第二十話「準備は、必要です」
拍手が鳴りやまぬうちに、エプロン姿のエルミニアは、いそいそと家着の袖をまくりあげていた。
「よし。ではやるか」
「え」
「婚姻魔法じゃ。ワシがやる」
あまりの手際のよさに、シンのほうが目を丸くした。
「あのー準備とか、いらないんですか?」
「要らん」
「え」
「ワシがやる。それで事足りる」
数百年をかけて転移の術式を編み、千年をかけてこの森の結界を張り巡らせた研究者が、こと自分の婚姻魔法に限っては、一秒たりとも待つ気がないらしかった。石橋を叩いて叩いて渡らぬような慎重さで生きてきた女が、いまばかりは、驚くほど性急だった。
(早う。早うせねば、こやつの気が変わるかもしれん)
(長い年月、独りじゃった。……もう、少しも待てぬ)
思えば、この女がここまで何かを急いたことなど、久しくなかった。魔法の研究においては、百年の遠回りも厭わず、失敗を積み重ねることこそを尊んできた。石橋を叩いて叩いて、それでも渡らぬような慎重さで、彼女はこれまでを生きてきたのである。それが、こと自分の婚礼となると、まるで別人のように、指の先までそわそわと落ち着かなかった。
彼女の内心を知る由もないシンは、しかし、そっと片手を上げて、その意気込みを押しとどめた。
「――準備は、必要です」
「……?」
エルミニアは、心の底から、彼が何を言っているのか分からなかった。杖を握り、術式を思い浮かべ、あとは魔力を通すだけである。そこにいったい何の準備が要るというのか。
*
この世界において、婚姻とは、婚姻魔法によって成立するものだった。
二人の魂を結ぶその術式は、通常であれば教会が執り行い、神官の手を借りて発動される。式のあとには、親族や村の者たちを招いての、ささやかな祝いの席が設けられるのが習わしだった。もっとも、力のある者のなかには、そうした場を持たず、自分たちだけで行い夫婦になってしまう変わり者も、稀にはいたのだが。
いずれにせよ、術式を撃てばそれで済む。書類も着替えも誓いの言葉すらも、この世界では要らなかった。
だからこそ、シンが「準備が要る」と言い出したとき、エルミニアには、その言葉がまるで異国の呪文のように聞こえたのだ。魂を結ぶという一大事の前に、着替えなどという些事が割り込んでくる道理が、彼女の理屈のどこにも見当たらなかった。
「地球には、あったんですよ」
シンは、庭の椅子に腰を戻しながら、穏やかに切り出した。
「結婚式って言うんですけどね。……魔法には、なんの関係もありません。得にもならないし、魔力だって一滴も節約できません」
彼は、少し照れくさそうに、それでも真っすぐに言った。
「……それでも着るんです。ちゃんとした服を、着るんですよ」
エルミニアは、まったく合点のいかぬ顔をしていた。
「なんじゃ、それは。無駄ではないか」
「それは考え方次第です。僕は全く無駄とは思いません」
シンはそう言って笑った。
「でも、そういうものが、僕には、僕たちには大事なんだと思うんです」
その言葉の意味を、このときの彼女は、まだ半分も理解していなかった。
*
その日、『結界の楽園』のメイドたちは、生まれて初めて、掃除でも洗濯でも料理でもない仕事を与えられた。
いつもは廊下を磨き、庭を刈り、厨房で魔獣を捌いている十六体が、そろって一人の女を取り囲んでいる。かつて「なんじゃこれはーーー!!」と絶叫して迎えたその相手の手で、いまエルミニアは、着替えさせられようとしていた。
まず、シンが『限定魔力創造』で、一着のドレスを紡ぎ出した。
家を建てたときも、十六体の従者を生み出したときも、伝説の秘薬すら、彼はほんの数秒で創ってのけた男である。だがこの一着にだけは、彼はひどく時間をかけた。裾のひだの落ち方を確かめ、袖の丈を測り直し、幾度も光にかざしては、また少し手を入れた。仕上がったのは、飾りたてるでもない、けれど気品だけを静かに宿した、純白のドレスだった。
「……なんじゃ、ずいぶんと丁寧に作るのじゃな。いつもは、ぱぱっと済ませるくせに」
訝しげに覗き込んだエルミニアへ、シンは布地から目も上げずに答えた。
「これは、ぱぱっとやったら、ダメなんですよ」
その横顔が妙に真剣で、彼女はそれ以上、茶々を入れられなくなった。
卯月が、その銀の髪を、丁寧に梳きあげていく。長く手入れもされずにいた髪が、櫛を通されるたびに艶を取り戻し、灯りを受けて、一筋ずつ光の糸のように流れていった。
弥生は、庭から摘んできたばかりの白い小花を、その髪へ編み込んでいく。
メイドたちが化粧の担い手を勤め、細い筆を手に、彼女の顔へそっと色を重ねていった。長いあいだ、素顔のまま風雪に晒されてきたその頬に、生まれて初めて紅がのる。
神無月が、無言のまま、白いヴェールの位置を整えた。
そして睦月が、最後に一歩下がって、その全体を確かめると、深く腰を折った。
「――奥様」
「大変、お似合いでございます」
*
姿見の前へ、彼女は導かれた。
鏡の中には、一人の花嫁が立っていた。
褐色の肌に純白がよく映え、結い上げた銀の髪には白い花が揺れ、伏せた睫毛の陰に、深い紫紺の瞳が濡れたように光っている。それは、どこかの高貴な家に生まれ、慈しまれて育った姫君のような姿だった。
エルミニアは、それが誰なのか、しばらく分からなかった。
思い返せば、彼女がまとってきたのは、いつも大ぶりのとんがり帽子と、体の線を覆い隠すぶかぶかの魔女服ばかりだった。以前、シンに戦装束を着せられたときでさえ、彼女は落ち着かずに裾ばかり気にしていた。長い年月、この女は、自分を飾るということを、あまりしてこなかった。
いや、それだけではない。
この女を、女として見た者が、そもそもごく少数しかいなかったのだ。誰もが彼女に、破滅の魔女という力だけを見た。近づいてくる者の目には、必ず怯えか、あるいは力への欲があって、その奥にいる一人の女を見ようとした者は、ほとんど現れなかった。だから彼女自身も、いつしか自分を、ひとりの女として眺めることを、すっかり忘れてしまっていた。
鏡など、術式の道具でしかなかった。そこに映る自分の顔を、こうしてまじまじと見つめたことなど、いったいいつ以来だろうか。思い出そうとしても、記憶の底には、もう何も残っていなかった。
鏡の中の女を、彼女は、まじまじと見つめた。
「…………誰じゃ、この美女は」
長い、長い沈黙が落ちた。
彼女は、ゆっくりと、自分の頬に手を触れた。
鏡の中の女も、まったく同じ動きで、頬へ手をやった。
「…………………………」
「ワシじゃった――――――ッ!?」
絶叫が、結界の楼閣に反響した。
膝から力が抜け、彼女はその場へへなへなと座り込んでしまう。慌てて卯月と弥生が両脇を支え、崩れかけたドレスの裾を、神無月がすばやく直した。
「……ワシは、こんな化粧映えのする顔をしておったのか」
支えられたまま、彼女は呆然と呟いた。
「化粧をして、これほど着飾ったことなど、長らくなかったのじゃ。……いや、そもそも、一度でもあったかどうか」
彼女は、鏡の中の見知らぬ美女から、目を離せずにいた。
*
衣裳部屋の扉が、静かに開いた。
黒のタキシードに身を包んだシンが、そこに立っていた。
彼にとって、婚礼の装いは、これが初めてではなかった。前世でも一度、彼は式を挙げている。決して華やかなものではなかったが、妻は嬉しそうに笑っていたし、親族も打ち解けて、皆に心から祝ってもらえた、あたたかな結婚式だった。
その記憶を胸の奥にしまったまま、彼はいま、二度目の花嫁の前に立っている。
二人は、向かい合った。
シンは、何も言えずに、ただ立ち尽くしていた。
「……あの」
「……なんじゃ」
「……言葉が、出ません」
「それは、褒めておるのか」
「世界一です」
即答されて、エルミニアはヴェールの下で、耳まで赤くなった。
やがてシンは、ひとつ息を吸って、姿勢を正した。
「エルミニアさん。式の前に、一つだけ言わせてください」
その声の調子が変わったのを、彼女は敏感に察して、口をつぐんだ。
「僕は昨日まで、この世界ではお客さんでした」
彼は庭のほうへ、ちらりと目をやった。芝の上には、勇者とその仲間たちが、いまも座り込んでいる。あの赤髪の少年は、爺さんの空けた穴を埋めるために、命がけでこの森まで辿り着いた。誰かの死を本気で悲しみ、本気で埋めようとして動いていた。
「あの人たちは、命を懸けてるんです。この世界に。魔王が四人いて、勇者が四人いて、毎日どこかで、誰かが死んでる」
「――僕は懸けてなかった」
その口調に、自嘲の色はなかった。ただ、静かに事実を確かめるような響きだけがあった。
「面白いなあ、すごいなあって、外から眺めて、美味しいものを食べて、笑ってました。この世界を、まるで前世で読んだ物語みたいに、消費してたんです」
そして彼は、それが何であるかを、自分の口で言った。
「……前世の僕と、同じでした。自分のことばかりで、当事者になろうとしなかった」
彼女は、その言葉の底に沈むものまでは、まだ知らない。だが、シンの横顔にふとよぎった翳りを、見逃しはしなかった。
「でも、あなたと結婚して、これから共に生きていくと誓おうとしたときに――それじゃ、ダメだと思ったんです」
彼は、まっすぐに彼女を見た。
「だから、今から僕は、シン・クラウエルと名乗ります」
エルミニアの睫毛が、ふるりと震えた。
「僕はこの世界に家も名前も、帰る場所も持っていません。丸山信は地球に置いてきました」
「――あなたの名前の半分を貰います」
彼は、深く頭を下げた。
「そして、この世界の住人として、あなたと共に生きていきます」
言い終えて、彼はゆっくりと頭を上げた。
その顔には、もう先ほどの翳りはなかった。前世で置いてきたものと、この世界で拾い上げたものと、そのどちらもを腕に抱えたまま、それでも前だけを見ようとする、一人の男の顔だった。
*
エルミニアはヴェールの下で、しばらく動かなかった。
長い年月、彼女が見送ってきたのは、いつも去っていく背中だった。弟子は一人前になれば巣立っていき、心を許した数少ない知己も、みな彼女より先に朽ちていった。誰もがこの森を通り過ぎ、彼女ひとりが、いつまでも研究机の前に残されつづけた。
その骸森へ、外から来た男が、いま「ここに残る」と言っている。
「…………うむ」
掠れた声が、ヴェールの内側から零れた。
「やる」
彼女は顔を上げた。濡れた紫紺の瞳が、まっすぐに彼を捉える。
「クラウエルの名はな、ワシが長い年月、共に歩んできた名じゃ」
「軽くはないぞ」
「……はい」
そして彼女は、笑った。
この日、いちばん綺麗に。
「二人で持てば半分じゃ」
その一言を聞いたとき、シンの胸の奥で、長らく凝りついていた何かが、ふっとほどけていくのを感じた。前世で背負いきれずに落としてしまったものを、この人はいま、当たり前のように半分ずつ持とうと言ってくれている。彼は下げていた頭を上げて、たった一言、「はい」とだけ答えた。
*
庭の中央で、花嫁が杖を掲げた。
準備も、長い詠唱も要らなかった。彼女がやると決めれば、それで足りる。
『無窮の魔杖』の先端で紫の結晶が脈打ち、二人の足元から、淡い光の環が幾重にも立ちのぼっていく。魂と魂を縫い合わせる古の術式が、静かに、確かに、その形を結んでいった。
その光のなかで、シンは、隣に立つ花嫁の横顔を見ていた。ヴェール越しの頬が上気して、長い睫毛がかすかに震えている。世界で最も強い魔女が、これほど心細げに、これほど幸せそうに笑うのを、彼のほかに知る者はいない。
光が、天へ昇って消えた。
――拍手が湧き起こった。
十六体のメイドが手を打ち鳴らし、セバスチャンが銀盆を胸に当てて一礼する。庭の隅では、いつのまにか集まっていた十体の竜たちが、事情も分からぬまま尻尾を振り回していた。
そしてイグニス・バロウが、寝転がったまま、片手を天に突き上げて叩いていた。
「――なんだよ。よかったじゃねえか」
その隣でヴァルド・オルセンもまた、拍手をしていた。ただし、その手はかたかたと震えていた。手を止めたが最後、この場で何をされるか分かったものではない、と本能が告げていたからである。
*
やがて、暇乞いをしようと腰を上げた勇者一行の前へ、花嫁衣裳のままのエルミニアが、すっと歩み出た。
庭の空気が、音もなく、氷点下へと沈んでいく。
「――シンのことは、誰にも言うな」
純白のドレスをまとった魔女の瞳の奥で、深淵の色が、ちらりと覗いた。
「言えばワシは、お主らを探す。そして、その先は……言わんでも分かるな?」
勇者一行は揃って、これ以上ないほど深く首を縦に振った。
――そうして彼らは当面のあいだ、このことを誰にも語らずにいたのだった。
第二十話 了
次回、第一章の最終回です٩( ᐛ )و




