘だろ。腰が、痛くない。肩も軽い。……腹だって、へこんでるじゃないか!)
二十歳の肉体は五十四年ぶんの疲労と衰えをまるごと巻き戻したかのように軽やかで、信はしばらく我を忘れ、その場で伸びをしたり屈伸を繰り返したりしていた。ひとしきり若返った体に感動してから、信はようやく周囲へと目を向けた。
そこは、人の手など一度も入ったことのなさそうな深い森の底だった。頭上を幾重にも覆う枝葉がわずかな陽光さえ食い止めていて、あたりは真昼だというのにうそ寒い薄闇に沈み、数歩先の下生えすらもやのように霞んでいる。遠くの木立の奥からは、名も知れぬ獣の低い唸りが不気味に響いてきて、そのたびに信の背筋を、ぞくりとした冷たいものが這い上がった。
「……えっ、ここどこ? 美人でエロフなエルフさんなんて、どこにもいないじゃないか!」
信は思わず声に出し、ぐるりと首をめぐらせた。
「人が分け入った跡もないし、なんかもう、やばい気配しかしない。……これ、絶対にとんでもない魔境ってやつだよな?」
「あの神様…よりにもよって、なんて場所に落としてくれたんだよ、まったく……!」
ぼやいてはみたものの、立ち尽くしていて事態が好転するわけもなく、信は覚悟を決めて、一歩ずつ慎重に森の奥へと足を踏み出していった。
どれほど歩いただろうか、張りつめていた神経がわずかにゆるみかけたころ、どこからともなく、うっとりするほど甘い香りがふわりと漂ってきた。
むせ返るような花の匂いに導かれて顔を上げた信の目の前に、薄闇を割るようにして、ひとりの女性の姿がぼうっと浮かび上がった。
透けるような白い肌に腰まで流れる艶やかな金の髪、その頭にはすらりと長くとがった耳が覗いていて、まさしく彼が神に願ったとおりの、絶世のエルフそのものだった。
彼女は花のような微笑みを浮かべ、こちらへおいでと言わんばかりに、ほっそりとした手をそっと差し伸べてくる。
「え……エルフさん!? ほ、本当にいた……! 神様、ありがとう!」
願いが叶ったという歓喜に胸を高鳴らせて、信は前後の見境もなく、その美しい幻へと駆け寄ろうとした――まさに、その瞬間だった。
足元の枯れ葉を突き破り、無数の黒い茨が音もなく鎌首をもたげた。それらは生き物のようにうねりながら信の手首と足首へ次々と巻きつき、抗う間もあらばこそ、その体を冷たい地面へがっちりと縫い止めてしまう。
目の前で慈愛に満ちて微笑んでいたはずのエルフが、みるみるうちに輪郭を溶かし、どす黒い花弁を無数に開いた異形の植物へと変わり果てていく光景に、信の背筋がぞっと凍りついた。あの甘い香りも、優しい微笑みも、すべては獲物の脳を痺れさせて抵抗を奪う、植物型の魔獣が撒いた胞子が見せた幻覚にすぎなかったのだ。
「う、うそだろ……って、あれ? 体が動かない、っていうか、これ根っこじゃん! 完全に騙された――っ!」
罠にかかった獲物を逃すまいと、茨はいっそう強く食い込んで骨を軋ませてくる。花の中心にぽっかりと開いた不気味な口が、獲物を丸ごと呑み込もうと、ぬらりと信のほうへ迫ってきた。
せっかくもらったスキルも、頭に思い浮かぶばかりで、痺れきった指先はぴくりとも動かない。刻一刻と迫りくる死の気配に、信の全身から冷たい汗が噴き出した。
もはやこれまでかと信が固く目を閉じた、まさにその刹那のことだった。
どこからともなく涼やかで張りのある声がひとつ響いたかと思うと、闇の奥から放たれた一条の緑の光が、魔獣の根元へすっと吸い込まれていった。
「――やれやれ、とんだ悪食じゃな」
次の瞬間、信を捕らえていた魔獣が内側から突き上げられるようにびくりと震え、爆発的な勢いで枝を伸ばし幹を膨らませて、天を衝かんばかりの大木へと見る間に生長していった。だがその成長はあまりに速く、細胞の分裂に養分の供給がまるで追いつかず、暴走した生命は行き場をなくして、みずからの重みに耐えきれなくなっていく。
限界まで膨れ上がった巨躯は、めきめきと軋んだあげくに自らの重量を支えきれず、内側から乾いた音を立てて崩れはじめた。瑞々しかった緑はみるみる色を失い、やがてさらさらとした灰白色の木灰となって、風に溶けるように音もなく崩れ落ちていった。
全身に食い込んでいた茨も宿主を失って力なくほどけ落ち、地面に膝をついた信が荒い息を整えながら顔を上げた。
すると薄闇の向こうから、やたらと大きなとんがり帽子をかぶった人影が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。
「何ゆえこんな危うい場所に、人族が…それもたった一人でおる?」
ぶかぶかとした魔女服に身を包み、顔の半分を帽子の影に隠したその人物は、心底ふしぎそうに首をかしげながら、信の顔を覗き込んできた。
「……あー、その……転生先をお願いしたら、いきなり、こんなとこに放り出されまして」
助かった安堵と、目の前で起きた非常識な光景への混乱とで、信の口からは考えるより先に、ありのままの言葉がこぼれ落ちていた。
「転生……じゃと?」
その一言に、帽子の下の瞳が、ぴくりと反応したのが分かった。ようやく息が整ってきた信は、自分を助けてくれたのがこの人物だと察すると、勢いよく立ち上がって、深々と頭を下げた。
「あの、助けてくださったんですよね! ありがとうございます、本当に救われました!」
「……ふむ。ずいぶんと礼儀正しい若者じゃのう。よいことじゃ、ワシは礼を尽くす者が好きじゃぞ」
「ありがとうございます。……ところでつかぬことをお聞きしますが、魔女さんは…ずっとその喋り方なんですか?」
「そうじゃが、それがどうかしたかの?」
「いやー、なんというか……神様と、ちょっと被るなーと思って」
信は照れ隠しのように、ぽりぽりと後頭部をかいた。
「神様、じゃと……?」
その言葉を聞いた魔女は今度こそはっきりと動きを止め、帽子の下から、値踏みするような鋭い視線を信へ向けてきた。
「……ふむ。お主、どうやら事情がありそうじゃな。どうじゃ、お主さえよければ、ワシの家に来んか? その様子では、行く宛もないじゃろう?」
「この森の奥地にワシは住んでおるんじゃ」
「えっ、いいんですか!? 助かります、ぜひお願いします!」
二つ返事で頷いた信だったが、その古めかしい口ぶりから、この魔女のことを皺だらけの老婆にちがいないと、頭の中で勝手に決めつけてしまっていた。
魔女の家へと向かう道すがら、信は森の歩き方から魔獣の見分け方まで、実に細やかなレクチャーを受けることになった。話の途中で茂みから飛び出してきた牙だらけの魔獣を、魔女が指先のひと振りだけであっさりと吹き飛ばしてみせると、信は思わず声をあげた。
「指先ひとつでダウン、まるで某拳法漫画のようだ!」
「んっ、けんぽう??」
「ひょっとして、今のって魔法ってヤツですか!? すごい、すごいです!」
「……お主、もしや魔法を見るのは初めてか?」
「はい、生まれて初めて見ました! 魔女さん、かなり高位の魔法使いっぽいなー。 魔法のことなんてさっぱりな自分でも、その凄さの片鱗くらいは、びしびし伝わってきます! いやー、本当にすごいや」
手放しの称賛を浴びせられた魔女は、帽子のつばをくいと引き下げて表情を隠しながら、どこかそわそわとした声で応じた。
「そ、そんなに凄いかのう……。こ、こんなもの、ワシにとっては児戯に等しいのじゃがな」
まんざらでもない様子の魔女は、それから道々に現れる魔獣を次から次へと魔法で狩り立てていった。そのたびに信が惜しみない拍手を送るものだから、二人の歩みはいつしか、ちょっとした見世物めいた陽気なものになっていった。
「ときに小僧。お主、自分がどこへ落ちたか分かっておるのか? ここは〈絶界の骸森〉――人の世から完全に切り離された、この世でもっとも古い原生林じゃ」
「ぜっかいの……がいしん?」
「左様。ひとたび足を踏み入れれば、濃すぎる魔力が方位も磁場もぐちゃぐちゃに狂わせ、どれほど腕利きの冒険者とて、二度と生きて外へは戻れん。ここに棲む魔獣は、どれもこれも生態系の頂点に立つ化け物ばかりでな。迷い込んだ人間なんぞ、あやつらにとっては獲物ですらない、ただの『歩く栄養』にすぎんのじゃよ」
森のさらに奥へ進めば、数千年ものあいだ迷い込んで命を落とした無数の生き物の骨が、朽ちることもなく地層のように折り重なっているのだという。その凄惨な骨の海こそが、この森に〈骸森〉という忌まわしい名を与えた由来なのだと、魔女は事もなげに付け加えた。
「『歩く栄養』って……。危うく自分、その骨の山に仲間入りするところだったんですね……」
「ときに魔女さんは、どうしてそんな物騒な森で暮らしてるんですか?」
「ワシは長年、魔道の研究を続けておってな、その材料を集めるには、ここが何よりの宝の山なのじゃ。わざわざ市場で買い集めるより、自分の足で採りに来たほうが、よほど早いというものよ」
「なるほど、それは合理的ですね。この森なら来る人もほとんどいないでしょうし、誰にも邪魔されずに、じっくり研究へ打ち込めそうだ」
「……ほう。おぬし、なかなか物の分かるヤツじゃのう」
「いい仕事をしたいなら、環境って大事ですよ。集中できる場所があるかどうかで、成果はまるで変わってきますから」
何気ない信の言葉に、魔女はしばし黙り込んでから、感心したように何度も頷いた。
「いい仕事をしたければ、いい環境を、か……。ふむ、若いに似合わず、なかなか見どころのあることを言う小僧じゃ」
「そうですか? でも、こんな場所であなたに助けてもらえたのは、本当にラッキーでした」
「……ら、らきー? はて、聞き慣れん言葉じゃな。おぬしはどうも、面白い言い回しをするのう」
「あ、ラッキーっていうのは、『自分のいた世界』で幸運を意味する言葉なんです」
『自分のいた世界』というさりげない一言に、魔女の足がほんの一瞬だけ止まった。転生や神、異世界といった言葉の断片は、どれもこれも常人の口から出るものとは思えなかった。
この珍妙な若者は、彼女の長く魔道を研究してきた探究心を、静かに、しかし確実に刺激しはじめている。
(こやつ、一体なにものじゃ……? 魂の色は、まぎれもなく善良。じゃが、まとう気配がどうにも尋常でない。悪意はない……ないが、このまま放っておくには、いかんのう)
やがて、鬱蒼と続いていた木々がふいに途切れ、ぽっかりと開けた空間が二人の前に姿を現した。
「さあ、着いたぞ。久方ぶりの客人じゃ、我が家へようこそ、と言うておこうかの!」
信が思わず息を呑んだのは、その開けた場所の中央に、絵本からそのまま抜け出してきたような一軒の家がひっそりと佇んでいたからだった。ねじれた煙突からは紫がかった煙が細くたなびき、苔むした屋根には色とりどりの薬草が這うように茂っている。
窓辺にいくつも吊るされた中身の見えない小瓶までもが、信の思い描いていた“魔女の隠れ家”の像と、寸分たがわず重なっていた。
そしてなにより信の目を引いたのは、家とその周囲をすっぽりと包み込む、薄い石鹸の膜のような、ほのかに虹色を帯びた半透明の光の幕だった。
触れれば消えてしまいそうなほど繊細でありながら、その内側からは魔獣の気配も森の湿気もいっさい感じられず、それが並の術者には決して張れない強力な結界であることを、理屈は分からずとも信は肌で理解した。
「うわあ……! まんまファンタジーの、魔女の隠れ家だ……! すごい、すごいですよ魔女さん、最高だ!」
声を弾ませて目を輝かせる信を、魔女は帽子の陰から、どこか面映ゆそうに、けれど満更でもなさそうに見つめていた。
こうして、世界を揺るがすほどの最強の魔女と、後悔を胸に生き直す一人の転生者との奇妙な出会いは、本人たちのあずかり知らぬところで、静かにその幕を上げようとしていた。
第二話 了




