第一話「後悔のない転生を」
その日、丸山信はめずらしく定時で仕事を切り上げ、夕暮れに染まりはじめた街並みをのんびりと歩いていた。五十四を数えるこの身にとって、明るいうちに帰路につくのは何年ぶりかも思い出せないほどで、傾きかけた陽の光が妙にまぶしく、頬をなでる初夏の風さえどこか懐かしく感じられた。
横断歩道の手前で信号が変わるのを待っていると、すぐ隣には大きな買い物袋を両手に提げた若い妊婦がいつのまにか並んでいて、彼女はふくらんだお腹をいたわるようにそっと片手を添えながら、青に変わるのを静かに待っていた。信はその横顔をちらりと見やり、来月あたりに生まれるのだろうかと、他人ごとながらほんの少しだけ心が和んだ。
そのときだった。
甲高いエンジン音が鼓膜を突き刺し、信が音のした方へ反射的に顔を向けた瞬間、猛烈な速度で突っ込んでくる一台の乗用車が視界いっぱいに膨れ上がってきた。運転席にへばりついているのは青ざめた老人の顔で、ハンドルにしがみついたまま、アクセルとブレーキを踏み違えたのか、鉄の塊はまるで意思を持った獣のように歩道へと躍り上がってきた。
避けろ、と全身が叫ぶよりも早く、信の視線は隣で凍りついたように立ちすくむ妊婦へと吸い寄せられていた。彼女は迫りくる死を前にして、逃げることも声を上げることもできず、ただ両手で腹をかばったまま棒立ちになっている。考えるより先に、信の腕はもう伸びきっていた。
ありったけの力で妊婦の背中を突き飛ばし、その体が歩道の内側へと転がり込んでいくのを視界の隅にかろうじて捉えた次の瞬間、信の体には避けようのない衝撃が正面から叩きつけられ、目の前の景色が白と赤にはじけ飛んだ。
宙へと投げ出された体が奇妙なほどゆっくりと回転していくなか、信の脳裏には色あせた記憶の断片が、まるで古いフィルムのように次々と駆け抜けていった。二人の娘の泣き声とその小さな手のぬくもり、家電を売るために頭を下げつづけた無数の商談、そして――病室のベッドで痩せ細っていった妻の、最期の言葉。
「あなたはいつも自分のことばかりだった」
そう告げられたとき、信は初めて気づいたのだ。忙しさを言い訳にして、感謝も、愛情も、何ひとつ言葉にして伝えてこなかった自分に。言わなくても分かるだろうと高をくくっていた傲慢さが、どれほど深く彼女を傷つけていたのかに。慌てて本心を口にしても、もう遅かった。
「きちんと言葉にして言ってくれなきゃ、分からないじゃない」という涙まじりの声を残して、妻は逝ってしまった。
(あぁ、俺はもう助からないんだな)
薄れていく意識の底で、信はふしぎと静かにそれを受け入れていた。
(これで、あいつのところへ行けるのか。……それとも、ラノベみたいに異世界へ転生でもするのかねぇ)
死の間際だというのに、そんな益体もない考えが浮かんでしまうあたり、我ながらどうかしていると信が胸の内で苦笑した――その刹那、しわがれた声が頭の奥へ直接響いてきた。
『おぬし、異世界転生に興味があるようじゃな。よし! かなえてやろう』
「……はっ?」
気がつくと、信はどこまでも白い空間の中に立っていた。上も下も前も後ろも、境目のない乳白色にただ茫漠と満たされていて、痛みも寒さもいっさい感じられず、足の裏だけが確かな床の感触を伝えてくる。そして眼前には、白く長い髭をたくわえた老人が、いかにも神様然とした穏やかな笑みをたたえて宙に浮かんでいた。
「よう来たな、丸山信よ」
神と名乗るその老人は、信の戸惑いなどとうにお見通しといった様子で、ゆったりと語りかけてきた。
「ここは生と死の狭間じゃ。お主はたった今、地球での命を終えたのじゃよ」
「……やっぱり、俺、死んだんですね」
「うむ」
「あの……俺が突き飛ばした妊婦さんは、どうなりましたか? 助かったんでしょうか」
「案ずるな、大した怪我もなく無事じゃよ」
「……そうですか。よかった……それを聞いて安心しました」
「ふむ、自分のことより他人の心配か。お主は本当に善い奴じゃな。やはり、お主を選んで正解であったわい」
「神様にそう言ってもらえるなら、少しは浮かばれますよ」
信は自嘲気味に苦笑した。
「うむ。では本題じゃ。お主にはこれから、儂が管理する世界で第二の人生を歩んでもらう」
長年の営業で鍛えられた性分ゆえか、信の頭は不思議と冷静で、こういうときこそ相手の意図を確かめるべきだと、彼は真っ先に問いを投げた。
「なんで、俺なんですか? わざわざ転生させてくれる理由が分からない」
「よい問いじゃ」
神は満足げにうなずいた。
「おぬしにはやり直したいという強い悔いが見えた。魂も善良じゃった。おまけに異世界転生を望んでおったろう? 昨今の地球で流行っておるあれに、儂の世界でも乗っかってみようと思うてな。じゃが、いざ候補者を探すとなると、これがなかなか良い人材がおらんのじゃ。地球の神には話を通してあるゆえ、そこは安心せい」
「ずいぶんと……ぶっちゃけますね」
「ふぉっふぉっ、おぬしに隠したところで、儂はなんら困らんからのう」
神と聞いて身構えていた信だったが、この老神はどうにも人間くさく話が早く、思わず頬がゆるんでしまった。
「で、俺を転生させて、何をやらせたいんですか」
「特にない」
「ない?」
「うむ、ない。おぬしはいわばテストケースじゃ。今後おぬしがどう生きるかを見て、本格的に転生者を増やすかどうかを決める。単なる思いつきゆえ、大層なことは考えておらん――今のところはな。好きに生きるがよい。ただし、あまり悪さはするでないぞ」
好きに生きよ、という言葉が、信の胸の奥で思いのほか重く響いた。前世では、好きに生きるどころか、大切なものを大切だと伝えることすらできなかった。そう思うと、信は静かに拳を握りしめていた。今度こそ同じ後悔は繰り返さず、あの日と同じ過ちを二度と犯すまいと、彼はこの新しい生に固く誓ったのだった。
「世界の名は、グラストヘイムという」
神は虚空に指を滑らせ、そこへ青く輝く球体を描き出した。
「魔法があり、魔物がおり、魔王と勇者がいる――お主のいた世界の物語で言う…ファンタジーと呼ばれる世界じゃ。ただし、『スキル』と呼ばれる特別な力を持って生まれる者はごくわずかでな。ひとつでも持っておれば、それだけで重宝がられるほどには珍しい」
「なるほど……だったら神様、お願いがあります」
信の目つきが、ここで営業マンのそれに変わった。
「わけの分からない世界に放り込まれるんです。まずは安全の確保が最優先だ。スキルをいくつかいただけませんか?」
「ほう、遠慮を知らんのう。まあよい、とりあえず…どんなスキルがほしいか言うてみよ」
何をもらうべきか――信は腕を組み、しばし思案に沈んだ。頼れる者などいない異世界で最優先すべきは、華々しく戦う力ではなく、まず確実に生き延びるための備えにほかならないと、営業で培った現実的な計算が頭の奥で音もなく回りはじめた。
飢えず、道に迷わず、危険からは真っ先に逃げ出せること――必要な条件をひとつずつ数え上げてから、信はようやく口を開いた。
「まずは、荷物を好きなだけしまっておけるスキルがほしい。食料でも水でも、腐らせずに持ち運べたら心強いです」
「ふむ、『アイテムボックス』じゃな。容量を無限にして、中の時を止めておいてやろう。これなら生ものの類も、入れたときのまま傷まぬぞ」
「助かります。次に……できれば、地球にあった物を作り出せる力を」
「『魔力創造』か。じゃがな…信よ」
ここで神は、ふと真顔になった。
「素のままの魔力創造は、本来おぬしら人間が扱ってよい代物ではない。無から有を生み出す神の御業に等しく、まともに背負えば、その魂は瞬く間に焼き切れてしまうぞ」
「じゃあ、俺には無理だと?」
「いや、範囲を絞ればよいのじゃ。生み出せるものを『地球にある物』だけに限定し、そのうえで設計図の補正を儂が添えてやる。そうすれば人の器でも御せるようになり、力そのものも小さく圧縮できる。一石二鳥というやつじゃな」
「おぉー! なるほど。絞りこむことで、安全にも、軽くもなるわけですね」
『限定する』という発想が、信の中でひとつの指針として定まった瞬間だった。
「それでは…同じ理屈で、目のいいスキルもお願いします。物の良し悪しを見抜いたり、遠くや暗がりまで見通せたら、危険を先に察知できる」
「『天眼』じゃな。ただし、これも素のままでは万物の理の底までを覗いてしまい、人の精神ではとても正気を保てぬ。ゆえに用途を絞り、鑑定・望遠・透視・暗視、それに魔力を視る力など…に絞った『限定天眼』としよう」
「ぜひそれで。……あと言葉が通じないと、そもそも生きていけません。現地の言葉を理解できる力も」
「よかろう。じゃが、ただ『言語理解』とだけ願えば、獣の唸りも、草木のざわめきまでもが“言葉”として四六時中流れ込んでくるぞ。それでは遠からず、頭がどうにかなってしまう」
「うわ、それは勘弁願いたい。……じゃあ、人の言葉だけに絞ってください」
「うむ、それが賢い。人種に限った『限定言語理解』とすれば、余計な雑音も消え、容量もぐっと軽くなる」
ひとつ願うたびに、神は必ず“絞りかた”を添えてくる。過ぎた力は器を焼き、限定してこそ人の身に宿るのだと、信は交渉を重ねるうちにその要領を呑み込んでいった。
「最後に、いざというとき逃げ出せる力を。危ない場所から一瞬で離れられたら、命拾いする場面も多いはずだ」
「それは『時空間操作』じゃな。これもまた神域の力ゆえ、丸ごとは持たせられん。使い道を絞った『限定時空間操作』として、離れた場所へ跳ぶ転移に、空間そのものを断ち切る空間断裂、限定時間操作、身を守る結界、敵を封じる封印など……このあたりまでを授けておこう」
「至れり尽くせりです。あと…日々の暮らしを支える生活魔法も一式お願いします!」
「うーむ、ダメじゃな。信よ。生活魔法は無理じゃ。魔法を使うこと自体が、思いの外…容量を使うようじゃ」
「そうですか。魔法は少し興味がありましたが…仕方がないですね。限定魔力創造で地球産の物を作り出しで代用します」
「うむ、それがよかろう!」
神が指を鳴らすたびに、信の魂へと色とりどりの光の粒が吸い込まれ、そのひとつひとつが確かな力の輪郭を結びながら、胸の奥へ静かに根を張っていくのが感じられた。
「……ふむ。これだけ限定と圧縮を重ねてなお、おぬしの器はもう一杯じゃ。おかげで地上に降りれば魔法を覚えるのは難しかろうし、実質、魔法使いにはなれんぞ。魔力を操ること自体はできるがな」
「かまいません。使うにしても覚えるまで、時間がかかりそうな魔法より、確実に俺を守ってくれる力のほうが、よほどありがたい」
理想は目的として高く掲げ、実利は手段として着実に握る。それが、信という男の一貫した流儀だった。
「しかし、お主は注文の多い男じゃな……。まぁ、よかろう。今回はテストケースへのサービスじゃ」
そこまで言って、信はふと真顔になり、声をひそめた。
「……神様。もうひとつ、どうしても外せないスキルがあります」
「なんじゃ、あらたまって」
「『絶倫』スキルをください」
「……はい?」
さすがの神も、白い眉をぴくりと跳ね上げた。
「おぬし、なぜよりにもよってそんなスキルを欲しがる。変わっておるのう」
「変わってなんかいませんよ」
信は、なぜか遠くを見つめていた。
「前世では……淡泊すぎて、辛い過去があるんですよ。いろいろと寂しい思いをさせてしまったんです。自分にも…相手の女性にも、もちろん妻にも…」
「はぁ………」
「……そ、そうか。よう分からんが、随分と思い詰めとるようじゃのぅ。その執念だけは、しかと伝わってきたぞ」
「して…体はどうする。赤子からやり直すこともできれば、二十歳ほどの青年に、性別を変えることも思いのままじゃ」
「いきなり赤ん坊はきついんで、二十歳の青年で。性別は、今のまま男でいいです」
「欲がないのか欲深いのか、よう分からん男じゃな」
「では、転生先はどうする?」
「その前に神様、是非…確認したいことが」
信は身を乗り出した。
「その世界にダークエルフとか、エルフとか、ハイエルフとかっていますか?」
「なんじゃ、そのエルフ限定の妙な質問は」
「地球のファンタジーだと、エルフってのは一種の憧れなんですよ。しかも、みんな美形ときてる」
「ふむ、まあ確かに、エルフは他の種族に比べて美形ぞろいではあるな」
「それじゃあ――」
信は一拍おいて、実にすがすがしい笑顔で言い切った。
「美人で、エロフなエルフさんのいるところへ、お願いします!!」
「おぬしは、ほんに遠慮というものを知らんのう……」
「どうせテストケースなんでしょう? まずければ、あとで修正すればいい。それに、神様にお会いできるのも、たぶんこれが最初で最後だ。ここで遠慮したって、損をするのは俺だけですよ。――もう、後悔はしたくないんです」
「後悔はしたくない、か」
その一言を聞いた神は、ふっと目を細め、どこか眩しいものでも見るように信を見つめた。
「よかろう。その心意気、しかと受け取った。おぬしの望みどおりの地へ送ってやる。今生を、精一杯生きるがよい。――儂はずっと見ておるからな」
「グラストヘイムの神様、ありがとうございました!」
信は深々と、日本人らしく折り目正しく頭を下げた。次の瞬間、足元の白い床がやわらかく崩れ、彼の体は光に包まれて、見知らぬ世界の空へと静かに落ちていった。
ひとり白い空間に残された神は、遠ざかっていく光の粒を見送りながら、髭をなでてつぶやいた。
「昨今の異世界ブームに乗って、儂の世界にも転生者を招いてはみたが……はてさてどうなることやら。まあよい、退屈しのぎにはちょうどよかろうて…」
そしてその笑い声だけが、いつまでも白い空間にこだましていた。
「ふぉっふぉっふぉっふぉっ――」
第一話 了
なんかまた新作を始めてしましました(;´▽`A``
今後は不定期連載になるとおもいます。
ひっそりのんびり書いていきます( ̄▽ ̄;)




