第十九話「あんたはどうなんだ?」
誰も、口を開かなかった。
朝から続いていた騒ぎが嘘のように、『結界の楽園』の庭は静まり返っていた。冷めきった紅茶のカップと、手のつけられていない三段の菓子皿と、芝の上に転がったままの聖剣。頭上の結界を透かして降りてくる光は、いつのまにか橙に色を変えていて、白いクロスの端に長い影を落としている。
庭の中央では、シンは立っていた。
誰も、それを止められなかった。四度も殺され、四度も戻された勇者一行の四人は、土下座した姿勢のまま、その背中を見上げているほかなかったのである。
やがてイグニス・バロウが、のろのろと膝を起こして立ち上がった。
彼は膝についた芝の屑を、ぱんぱんと払い落とした。手はまだ震えていたし、ふくらはぎには力が入らなかったが、それでも彼は立ち上がった。それが彼という男の、たったひとつの取り柄だからである。
「……世話になったな」
搾り出すようにそう言うと、彼は聖剣を拾い上げて、背へ担ぎ直した。ダウグリムが慌てて立ち上がり、フィッチャーが涙を拭い、ヴァルド・オルセンはまだ自分の両手をじっと見つめていた。
結界の出口へ向かって、イグニスは三歩ほど歩いた。
――そして、ふと、振り返った。
この男は、頭で考えるより先に口が動く。三日も森の中で迷い、方位を失い、それでも「行って確かめりゃいい」と言って歩きつづけた男である。遠慮という語彙を、彼はそもそも持ち合わせていなかった。
「――なあ」
橙色の光の中で、赤い髪が揺れた。
「あんたは、どうなんだ?」
「魔女さんよぉ…」
テラスの椅子に腰かけたまま、頬に手を当てていたエルミニアが、その声に顔を上げる。
「その男が、『俺のもんだ』って言ってたけどよ」
イグニスは、なんの含みもない顔で、まっすぐに彼女を指さした。
「あんたは、どうなんだ、って訊いてんだよ」
*
庭にいる全員が、彼女を見た。
メイドたちが動きを止め、セバスチャンが銀盆を胸に抱いたまま静止し、勇者一行の三人が芝の上から見上げてくる。
そして、シンが、ゆっくりと顔を上げた。
彼もまた、彼女を見ていた。
逃げ場は、どこにもなかった。
エルミニアの喉が、小さく鳴った。
(……わからぬ)
(何を言えばよい。どう言えばよいのじゃ)
彼女は、この二千年というもの、あらゆる問題を力で片づけて生きてきた。魔獣も国も災害も、押しかけてきた者も、追い払うか黙らせるか、あるいは自分が姿を消せば、それで終わった。
そのため、相手に対して何と返答すべきかという選択肢を、彼女はこれまでの人生であまり必要としてこなかった。
(ワシは、こんな長い年月を生きておいて――こんなものの言い方など、したことは…あまりなかったのう)
膝の上に置いた褐色の手が、僅かに汗ばんでいた。
術式の一片も乱れたことのない指先が、いま、小刻みに震えている。最強の魔女と呼ばれ恐れられたエルミニアが、たった一言を口にできずに、椅子の上で固まっていた。
彼女は、そっとシンを見た。
彼は、何も言わなかった。
助け舟も出さず、代わりに答えることもせず、急かしもせず、ただ静かに、そこに立って待っている。おかしなもので、その沈黙が彼女にはいちばん怖かった。
(……シンは、いつも言うてくれた)
(出会うた日から、ただの一度も隠さなんだ。好きじゃ綺麗じゃ離したくない、結婚してくれと――こやつは思うたことを、片端から全部、口に出しおった)
(そのたびにワシは、うるさい…と言うて、頭を叩いてそっぽを向いて)
(……ワシは半年じゃ。半年のあいだ、シンに何ひとつ、返しておらん)
彼女の喉が、また鳴った。
二千年以上である。年月を数えるのをやめてから、さらに何百年かが過ぎている。
その途方もない時間のなかで、彼女は数えきれぬほどの人間を見送ってきた。師と呼んでくれた者も、弟子と呼んだ者も、共に杯を交わした者も、みな例外なく老い朽ち、土へ還っていった。骸森の外へ出るたび、街並みは変わり言葉は変わり覚えていた顔は誰ひとり残っていなかった。
だから彼女は、覚えるのをやめた。名を尋ねるのをやめ、情を寄せるのをやめ、いつしか悲しむという機能そのものを、静かに手放してしまった。それが、二千年を生きるための、ひとつの作法だったからである。
――それが、彼女にしてみれば、わずか半年で崩れた。
(朝、この男が起こしに来る。飯を作る。上手い菓子を寄越す。くだらぬことで笑う。ワシの研究の話を、目を輝かせて聞きおる)
(それだけじゃ。ほんに、それだけのことじゃ)
(……それだけのことで、ワシはこんなにも――)
彼女は、そこで、自分の思考を殺すことができなかった。
*
橙の光が、彼女の銀髪を、静かに撫でていった。
「…………うむ」
それが最初の一音だった。
自分の声とは思えぬほど、掠れていた。
「ワシは……」
エルミニアは、膝の上で震える手を、きつく握りしめた。
「――ワシは、こやつのものじゃ」
言ってしまった。
庭がしんと静まった。
メイドたちの誰ひとりとして、身じろぎすらしなかった。
そこで止めておけばよかったのだ。それだけ言って、あとは顔を覆って塔へ逃げ帰れば、彼女の体面は、どうにか保たれたはずだった。
だが、彼女は止まれなかった。
堰き止められていた何かが、たったひとつの穴から、押し合いへし合い溢れ出してくる。
「じゃが、こやつも…ワシのものじゃ!」
彼女は顔を上げて、勇者を睨みつけた。
「そこは、間違えるでないぞ」
乙女と、エルミニアにも分からない何かが、まったく同じ一息の中から流れ出した。
イグニス・バロウは、ぽかんとしていた。ダウグリムは石像のように固まり、フィッチャーは口を半分開けたまま瞬きを忘れ、ヴァルド・オルセンに至っては、両手で口元を覆ってしまっている。
そして、エルミニアは、勇者から視線を外した。
彼女は、まっすぐに、シンを見た。
この男が聞いていることを、はっきりと知ったうえで、彼女は口を開いた。
「シン」
「ワシは、もう、お主がおらぬと、ダメみたいじゃ」
風が、芝を撫でて通り抜けた。
その一言を吐き出したとき、彼女は自分でも驚くほど、あっけないものだと思った。長い年月をかけて編み上げた術式よりも、千年をかけて張り巡らせた結界よりも、たった十数文字のこの言葉のほうが、よほど重く、よほど怖く感じたというのに。
口に出してしまえば、なんのことはない。
ただの事実であった。気づいてしまったのだ。
自分自身の気持ちに……
「……独りで平気じゃったのにな」
彼女の声は、笑おうとして途中で失敗した。
「お主が来て以来、もうすっかりダメになってしもうたわい」
彼女はずっと独りだった。独りで足りていた。塔に籠もり術式を組み、失敗しては書き直し、そうやって季節がいくつ通り過ぎても、寂しいなどと考えたことすらなかった。
そんなエルミニアが、いま、たった半年で独りではいられないと、自分の口で認めていた。
しかも勇者の前で、メイドたちの前で、何より…当の本人の前で。
もう取り消せない。誤魔化すことも、忘れたふりをすることも、明日になって「あれは冗談じゃ」と言い張ることも、この場にいる全員が聞いてしまった以上、二度とできない。
――彼女は自分の逃げ道を、自分で焼き払ったのである。
エルミニアは、目を伏せた。
そして蚊の鳴くような声で、最後の一言を落とした。
「……シンよ、責任を取れ」
*
芝を踏む音が、近づいてきた。
顔を上げる暇もなかった。
シンが、彼女を抱きしめた。
「――何を言っているんですか?」
耳のすぐそばで、そう聞こえた。
「そんなの当たり前じゃないですか。責任は取りますよ。エルミニアさんと初めて会った時から、そのつもりでしたからね」
エルミニアの身体が、硬直した。
二千年以上、エルミニアに寄り添える者は、一人もいなかった。恐れて近づかなかったか、あるいは寿命が尽きてしまったのか、どちらかだった。だから彼女は、こういうとき、人がどうするものなのか、どうすればいいかわからなかった。
背中に回された腕は、力強くはなかった。ただ、確かに彼女を包んでいた。彼の体温と、微かな菓子の甘い匂いと、思っていたよりずっと速い心臓の音が伝わってくる。
(……シンも、緊張しておるのか)
(ふふ。……なんじゃ。ワシと、同じではないか)
彼女は、動けなかった。
両手を宙に浮かせたまま身を強張らせて、ただ立ち尽くしていた。
やがて、その手が、おそるおそる、彼の背中へと伸びていった。指先が服の布地に触れ、たどたどしく彼の背を探り当てて、そっと回される。
そして、その手は――そのまま、離れなくなった。
しばらくして、シンが遠慮がちに口を開いた。
「……あの、エルミニアさん。そろそろ」
「ならん」
「あの、勇者さんたちが、まだそこに」
「ならん」
「メイドのみんなも見てますし」
「ならん」
「あの、そろそろ日が暮れて」
「――ならんのじゃ!」
彼女は、彼の胸に顔を埋めたまま、頑として動かなかった。
(離せるものか。離せば、シンが、ワシのシンが消えてしまうかもしれん)
(ワシは、言うてしもうた。誰にも言わなんだことを、言うてしもうた)
(――ならば、もう離さぬ)
*
そして、それが延々と続いた。
勇者一行は、正座を崩した。それから胡座をかき、やがてはダウグリムを皮切りに、揃って芝の上へ寝転がってしまった。
メイドたちが、そんな彼らのところへ紅茶を運んでいく。文月がサンドイッチの皿を差し出し、葉月がひざ掛けを配り、セバスチャンが二杯目を丁寧に注いだ。
「お代わりはいかがでしょう。まだ、しばらくかかるかと存じます」
「……あー、うん。もらうわ」
勇者一行の四人は、いつのまにか、この屋敷でいちばん行儀のよい客人になっていた。半日前まで聖剣を抜いて殴り込んできた者たちが、いまや芝の上に寝転がって、菓子をつまみながら、他人の睦言が終わるのを辛抱強く待っている。
橙色だった空が、そろそろ紫がかりはじめていた。
イグニス・バロウは、両手を頭の下で組んで、寝転がったまま空を見上げていた。
「……なあ」
「俺ら、何しに来たんだっけ」
しばらく誰も答えず、やがてダウグリムが、天を仰いだままぼそりと言った。
「……魔女様を、仲間にしに」
「四回くらい死んだと思います。勇者様は、たぶん」
「よくわからんのだがなぁ……」
フィッチャーの声には、もはや涙も恐怖も残っていなかった。ただ、疲れ果てた人間の、乾いた響きだけがあった。
ヴァルド・オルセンは、紅茶のカップを両手で持ったまま、ずっと、庭の中央を見つめていた。
魔法学院首席として、彼は多くのことを学んできた。破滅の魔女。深淵の魔女。最強の魔女。国が滅び、大陸の形が変わり、魔王すら手を出さぬと言われた存在。
そんな存在が、いま、男の胸に顔を埋めて、耳まで真っ赤にして離れない。
「……それにしてもあの方が、最強と言われた魔女ですか」
彼は、生涯でもっとも正直な感想を、絞り出した。
「……ただの、恋する乙女にしか見えないのですが」
*
ようやく彼女がその腕をほどいたのは、空の紫が濃くなり、結界の膜が夜の色を映しはじめた頃だった。
エルミニアは、真っ赤な顔のまま、二、三度、咳払いをした。
言ってしまったからには、けじめをつけねばならない。エルミニアの矜持が、その一点だけは、彼女に踏ん張らせていた。
「……シン。ならば、ワシと――」
その唇に、彼の指が、そっと触れた。
「待ってください」
彼女の言葉は、そこで止まった。
「その先は、僕から言わせてください」
シンは、彼女の左手を取った。
夕闇のなかで、その薬指に嵌まった銀の指輪が、小さく光を返した。半年前、彼がこの家で錬成し、真顔で嘘をついて、彼女に嵌めさせたものである。
その指輪の本当の意味を知る者は、この庭に、まだ一人もいなかった。
そして彼は、芝の上に片膝をついた。
――半年前、彼はこの家で、出会って半日しか経っていない女に求婚した。あのとき彼女は白目を剥いて気絶し、何ひとつ答えられぬまま、その日はうやむやに終わってしまった。
同じ庭で、同じ男が、同じ女を見上げていた。
シンの胸のうちには、この瞬間、ひとつの記憶だけが灯っていた。
病室の白い天井と、痩せた手と、最後まで外されなかった小さな指輪。伝えるべき言葉を口にできなかった。あのとき彼が失ったものは、どれほど働いても、どれほど悔いても、二度と戻ってはこなかった。
だから彼は、二度目の生では、思ったことを片端から口に出すと決めた。恥ずかしかろうが、みっともなかろうが、笑われようが構わない。
言わなければ、伝わらないのだ。
「エルミニアさん」
その声から先ほどまでの牙は、綺麗に消えていた。勇者へ向けた「俺」ではない。この半年、彼女だけに向けつづけてきた、いつもの彼の声だった。
「僕と、結婚してください」
*
エルミニアの身体が、ふらりと傾いだ。
「――気絶しないでください! エルミニアさん!」
慌てて伸ばされた彼の腕を、彼女は片手で押しとどめた。
「……気絶などせぬわ」
膝に力を入れ直し、彼女は、自分の足で立った。
「今度は、気をしっかり持っておるぞ」
エルミニアは、深く息を吸い込んだ。
そして、彼女は答えた。
その声からは、あの尊大な語尾が、すっかり抜け落ちていた。
「…………はい、喜んでお受けします」
庭が、静まり返った。
次の瞬間、十六体のメイドが、一斉に拍手をした。
セバスチャンが銀盆を胸に当て、静かに深々と腰を折る。
そして芝の上に座り込んだままの勇者一行は、何が起きたのかもよく分からぬまま、それでもつられて、ぱちぱちと手を叩いていた。
拍手のなかで、エルミニアはうつむいたまま、真っ赤な耳を隠すこともできずに立ち尽くしていた。
二千年以上である。
その終わりが、ずいぶんと呆気なく、そして、ずいぶんと騒がしくやってきたものだと、彼女はぼんやり思った。
第十九話 了




